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銭湯戦闘

 銭湯に通い始めてから三十年が経った。地元の温泉を活用した露天風呂が有名な銭湯だ。

 元来、私は風呂好きではない。にも関わらず毎週金曜の十八時に入店入浴を繰り返している。理由は一つ、同時間帯によく現れる女性に私が恋焦がれていたからだ。

 大学時代、アパートの風呂が壊れた為に渋々赴いた銭湯に彼女はいた。歳の頃は私と同じか、風呂上がりの黒髪からシャンプーの匂いを風に乗せて退店する彼女に私は心を奪われた。

 また彼女に会いたいと考えた私は一時期、毎日のようにその銭湯に通った。朝一番に誰よりも早く入浴し、深夜誰よりも遅く退店した。一日中風呂に浸かっていた私の身体はふやけにふやけ、足音までが水気を帯びて妖怪の類と勘違いされることもままあった。しかしその妖怪めいた執念は実を結ぶこととなる。彼女の出没ルーチンが金曜日の十八時であると導き出したのだ。

 すれ違うと香る花の匂いに私の脳は沸騰し、思わず振り返れば腰で揺れる彼女の髪の毛の動きに私は虜である。

 勝手なことであるが、私は彼女を(シズ)と仮称することにした。

 静の存在は私の精神を狂わせた。どうしようなく狂った私は、どうにか彼女の肢体を目に焼き付けたいとまで思うようになった。

 露天風呂に聳え立つ巨大な壁。専門家でないから詳しくはわからないが、何かしらの金属でできているようだった。私とシズの間に聳える壁はあまりにも大きく、見上げれば見上げるほど天高く伸びるようにも思えた。

 普段の私ならば壁の存在を認識した瞬間に大人しく逃げ帰るところであったが、このときばかりはこの困難に立ち向かう心持ちであった。

 覗き穴の一つでも空けてやろう。そう考えてからの私の行動は早かった。

 冬の柚子湯に浮かぶは大量の柚子。二つ三つと拝借しては握りつぶす。果汁がもたらすは爽やかな香りばかりではなく、自然由来の強い酸である。

 サウナに常備されている粗塩。これをタオルに揉み込めばもはやヤスリと変わらない。

 酸とヤスリ。二つの武器を用いて私は壁に穴を空けるべくして動き出した。酸により腐食させた壁をヤスリで削る。周囲に悟られぬよう少しずつ、少しずつ。正直悟られていたと思う。しかしそこは男のサガ。私を咎める人間は何処にもいやしなかった。店員も含めて。

 気が付けば三十年という月日が流れていた。壁の一部は儚くも欠け、薄い。軽く小突けば男湯と女湯を繋ぐ覗き穴は完成へと至るだろう。

 三十年。決して短くはない。フロントで見る静の薬指には指輪、果ては子ども連れ、というか私の横で彼女の息子が身体を洗うこともままある。

 そもそもおよそ五十、さらには人妻である静の肢体を覗いて私はどうなるのであろうか。そう考えると私の手はどうしても一線を越えられずにいた。


 女湯から悲鳴が轟く。超音波のように高い悲鳴は連鎖し、不愉快な共鳴を起こす。壁の向こうで何かが起こっている。あたりを見回せば、皆が皆顔を見合わせてオロオロするばかりである。

 ──動いたのは私だけであった。

 三十年を共にした穴に向けて拳を振るう。鈍い音を立てて亀裂が広がり、人が一人通れる程の抜け穴が空いた。

 女湯には侵入者が二人だ。風呂にそぐわない厚着にナイフを持った暴漢が一人と、もちろん全裸の私だ。私の推参に女湯のリアクションはパニックは極める。シズの声も響いていたが、私の目は暴漢しか捉えていなかった。

 無言で歩み寄り暴漢に拳を振るうが、威力は振るわない。私のような素人のテレフォンパンチなどそう当たらなかった。

 空振った隙をついた暴漢はナイフを私の胸にナイフを突き立てる。しかしナイフは私の皮膚数ミリで止まる。それもそのはず、私の身体にちゃちなナイフなど意味をなさない。

 三十年間粗塩を揉み込んだヤスリのようなタオルで磨いた身体は鋼鉄であり、さらにいえば爽やかな柚子の香りも携えている。

 驚きを隠せない暴漢をよそに、私はナイフを弾き飛ばす。温泉の成分が染み込んだ身体は生傷を治療し、傷口は既に薄皮を張っていた。

 暴漢も喧嘩に関しては私と同様に素人であった。素人同士の闘いであれば勝敗を決めるウェイトは言葉通り体格にある。風呂上がりに飲んだ牛乳の量が一トンを越える私は強固であり、骨太だった。

 体重を乗せた私の拳は暴漢の顔面を潰し、マウントをとって殴り続ける。その感触は硬くも柔らかくもあり、初めての経験はあまりにも不愉快だった。

 銭湯に通って身に付いたこの力は圧倒的である。だが、私が求めていたのはこんな力だったのだろうか。

 私の拳は暴漢を殴る為に強くなったのだろうか。違う。愛する者を抱いて支えるだけの力かあれば良かったのだ。

 ここまで丈夫な身体が必要だったのだろうか。違う。愛する者のワガママを受け止めるだけの屈強さがあれば良かったのだ。

 暴漢は気を失い、静まり返る女湯で私は一人、孤独であった。

 言葉を発さず、振り返ることもなく私は居心地悪く女湯を立ち去ろうとする。


「ありがとう」


 静の声が聞こえた気がした。それを皮切りに、感謝の洪水が起きた。


「ありがとう!」

「助かりました!」

「本当に……ありがとうございます!」


 この瞬間、私は自分の存在が報われた思いだった。私は間違いなくヒーローであった。

 声援に応えるべく私が振り返ると、空を飛ぶ大量の洗面器で顔面を洗われた。

 失いかける意識の中「こっち見るのは違うだろ変態!」という静の罵声が聞こえた気がした。


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