過去・心の拠所
私が好きになった人は、宿屋の1人息子で、女将さんに似た気のいい人だった。笑うと左側の頬に笑窪ができて、周囲にいる人の心を明るくしてくれる、とても素敵な人だった。
2人で、たくさん話をした。これまでの事、これからの事…私達の未来には、確かに希望があったはずなのに。
戦争が激化し、とうとうこの街にも徴兵の知らせが来た。私の好きになった人は、たった1つ、私に忘れ形見を残して逝ってしまった。私の世界の中心は、名もない1人の兵士として、この世から跡形もなく消えてしまった。
「アンタは、うちのバカ息子が生涯でたった1人愛したあたしの大事な娘だ。お腹の子も、アンタも、あたしが命に代えても守るよ。」
いつも快活な女将さんが、静かに、震える声で、私に言った。
大規模な侵攻で、あの人との思い出が詰まったこの街が焼かれた。私には、幼い頃から肉親と呼べる人はいなかったけれど、それでも、私に優しくしてくれた人達が大勢傷つき、そして亡くなった。
街が制圧される直前、この国の軍隊が到着し、占領される事は免れたが…それが、なんだというのだ。
戦争で傷つき、死ぬのは、私達ではないか。もう、うんざりだ。私達の子どもは、殺されるために生まれるんじゃない。
私は、全てから逃げるように、古い言い伝えのある泉を目指して歩いた。1人で森に入る事でどうなるかなんて、考えられなかった。ただ、ただ、何かに縋りたかったのだ。
泉のほとりで佇んでいると、バシャッという感触の後、股から温かい液体が流れてきた。そのまま動く事が出来ず、段々とお腹が痛くなり、いよいよ息も出来なくなった。あぁ、このまま、死んでしまうのか…私は、1人だと本当にダメだなぁ…
その時、澄んだ声が背後から響いた。
「大丈夫ですかっ⁉︎」
差し伸べられた手に、気遣う瞳に、私達を守ろうとする意思を伝える言葉に、涙が溢れた。そして、自分でも気付けていなかった子どもへの愛しさが全身を駆け巡った。
「どうか、どうか…私の赤ちゃんを助けて…」
私が見た彼女は、真っ白な服を着て、凛と立つ女性だった。きっと、神様がいたらこんな佇まいではないだろうか。
そして…私は、この子と女将さんのいる宿屋へ戻った。女将さんは、私達の無事を喜んでくれた後、もの凄い形相で私を叱った。お礼を言ったら、また叱られたが、ギュッと抱きしめてもらった。
真っ白な服を着た神様みたいな彼女が目を覚ましたら、お礼を言おう。子どもを、家族を、守る事が今の私にはできると思うから。
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