第104話 一か月半ぶりに見るクラウス様の色気
「……えっ? じねっと?」
メルティア王女が眉をしかめる。
ずっとうつむいていたジネットは、クラウスの声にパッと顔を上げた。
――今日王宮にやってきたパキラ皇国の皇子というのは、もちろんキュリアクリスのことだ。
そしてジネットはキュリアクリスのおともとしてこっそり王宮に入り、キュリアクリスが皆の注目を集めている間に、こっそり侍女服へと早着替えしていたのだ。
あとは打ち合わせ通り、グランドピアノの置いてある部屋のそばで待機し、ピアノを運ぶための人手が必要になった瞬間、素知らぬ顔でその中に混ざりこんだ――というわけだった。
「私も会いたかったです! クラウス様!」
ジネットが見つめる先には、一か月半ぶりに見るクラウスが立っていた。
細められた瞳は潤んでキラキラとし、わずかに頬に朱が差したせいでこの上なく色っぽい。
顔にはとろけるような甘い笑みが浮かんでおり、その美しさと色気を直に浴びて、ジネットはくらくらとした。
(うっ!!! 一か月半ぶりに見るクラウス様の色気、刺激が強い……!!!)
気絶しそうになるのをぐっとこらえ、踏ん張る。
そうしているうちに、メルティア王女がジネットの正体に気づいたらしい。
大きな瞳をこぼれ落ちそうなほど真ん丸にし、ハクハクと口をあえがせた。
「なっ……!!! お、おまえ! この間の! クラウス様の婚約者!」
「はい! ジネット・ルセルでございます!」
元気いっぱいに答えると、メルティア王女がわなわなと肩を震わせ始めた。
「一体どうやって王宮に侵入したの⁉ 誰か、この女をつまみだしてちょうだい!」
「それはですね――」
ジネットが、のんきにも侵入方法を説明しようとした時だった。
クラウスが足早にジネットに距離を詰めてきたかと思うと、ふわりと包み込むようにジネットを抱きしめたのだ。
「く、クラウスさま――んっ!」
それだけでは飽き足らず、クラウスはジネットの唇に唇を押し付けた。
メルティア王女の、その侍女たちの、そしてジネットともにこっそり紛れ込んでいたサラの目の前で。
「んぅ……!?」
さらに、口の中にクラウスの熱い舌が入り込んでくる。
(くくく、クラウス様!? 皆様が見ているのですが!?)
なんて抗議の言葉は、もちろん言わせてもらえない。
絶対に逃げられないよう強く体を抱きしめられ、信じられないことに人々が見ている前で、熱く、あますことなく、口内を蹂躙されていく。
ちらりと視線をやれば、メルティア王女はぽかんと口を開けたまま絶句していた。
当たり前だ。
周りの侍女も同じように絶句している中、ただひとり、サラだけは口を押さえながら満面の笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「ん……! んん……!」
激しい口づけに、だんだん頭がぼぅっとしてくる。
ジネットが息も絶え絶えになった頃に、ようやく正気を取り戻したらしいメルティア王女が顔を真っ赤にして叫んだ。
「そ、そこまでよ!!! わたくしの目の前で、なんて破廉恥なことをしているの!?」
部屋に響き渡る叫び声に、ようやくクラウスが唇を離す。
ただし離したのは唇だけで、あいかわらずジネットの顔に顔を寄せたまま、メルティア王女にちらりと目線を向けている。
既に腰が砕けかけていたジネットは気づかなかったが、その流し目も大層色っぽく、そばで見守っていた侍女たちがごくりと生唾を吞んだ。
「……見せつけていたのですよ。あなたには刺激が強かったですか?」
「なななっなっ……!!!」
「あと、久しぶりにジネットとの逢瀬なんです。ティア様と言えど、邪魔しないでもらいたい」
なんて言って、またジネットに口づける。
「ちょっと!!!」
顔を真っ赤にしたままメルティア王女が絶叫した。
だがクラウスの動きを止めたのは、王女の叫びではなかった。
カクッと、とうのジネットの腰がくだけてしまったのだ。――どう考えても刺激が強すぎた。
「おっと」
ずるずるとへたり込むジネットを、クラウスがすぐさま抱き留める。
「すまない。久しぶりに会えた喜びで、手加減ができなかった」
「いえ、あの、えっと……だいじょうぶ、れす……」
もはや呂律が回っていない。
そんなジネットを、クラウスが愛おしそうな瞳で見つめている。
「ほんっっっっとうに、あなたたちはなんなの!?」
一方、その横で烈火のごとく怒りだしたのはメルティア王女だ。
「突然その女が部屋に侵入してきたと思ったら、目の前でく、く、く、口付けだなんて! しかもあんな破廉恥な!!! あなたたちは何を考えているの!?」
「申し訳ありませんティア様。ジネットのことしか考えていませんでした」
これっぽっちも悪びれた様子なく、クラウスがにこりと微笑む。
「そういうことじゃなくて!!!」
「大丈夫かい、ジネット? 無理をさせてしまったね。座って休憩しようか? それともシャツを緩める?」
拳を握ってぶるぶる震えるメルティア王女を無視して、クラウスがまめまめしくジネットの世話をしようとする。
前髪を描き上げ、あらわになった丸いおでこにぺたりと手を当てられる。
「だ、大丈夫です、あの、少し落ち着いてきましたから……!」
ふらふらしながらも自分の足で立つと、ジネットはきりっと表情を正した。
「このような形で王女殿下の前に現れたことをお許しください」
「お許しくださいだなんて、なんて図々しいの!?」
顔をしかめながらメルティア王女が叫ぶ。そばにいた侍女たちも、口々に「本当ですわ!」とジネットを非難した。
そんな視線にも負けず、ジネットはまっすぐ王女を見た。
「今まで何度も謁見のお願いを出したのですが、まったく聞き入れられなかったので、心苦しくもこのような方法を取らせていただきました」
それは事実だった。
ジネットは何度も何度も手紙を出し、その全部が無視されてきたのだ。
メルティア王女の侍女たちも、そのことに思い当たることがあったのだろう。罪悪感からか、気まずそうに目を逸らしている。
だがメルティア王女だけは、ソファカウチに横になりながらじろりとジネットを見下ろしていた。
妖精めいた外見の美少女から放たれるのは、傲慢で挑むような言葉だ。
「だから何よ? あなた、クラウス様を帰さないことに対して文句でも言いに来たの?」
その態度からは、ジネットに対して申し訳なさなど微塵も感じていないことがわかる。
ジネットはそんなメルティア王女を見て――にっこりと微笑んだ。
「いいえ。今日の私は商人として、王女殿下に提案をしに来たのです!」
「提案……?」
メルティア王女が怪訝そうに顔をしかめた。まさかそんなことを言われるとは夢にも思っていなかったのだろう。
「提案って、何を? しかも、商人としてってどういうこと?」
王女の表情には、「???」がたくさん浮かんでいた。
その気配を感じ取ったジネットが、ますますニコニコする。
「その前にひとつ、王女殿下に確認したいことがあるんです」
「何よ」
「王女殿下は病弱ともっぱらの噂ですが……あなたの病は、〝貧血〟で間違いないですか?」