第106話 圧倒的な運動不足
〝圧倒的な運動不足〟
その単語に、メルティア王女が「はぁ?」と顔をしかめる。だがジネットも負けていない。
「私、知っているんですよ! 王女殿下は毎日まったく、まっっったくと言っていいほど、運動をしておられませんよね?」
――クラウスから聞いた、王女の一日の行動パターンはこうだ。
朝、起きて朝食を食べた後に愛猫であるブランシュと遊ぶ。
飽きたら刺繍をしたり、歌を歌ったり、クラウスにちょっかいを出しにいったりする。
昼、昼食の時間がやってくるとそれを食べ、終わった後はひと眠り。
起きた後はまた猫と遊ぶ。
勉強がある日は勉強をして、ほどよい頃合いになったらアフタヌーンティー。
終わったらまたクラウスの様子を見に行く。
それも飽きたら自室で読書。
夜、そうこうしているうちに夕飯の時間となり、終わった後はお風呂や身だしなみを整えることに時間を使う。
そして一日の予定がすべて終わったら就寝だ。
メルティア王女はまさに深窓の令嬢として、蝶よ花よと育てられていた。
「いわく、王女殿下は庭での散歩すらしないとのこと! 本当ですか!?」
ジネットの言葉に、メルティア王女が唇を尖らせた。
「だってしょうがないじゃない。わたくし長く外にいると倒れてしまうんだもの」
「それは違いますぞ姫様」
そばで聞いていたジャキヤ侍医が、しかめ面で進み出てくる。
「昔から何度も何度も何度も言っておりますが、姫様が倒れたりめまいを起こしたりするのは貧血もありますが、それ以上に兎にも角にも圧倒的な体力不足が原因なのです! それだけ引きこもっていれば、健康な人間も不健康になってしまいますわい!」
「んもうジャキヤ、本当にうるさい!」
しっしっ! と虫でも追い払うかのように、メルティア王女が手を振る。
「別に体力がなくたって構わないわ! だって疲れたら休めばいいんだもの。わたくしは困ってないから運動なんかしない!」
ぷいとを顔を背けて拒否するメルティア王女に、ジネットが困ったように言った。
「でも、体力がつけば色々なことができるんですよ? 王宮にある庭園はどれも本当に美しくて見事です。お散歩すれば四季折々の花々を愛でられますし、ピクニックにでかけ、季節の植物や風に触れることも、とても心楽しい経験になるでしょう。ぽかぽかの陽気の中、ひなたぼっこするのも気持ちいいですよ」
「結構よ。花は侍女たちが毎日摘みたてを飾ってくれるし、風に触れるならそこの窓を開ければ十分入ってくるわ。ひなたぼっこだって、この部屋の明るさを見たでしょう? わざわざ外に出る必要はないもの」
ふぁさっと白金の髪をかきあげながら、メルティア王女が興味なさそうに言う。
「何か欲しいものがあればお父様やお母様、お兄様たちが手に入れてくれるし、それは物であっても人であっても変わらないわ。現に、あなたたちの演劇だって王宮内で上演させた。大道芸人だって、踊り子だって、サーカスだって、わたくしのほしいものは何でもこの王宮内で手に入るのよ。別に体力なんかつける必要ないわ」
「本当にそうでしょうか?」
ジネットがゆっくりと言った。
その言葉に、メルティア王女がじろりと睨む。
「何よ。そんなに突っかかってくるのなら、あなたは見せてくれるの? わたくしが手に入れられないものを」
ジネットはにこりと微笑んだ。まるで、最初からその言葉を待っていたかのように。
「もちろん用意してきましたとも! サラ、お願い」
ジネットが見ると、サラは力強くうなずいた。
それからサラが、先ほど運んできたグランドピアノの前にサッと座る。
「お嬢様! 準備万端です!」
その言葉に、今度はジネットがうなずく番だった。
ジネットはすばやく着ていた侍女服の腰紐をほどくと、その場で勢いよくくるりと一回転した。
すると、その動きに合わせるように、今までエプロンだと思っていた布が裏返って左右に広がり、そこから夏の夜空を思わせるような美しいドレスが現れたのだ。
「!?」
さすがのメルティア王女も、突然現れたドレスに驚きで目が丸くなる。
「なっ何!? どうなっているのそれ!?」
「実はですね! この特性侍女服の中に、ドレスを仕込んでいたんです! 使用した生地はマセウス商会の目玉商品、オーロンド絹布でして!」
言いながら、またひらりと舞ってみせる。
太陽光を存分に浴びたオーロンド絹布はキラキラと輝き、夢のような輝きを放っていた。
メルティア王女が負けじと言う。
「確かに美しいけれど、それぐらいでわたくしをやりこめたつもり? その布だって、パパに頼めばきっと手に入れてくれるわよ?」
「いえ、本題はここからですよ」
ニコッと微笑んだジネットの隣に、それまで黙っていたクラウスがスッと進み出る。
「ジネット、手を」
「はい!」
ふたりは手を取ると、広い部屋の中で見つめ合った。
「な、何を……」
そこへポロンと流れてくるのは、軽快でありながらも優雅で、ロマンティックなワルツの音色。
弾き手はもちろんサラだ。
その音楽に合わせ、ジネットとクラウスが部屋の中央に滑り出す。
メルティア王女の広々としたティーサロンは、家具をほとんど置いていない。そのため、疑似ダンスホールとしてぴったりだということを、ジネットは事前に調べた情報で知っていた。
突然踊り出したふたりを、メルティア王女や侍女たちは最初あぜんと見ていた。
だがふたりの流れるような身のこなしに、ぴたりと息の合ったステップ。何より、楽しんでいることが心底わかる生き生きとした表情を見ているうちに、気が付けばその場にいる人たちは自然とふたりのダンスに引き込まれていった。
「君とこうして踊るのは、なんだかずいぶん久しぶりな気がするよ」
ジネットの腰に手を回しながら、クラウスが耳元で囁く。
「私もです。そういえば最近お仕事ばかりで、舞踏会はご無沙汰でしたね」
くるり、くるりとクラウスとともに回りながら、ジネットは楽しそうに言った。
腕を絡ませ、視線を絡ませ、時々息が絡むほど顔が近づく。
その度ににふたりは、くすくすと笑いながらステップを踏んだ。ふわりと広がるオーロンド絹布が光を反射し、見ていた人たちの視線を釘付けにする。
「舞踏会のキャンドルに照らされた君も可愛かったが、光の中で踊るジネットも格別だ。このまま面倒なことは全部忘れて、ずっと君と踊っていられたらいいのに」
またそっと耳元で囁かれて、ジネットはくすぐったさに首をすくめた。
「クラウス様、聞こえてしまいますよ……!」
それから考え直して、こそっと付け加える。
「……でも私も、少しだけ同じことを考えていました」
言って、ジネットはクラウスと見つめ合ってふふっと笑った。
このダンスはメルティア王女に見せるための、いわば実演のダンスだ。
けれどそれを含めても、クラウスらしい優しさでリードしてくれるダンスは心躍るものだった。
やがて踊り終えたふたりが、観客たちに向かって優雅に頭を下げる。
「いかがでしたか、マリー様」
クラウスに微笑みを向けられて、それまでぽぅっとダンスに見惚れていたらしいメルティア王女がハッとする。
「おっ、お上手だったわ……!」
クラウスの麗しさに、毒気を抜かれてしまったらしい。珍しく素直に褒めている。
「お褒めいただき、ありがとうございます」
踊り終わったジネットがそっと前に進み出る。
「メルティア王女殿下。クラウス様のダンスはすばらしいものだったでしょう? ……どうですか、王女殿下も、クラウス様と踊ってみたくはありませんか?」
「わたくしが、踊る……?」
戸惑うメルティア王女に、クラウスが優雅に手を差し出す。
きっと今頃、メルティア王女の頭の中には、先ほど見たクラウスの優雅な姿が思い浮かんでいるのだろう。
同時に、そんなクラウスと一緒に踊っている彼女自身の姿も。
――だが、王女はクラウスの手を取らずに一歩後ずさりした。