第10話 全然気づいていませんでした
「僕の聞き間違いかな。いま、『婚約破棄して欲しい』と聞こえた気がしたのだけれど」
なおも表情が死んだまま、クラウスが言った。
「いえ、あっています!」
ジネットが力強くうなずくと、クラウスの形良い口元がひく、と引きつる。
「色々聞きたいことはあるけれど、なぜ急に? 僕たちは仲良くやってきたと思っていたのだが……」
「はい。確かにクラウス様はすばらしい婚約者です。でも、私が駄目なのです。クラウス様にふさわしくないどころか、足を引っ張ってしまっている……! なので、クラウス様に婚約破棄していただくのが、一番いいのではないかと!」
ジネットはさらに力説した。
「クラウス様は、ずっと私のせいで迷惑をこうむっていたでしょう? でも今だったら、『ジネットが家出して身を落とした』とか、『ジネットが他の男と駆け落ちした』とか、何か都合のいい理由を作ってこの婚約を破棄でき――」
「ほかに好きな男がいるのか!?」
ガタタッと音がして、クラウスが立ち上がった。その顔は顔面蒼白になっている。いつも落ち着いて優雅な彼の、こんな表情は初めてだった。
ジネットはあわてて否定する。
「あ、いえ、これはあくまで例え話で」
「ああ、よかった……」
そう言うと彼は安心したようにため息を漏らし、また着席する。そんな姿も初めてだ。
(今日のクラウス様は、なんだかいつもと違うわ……! やはり、お父様の事で動揺していらっしゃるのかしら?)
ジネットがちら、と後ろに立つサラを見ると、なぜか彼女はなんとも言えない生あたたかい笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「それで、私を悪者にしてもらえれば、きっとクラウス様も堂々と婚約破棄ができ――」
「待ってくれ。そもそも僕は、君と婚約して迷惑だと思ったことは一度もない」
「え?」
今度はジネットが驚いて顔を上げる番だった。
「だから当然、婚約破棄をしたいなどと思ったこともない。君を悪者にだなんて、もってのほかだ」
「そう……なのですか?」
一瞬納得しかけて、ジネットははたと思い出した。
クラウスが、ものすごい人格者であることを。
(はっ! いけない。危うく忘れるところだった。クラウス様はお優しい方だから、きっと私を傷つけることを恐れているのね!)
「いえ! 私は悪者で大丈夫です! 私もその方が嬉しいので!」
「その方が……? 君は婚約破棄が、嬉しいのか……?」
途端、今度は彼の顔がサーッと青ざめた。
(……あら? また言葉選びを、間違えてしまった!?)
みるみるうちに元気をなくしたクラウスを見て、ジネットがあわてる。
そんなジネットの背中を、後ろからバシッバシッとどつく人物がいた――サラだ。
何事かと振り向くと、ここぞとばかりにサラがひそひそとささやいてくる。
「お嬢様、私からクラウス様にひとこと発言してもよろしいでしょうか?」
「クラウス様に?」
不思議に思いながらも、ジネットはうなずいた。
「あの、クラウス様。侍女のサラが何か言いたいことがあるそうなのですが」
「彼女が……? どうぞ、構わないよ」
「それでは失礼して」
一歩前に進み出たサラが、すうっと息を吸った。それからクラウスをまっすぐ見据え、言い放つ。
「クラウス様! お嬢様は気づいておられません。全っ然! お気持ちに気づいておられませんよ!」
(お気持ち?)
首をかしげるジネットの前で、それを聞いたクラウスの目が丸くなる。
「……うすうすそんな気はしていたが、まさか本当に? あれだけわかりやすく接していたはずなのに、全然気づいていないんだね?」
「はい?」
(気づくって、何に?)
きょとんとするジネットには構わず、クラウスがサラを見る。すると彼女は力強くうなずいた。
「はい。全然です!」
「なるほど、道理で……。そういう話なら、以前のアレやコレもすべて納得がいく」
(以前の、アレやコレ? ……私、何かしていたかしら?)
頭の中にハテナがたくさん浮かぶ。ジネットには全然思い当たることがなかった。
だがクラウスや、それにサラまでもが何やら納得顔でうなずいている。
「ジネット」
「は、はいっ!」
改めて名前を呼ばれ、ジネットは反射的に姿勢を正す。
目の前に座るクラウスは、なぜか微笑んでいた。
浮かぶ笑みは妖しく美しく、男性とは思えぬ色気に思わずウッと手で目をさえぎる。
そんなジネットに、クラウスは言い聞かせるように、優しくゆっくりと言った。
「君との婚約は、絶対に破棄しない」
「はい……えっ? しないのですか?」
「それから」
そこでクラウスは一度言葉を切った。
「結構わかりやすくアピールしていたつもりなんだけれど……伝わっていなかったんだね。だったら、今後は遠慮せず全力で愛をささやくつもりだ」
「は、はい!?」
(愛!? なにやら予想外の単語が出てきましたね!?)
ジネットはクラウスに婚約破棄してもらいに来たはずなのに、なぜ『愛』などというとんでもない言葉が出てきているのだろう。
一生懸命頭の中で考えていると、クラウスがおもむろに立ち上がった。
それからジネットの元にやってきてひざまずく。
男らしく骨ばったクラウスの長い指が、スッとジネットの手を取った。
「ジネット・ルセル男爵令嬢。僕たちは既に婚約しているが、改めて言わせて欲しい。――ずっと前から君のことが好きだった。だから、僕と結婚しよう」
想像もしていなかった申し出に、ジネットが目を丸くする。
「もちろんこの結婚は家のためなんかではない。君と結婚できるなら、僕は爵位だって手放してもいい。僕は君が好きだから、結婚したいんだ」
「えっ……ええええ!?」
ジネットはお行儀も忘れてつい叫んだ。あまりに想定外すぎて、叫ばざるをえなかったのだ。
後ろではなぜか、嬉しそうな顔をしたサラがぱちぱちと拍手をしていた。