第4話 夢のバトン
◇ ◆ ◇
「俺は恵まれてる。だから夢を追うことが、ぜんぜん怖くない」
颯くんは自信に満ちていた。
わたしは恥ずかしくなって、小さく俯いてしまった。
「そうだよね。だって颯くんは才能に恵まれているもの……」
「才能? いや。そういう意味で言ったんじゃないよ」
「だって今日、大人たちが話してたよ。20年に1人の逸材。全国大会でも表彰台を狙えるって」
「違うんだってば、ゆず」
颯くんは力強く首を横に振った。
「恵まれてるって言ったのは、素質とか才能のことなんかじゃない」
いつも無口な颯くんとは思えない、しっかりとした強い口調だ。
「環境のことを言っているんだよ」
環境……。
「つまりね。子ども時代から陸上一筋で、真剣に打ち込んできた大人たちが、いま俺の周りに、たくさんいるっていうことなんだ。恵まれてるって言ったのは、俺個人の素質がどうとかいうことじゃなくて、そういう、恵まれた環境のことを言っているんだよ」
颯くんは意外にも、たくさんしゃべった。
彼の言い分はこうだ。
今の自分があるのは、
『周りの大人たちが、目をかけて育ててくれている』から。
『結果が出せず辛いときも、しっかり支えてくれている』から。
「それに俺、じつは他校に友達がたくさんいるんだ。まぁ友達っていうか、みんな真剣に陸上やってる、いいライバルたちなんだけど」
同じ道を進む、『同世代のライバルがいる』から。
ちょっと上の、『目標になる先輩がいる』から。
「ひとりで山道を走っていたように見えたかもしれないけど、俺はゆずと違って、全然ひとりぼっちなんかじゃないんだ」
まだ若い顧問の先生は、陸上部の出身。
中学生で身体が未熟な颯くんの将来を見据えて、体に負担をかけない練習メニューを考えてくれているのだという。
知らなかったのだけど、颯くんは小学4年生の頃からすでに、県の強化メンバーに選ばれていた。
週末は必ず、県央競技場の学校合同練習に通っていたんだって。
県内のいろんな指導者に見てもらい、センスを褒めてもらった。
颯くんのお父さんは元陸上選手で、息子のために片道2時間の送迎もまったく厭わなかった。
「俺は両親だけじゃなくて、いろんな大人に育ててもらった。同世代のライバルとは競い合ってるし、応援し合ってもいる。そんな環境にいるから、今日みたいな結果が出せたんだって思ってる」
今日ゴールテープを切れたのは。
みんながいてくれるから。
大人たちは守ってくれた。
ケガをしないように。
子どもの身体で無理をして壊れたりせず、成長した後にも結果をちゃんと出していけるように。
そして、少し年上の先輩やライバルたちの存在には、心が燃えた。
「実は俺、走り始めたきっかけっていうのが、大学駅伝をテレビで観たことなんだ。ほらあの、大学のタスキをかけて走るやつ。それで子どもの頃から憧れの、希望の進学先があるんだけど……、行けるかどうか分からないけど、そこの襷をかけて走るのが今の夢というか、目標なんだ」
そして夢というものは叶うこともあれば、叶わないこともある。
では真剣に走ってきたことは、すべて無駄になるのか?
その人の青春は?
いや、いずれ無駄になるなどと思ったら、誰も最初から夢など追えないだろう。
颯くんには今、何人もの大人たちが、一人ひとりの人生経験をもとに、相談に乗ってくれている。
社会人になったとき、自分が真剣に打ち込んできた経験を活かすなら、人生にはどんな選択肢があるのかと。
そして自分が培ったものを、次の世代へ伝えていく方法。
颯くんが受け取ったように、次の子どもたちへ、バトンを繋いでいく方法を。
だから颯くんは、安心して走り続け、陸上という夢を追い続けることができるのだ。
「……でも、悪いけどゆずは、俺と比べて恵まれていない」
颯くんは、はっきり言った。
「ゆずの周りには、ちゃんとピアノを弾ける大人が、村にひとりもいない」
ゆずの両親はピアノに興味がない。
娘がいくらピアノが好きでも、うるさいから、迷惑だからと言って、消音ピアノや電子ピアノすら知ろうとしないし買わない。
学校に音楽の先生がいない。
村に個人のピアノ教室もない。
才能を伸ばしてあげようと、目をかけて育てようとする大人が、たまたま周りにひとりもいない。
「それなのに、あんなにピアノが上手いなんて、本当にすごいよ、ゆず」
わたしはそのとき、颯くんにだけは話してもいいような気持ちになっていた。
今まで誰にも話さなかった、ピアノの妖精のことを。
「いつも音楽室で、たった独りで毎日練習して、あんなにも、聴く人の胸を打つようになれるなんて……」
「胸を打つ……」
わたしが聞き返すと、それまで真剣に話していた颯くんがハッと息を呑んで、目を逸らした。
その頬が少し赤くなっている。
「そ、そうだよ。……俺、音楽のことはよく分からないけど、ゆずのことは凄いと思ってる」
颯くんはわたしのピアノのことを、誰よりも認めて、真剣に考えてくれていたんだ。
両親よりも、周りの先生よりも、誰よりも。
だから進学のこと、こんなに一生懸命に話してくれたんだね。
「俺、ゆずがピアノを諦めるのは、まだ早いと思うんだ。いちど音楽の道を選んで、ちゃんとピアノが弾ける大人に聴いてもらったらどうかな」
そして進路や、人生の選択肢のことを、いろいろ相談してアドバイスをもらうべきだ。
颯くんは、また真剣な顔つきに戻っていた。
「もし、同じ道を歩いてきた良い大人に出会うことができれば、ゆずの人生もきっと変わる。諦めるのは、それからでも間に合うんじゃないか」
たんに忘れ物の多い男の子だと思っていたのに、知らない間に、ひと足先に大人の世界へ足を踏み入れていた。
今日の颯くんは、昨日までのイメージとは全く別の人だった。
「……違うんだよ、颯くん。わたしも、全然ひとりなんかじゃなかったんだよ」
そうだ。
瑠璃のことを打ち明けてしまおう。
「わたしにだって、ちゃんと……」
「失礼します」
言いかけたとき、ちょうどハンバーグが運ばれてきて、前に置かれた。
熱い鉄皿の上で、じゅうじゅうと音をたて、肉汁が跳ねている。
話すタイミングは失われてしまった。
2人とも黙ってしまって、とりあえず食べようということになった。
ナイフで切り分けた熱いハンバーグを頬張ると、急に涙がこぼれて止まらなくなった。
普段あまり話さない子にピアノを褒めてもらったことは驚いたし、とても嬉しかった。
それと同時に、それまで我慢していた、大切なピアノの妖精を失った悲しみが、急に込み上げてきた。
瑠璃がわたしに与えてくれたもの。
それは途方もなく大きなものだったのかもしれない……。
お店を出て2人で電車に乗った。
颯くんは何も話さず、わたしも涙が止まらなかった。
恥ずかしいから声を出して泣くまいとグッとこらえると、話せない。
話したくても、声が出せなかった。
瑠璃の存在を打ち明けるなら、今しかないのに。
颯くんならば、きっと信じてくれる。
消えてしまった瑠璃を、きっと一緒に探してくれる。
――ところが。
そのとき颯くんが言った言葉は、驚くほど意外なことだった。
「ゆず。旧校舎の音楽室へは、もう行かないで」
わたしは耳を疑って颯くんを見上げた。
颯くんは思い詰めた顔をしている。
「今後、合唱祭の練習は体育館のピアノでしよう。とにかく夏休み中は、ひとりで音楽室へ入っちゃダメだ」
わたしは訳が分からなくなった。
「申し訳ないけど、これだけは聞き入れてほしい。ゆずのためなんだから」




