第110話 喉に刺さった魚の小骨のように
「……メルティア様。大変歩きにくい上に人目が気になるので、腕を離してくださると嬉しいのですが。こんなに早足じゃ、あなたもついていくだけで大変でしょう」
これはただの優雅な散歩ではない。
メルティア王女の体力増強を目的としているため、歩いているといっても限りなく早歩きだった。そのため王女も、必死に早歩きしながらクラウスの腕に腕を絡ませているという、傍目から見るとなんとも奇妙なことをしていた。
だが王女も負けていない。
「絶対に嫌!」
ツーンとそっぽを向かれて、クラウスがハァとため息をつく。
「すまない、ジネット。手助けで来たつもりが、何やらおかしなことになってしまった。君にこんなところを見せたくなかったのだが……」
「いいんですよ! 王女殿下がやる気を出してくれたのは紛れもなくクラウス様のおかげです」
実際、クラウスが来なければ王女は今もあそこで駄々をこねたままだっただろう。
クラウスとメルティア王女が腕を組むぐらい、大したことではない。……はずだ。
ジネットは一瞬胸をちくりと刺した痛みに眉をしかめた。
(……? どうもこの間から少し不調ですね。筋肉痛でしょうか?)
「でも、わたくし、運動の成果が、少しは、出てきたと、思わなくって⁉︎」
ハァハァと息を切らしながら、王女が必死に言う。気づいたクラウスが、気の毒そうな顔になった。
「ティア様。あまり無理はしないでください。ここであなたに倒れられた方が、よっぽど厄介なのですから」
「なっ! 厄介とはどういうことよ! わたくし、あなたのためにこんなに頑張っているのに!」
「僕はこれっぽっちも頼んだ覚えはありませんよ」
「ひ、ひどい! ひどいわクラウス様!」
キィー! とメルティア王女が怒る。そんな王女を、クラウスはやれやれといった顔で見ていたが、ジネットは気づいていた。
(クラウス様……王女殿下に辛辣な言葉を投げてはいますが、どこか少し楽しそう……?)
その顔からは、かつてルセル男爵家でアリエルや義母に対峙した時のような、心からの嫌悪は感じられない。
(手紙でもメルティア王女殿下のことを褒めていらしたし、それに……クラウス様は王女殿下のことを、『ティア様』とお呼びするのね)
明らかにクラウスは、王女のことを愛称で呼ぶことに慣れていた。
ジネットがじっと考えていると、気づいたクラウスがこちらを向く。
「大丈夫かい、ジネット。先ほどから黙り込んでいるけれど、もしかして疲れた?」
言いながら、空いた片方の手でジネットをギュッと抱きしめてくる。
「い、いえ」
「ちょっと! わたくしが隣にいるのに見せつけないでちょうだい!」
叫ぶ王女に、クラウスが笑った。
「見せつけるのはここからだが?」
そういうと、彼は素早くジネットのおでこに口付けを落としたのだ。
当然、王女が憤慨する。それを見てクラウスはまた笑っていた。
ジネットは口付けられた頭を照れたように抑えながら、頬を赤らめていた。
(私ったら、一体何を気にしているのかしら。クラウス様はこうやって、いつどんな時でも私を優先してくださっているのに……!)
そう思うのに、頭の中ではまだ先ほどのクラウスの瞳が忘れられない。
それは喉に刺さった魚の小骨のように、ずっとジネットの頭の隅に残り続けたのだった。
◆
「――それで、そろそろ仕上がって来た、のかしら?」
パブロ公爵家のタウンハウス。
優雅にお茶を飲むクリスティーヌ夫人を前に、ジネットは力説した。
「はい。空手の型もかなり様になってきましたし、散歩も最後まで何の不安もなく終えることができました! 貧血を起こすこともぐっと減り、顔色も大変よくなったように思います!」
この一か月。
メルティア王女は毎日ジネットと一緒にコツコツ運動を重ねたおかげで、体調はだいぶ改善の兆しを見せていた。
元々張りのある声はさらに力強くよく通るようになり、青白く不健康そうだった頬も乙女らしい赤みを取り戻している。
以前のメルティア王女はいかにも病弱で儚げな美人だったものの、今はそこにみずみずしい生気が加わり、まさに花盛りの美しさと言えた。
「では、舞踏会に出席しても問題はないと?」
クリスティーヌ夫人の問いに、ジネットが力強くうなずく。
それを見た夫人は、
「……ふっ。ふふふっ」
と、口を手で押さえて笑い始めたのだった。
「一体何がそんなに楽しいのかね? 我が麗しの妻よ」
そこに、この屋敷の主であるパブロ公爵がやってくる。クリスティーヌ夫人はなおも笑いながら、夫に向かって微笑みかけた。
「ふふふっ。聞いてちょうだいレイトン。今ジネットと一緒にマリーの話をしていたのだけれど」
「ああ、例の王女殿下の件か。その後。クラウスくんは無事に帰って来たのかね?」
「まだよ。まさに今、そのための作戦を遂行中なんだもの。でもねぇ……ジネットったらおもしろいのよ。あのワガママなマリーに、なんと〝空手〟をやらせることに成功したのですって」
「カラテ?」
首をかしげるパブロ公爵に、ジネットは目を輝かせた。
「はい!!! 空手というのは極東の島国に伝わる護身術でして、体力増強に大変もってこいなのです!」
言って、ジネットは両手の拳を交互に「セイッ! セイッ!」と突き出した。
パブロ公爵が目を丸くする。
「王女殿下がやったと? それを?」
「ねぇ本当に面白いでしょう? ふふふ、これもジネットだからこそなせる業だわ。普通の令嬢だったらマリーに空手をやらせるなんて、絶対に無理だもの。一体何をどうしたらそんなおもしろいことをできるのかしら」
言いながら、夫人はまだ笑っている。どうやらよっぽどツボに入ってしまったらしい。
ジネットは照れた。
「そんな大したことはしていないんです。空手も、クラウス様とのダンスを餌に釣ったようなもので……!」
「それで釣れるあたりもおもしろいのよ」
「だが、王女殿下に空手をやらせることとクラウスくんの救出に、一体どういう関係があるんだい?」
困惑顔のパブロ公爵に尋ねられて、ジネットとそれからクリスティーヌ夫人は顔を見合わせてニッと笑った。