第109話 空手
交互に拳を突き出しながら、ジネットが輝くような笑顔で言う。
「カ、カラテ……?」
「はいっ! 空手は極東の島国に存在する打撃技を特徴とする武道! 全身のあらゆる部分を駆使した、体力増強にはもってこいの護身術なのです!」
――それは以前、父の仕事の付き合いで我が家に滞在していたかの国の商人から教わったものだった。
いわく、かの国では子供が幼いうちから師匠をつけて習わせるらしい。
ジネットも興味津々で教えてもらったのだが、確かに体幹を鍛え、そして体力をつける効果があったように思う。
現在のジネットが日々無尽蔵の体力で駆けずり回れるのも、幼い頃に習い、そして時々ひとりでこっそりと継続しているこれがあったからこそかもしれない。
だから、今回の体力増強のことを考えた時に真っ先に思い浮かんだのが〝空手〟だった。
ジネットの口はまだ止まらない。
「空手には様々な〝型〟と呼ばれるものがあり、〝型〟によって実に様々な部分を活用します! さらに子供からお年寄りまで、それぞれに合ったペースで行えるので、メルティア王女殿下にもぴったりなのですよ!」
言いながら、ジネットの両手は止まらない。 ビュッ! ビュッ! と切れのある拳が宙を切る。
「さぁメルティア王女殿下も! ご一緒に!」
キリッ! とした目を向けられて、王女も戸惑いながらも真似をする。
「こ、こうかしら?」
「そうです! その調子です! さぁ拳とともに、腹の底から声を出しましょう! セイッ! セイッ!」
「せ……せいっ! せいっ!」
ひょろひょろとしたパンチが、メルティア王女から放たれる。ジネットはそれを満足そうに見ると、また意気揚々と声を張り上げた。
「では次は上段突きです! 上に向かって、セイッ! セイッ!」
「せ、せいっ! せいっ!」
繰り返される動作に、メルティア王女が必死についていく。
部屋に響く不思議な掛け声に、その場にいた侍女たちは顔を見合わせて、それから諦めたように首を振ったのだった。
それから毎日、ジネットとメルティア王女の〝空手〟は続けられた。
日を重ねるごとに正拳突きの回数は少しずつ少しずつ増やされ、そしてしばらくして慣れて来たところで、今度は新たに散歩が追加された。
「外は嫌よ。日差しが眩しいし、わたくしの肌が焼けてしまうじゃない」
「日差しは日傘を差せば問題ありません! こちらの遮光性抜群の日傘をどうぞ!」
サッと差し出される傘に、王女が嫌そうに顔をしかめる。
「……もしかしたら足が痛くなるかも。わたくし、そんなに長時間外を歩いたことがないから」
「そちらも心配ご無用です! こちらのルセル商会特製ブーツがございますから!」
またまたサッと差し出されるロングブーツに、王女がさらに嫌そうに顔をしかめる。
「……準備がいいのね」
「ありがとうございます! 実はこの日のために、空き時間にせっせと新商品を開発していたんです」
ぽっとジネットが頬を染める。
「もし傘を持つのが面倒でしたら日除け機能付きの帽子もございますよ! また、心配なら足が痛みにくくなる膝サポーターもございますし、お庭の虫が心配でしたら少しツンとした匂いはしますが虫除けもございます! さらに体調を考慮して、はちみつレモンをギュッと閉じ込めた飴も用意いたしましたのでぜひこちらを舐めながら歩くことで――」
「もう十分よ!」
とうとうとメルティア王女が根負けした。
「あなたって本当に用意周到というかしつこいというか……! もういいわよ。わたくしが散歩に行けばいいんでしょう散歩に!」
(よかった! 私の熱意が王女殿下に伝わってくれたのですね!)
ジネットは嬉しさに破顔した。
「それで? 靴はこれを履けばいいの?」
言いながら、王女はジネットが用意したロングブーツを指さす。
「はい! この靴はルセル商会でも最近取り扱い始めた新商品で、乗馬靴ではあるのですがそれだけではありません。どうぞ履いてみてください!」
うながされるまま、メルティア王女はロングブーツを履いた。
それから一歩踏み出してみて、形のよい眉がひそめられた。
「……何これ。すごく歩きやすいわね?」
言いながら、不思議そうに自分の足を持ち上げている。
「乗馬靴って言ったけれど、全然重くないわ。以前一度だけ履いた時は重くて歩くのも億劫だったのに」
「はい! こちら靴全体に使用する皮を変えることで、極限まで軽くしてあるんです!」
「それに、なんだか足の裏がふかふかしているからとても歩きやすいわ。まるで……まるで……」
「雲の上を歩いているよう、ですか?」
言葉の続きを、ジネットが拾った。
「そうね……! その表現がぴったり来るかもしれない。一体どうなっているの?」
心底不思議そうに尋ねる王女に、ジネットはますますニッコリ微笑んだ。
「実は、靴底に衝撃吸収をする特別なソールを入れているんです。その中身は秘密ですが、歩いた時の差は歴然ですよ!」
「確かにこれならどこまでも歩けそうね……」
「それはよかったです! 今日は王宮の端から端までお散歩しようと考えておりましたので、それなら安心ですね!」
端から端まで、という言葉に王女がギョッとする。
「ま、待ちなさいよ! 初めての散歩でいきなりそんなに歩かせる気⁉︎ 王宮が一体どれくらい広いと思っているの!?」
「そうですか……?」
(えっと、王宮の端から端までどれくらいあったかしら……?)
一生懸命思い出そうとしている横では、王女がすさまじく嫌そうな顔をしている。
「とにかく、わたくしは嫌よ! どんなに便利なものがあっても絶対に嫌! そんな長時間歩かなきゃ行けないなんて、考えただけでも恐ろしいわ!」
「そ、そんなぁ……!」
そこに、くすくすという笑い声が聞こえた。
振り向いて、ジネットが顔を輝かせる。
「あっ、クラウスさ――」
だがそれより早く、メルティア王女が叫びを上げた。
「クラウス様っ!」
かと思うと、王女が跳ねるようにしてクラウスの方に駆け寄っていく。
そのままガバッと勢いよくクラウスに抱きつこうとして――ガシッとクラウスに両肩を掴まれて止められた。
「おっと。メルティア様は今日も元気でいらっしゃいますね」
ニコニコしながらも、王女を押しやる手の力を緩めない。
そのまましばらくメルティア王女はぐぐぐ……と抱きつこうと奮闘していたが、最後には力負けしたようだった。
「クラウス様のケチ。少しハグするぐらいいいじゃない。挨拶よ、挨拶」
「……」
だがクラウスは微笑んだまま何も言わない。……その瞳が笑っていないあたりからして、どうやら過去にそう言ったメルティア王女に騙されたことがあったらしい。
「それよりも」
気を取り直してクラウスが言った。
「ジネット。どうやらティア様は散歩には行かないようだから、僕と一緒にふたりで散歩に行こうか」
なんて言いながら、ニッコリと腕を差し出してくる。
「クラウス様とお散歩に……? はい、ぜ――」
ぜひ、と言いかけたところで、またもやメルティア王女の叫び声が上がる。
「わたくしが行くわ!」
差し出されたクラウスの腕に、蛇のように素早く自分の腕を巻き付ける。クラウスが顔をしかめた。
「……ティア様、この腕はジネットのためのものであって、あなたのためのものではないのですが」
「ふん! そんなの知らないわ! 早い者勝ちでしょう⁉︎」
「あのですね」
クラウスの目がスゥ……と細くなったのを見て、ジネットはあわてて間に入った。
「そ、それならみんなでお散歩に行きましょう!」
クラウスは普段紳士だが、時に容赦がないことを思い出したのだ。
(もっとも、メルティア王女殿下はそんなクラウス様でも平気かもしれませんが……)
チラリと様子をうかがうと、王女は鼻を鳴らしていた。
「みんなで? わたくしはクラウス様とふたりで行きたいのだけれど」
「ジネットがいなければ僕は行きませんよ」
その言葉に、王女はおとなしくなった。
「……しょうがないわね。みんなで行ってあげる」
(やっぱり、王女殿下は冷たくされているのに慣れている気がします……!)
さすが、強引にクラウスを王宮に軟禁するだけある。
ちょっとやそっと冷たくされたところで、王女は全然平気なようだった。
こうして、ジネットとクラウス、それからメルティア王女も含めた三人の、奇妙な散歩が始まった。