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木々は陽を浴びて  作者: 村上博厚
3/7

美術館

3 美術館

 翌朝、電話のベルで起こされた。

 「不器男さん、陽子です。ごめんなさい。休みなのに起こしてしまったみたい。ちょっと兄のことで相談したいの。」

 「午後にしてくれないかな陽子ちゃん。昨夜遅かったから。こっちから連絡するよ。」 「ええ…。」


 受話器を降ろした。人の相談など乗れる気分ではなかった。頭痛と吐き気がまだ残っていた。時計を見るともう十一時だった。

 昨夜は朋子と別れ、確か明け方まで飲んでいた。いくら飲んでも目が冴えて、酔うことができなかった。喉もとまでこみ上げてくる朋子への思いをウィスキーで鎮めようようとしたが、無理だった。心の動揺など、この年になればうまく整理をつけることができると思っていたが…。

 喉が乾いていた。キッチンに立つと、昨夜の吐瀉物を見て、また吐き気を催した。水を飲み吐き気を押さえると、ベットに倒れ込んだ。窓を開けると外は雨。静かに降っている。少しまどろむと、少し気分が良くなってきたが、そのかわりに気持ちは滅入ってきた。喪失感に襲われた。淋しさが込み上げてきて不覚にも涙となった。『ああ、男と女はどうしてこうなんだ。』と心の中で呟いた。

 面倒だという気持ちになってきた。不思議なことにその時、陽子の顔が浮かんだ。陽子に買物を付き合わされた日のことを思い出していた。街を行き交う男達が振り返って陽子を見た。可笑しなことだが、優越感を感じた。陽子に会えば少しは気持も上向くだろう。『今日は夕食でも誘おう。それにしても何だろう。青木のことで相談って。』

 その時だった。「愛や善意でこの女を助けようと思うならその愛とか善意で最後までやってみろ。俺に愛とか善意で勝てるのか。」というあの男の声が甦った。


 ベットから起き上がると、バスルームに入り、座ったまま冷たいシャワーを浴び続けた。十分もするとすっきりしてきた。体を拭いてバスルームを出ると、朋子が玄関にうずくまって座っていた…。

 感じが違っていた。髪は乱れ、化粧は涙で落ちてしまい別人のようになっていた。虚ろな目で私を捉えると、私に抱きついてきた。

 「お兄ちゃんが行ってしまったの。私どうしたらいいの。」

 朋子は私に抱きついたまま泣きじゃくった。私は情況を理解できないまま、朋子を強く抱きしめていた。

 「いったいどうしたんだ。」

 朋子は答えなかった。私は朋子をバスルームまで連れて行き、シャワーを浴びさせた。バスルームから出ると、朋子はベットに倒れ込み、寝息をたて始めた。

 先程の落胆が嘘のように思えた。『朋子が帰ってきた。』そう何度も口の中で呟きながら喜びを確かめていた。暖かいシャワーを浴びた朋子の顔はもとの顔に戻っていた。外はまだ雨が静かに降っている。優しい雨だった。しばらくして電話が鳴った。


 「陽子です。ごめんなさい、度々。」

 「いや、僕の方から電話することになってたのに。」

 時計を見ると、一時を過ぎていた。

 「兄が行方不明なの。先月出ていったきり。今日でちょうど一ケ月、どうしたらいいの。」

 受話器の向こうで陽子の嗚咽が聞こえた。

 「陽子ちゃん、原因は何なんだ。青木が出ていったわけは。」

 「原因は分からないの。そのことで父が不器男さんに会いたがっているの。うちまで来てほしいの。いま父にかわるわ。」

 「いや、ちょっと今手が離せないから。今夜七時にそちらへ行くから、それまで待ってくれないかな。」

 「お願い。できるだけ早く来て。」

 私にはわけが分からなかった。電話は切れたが、私はしばらく受話器を耳にあてたまま考え込んでいた。あの青木に何が起こったのだ。その時、受話器の向こうでカチリという音がした。そういえば電話の音も遠かった。


 「ウーン。」朋子が目を覚ました。

 私達は公園を歩いていた。雨上がり、木立ちからの木洩れ陽がキラキラと輝く。その下を私達は歩いていた。朋子は私に寄り添いしっかりと私の腕を握っていた。

 「私、時々あんな風になるの。とても不安なの。男の人を好きになりかけた時。どう言ったらいいのかな。臆病なのかしら。相手の人が好きになってくれればくれる程不安なの。結局兄に相談してしまう…。すると、兄は私の幸せをひとつひとつ壊してくれるわ。でも私どういうわけか、内心ホッとするの。私って幸せに馴染んでないのね。」

 あの男は朋子の兄だったのだ。朋子に最初に出会った時の光景が浮かんだ。

 「この女の痛みをおまえは我慢できるだろう。」と言って私を見据えた男の顔をはっきり思い出していた。そして、彼の言おうとした意味が分かるような気がした。

 「昨夜も不安だったの。だって不器男さん優しいから。優しすぎるんだもの。私って、あの男達から言われた通りの女よ。」

 「言うんじゃない。」

 「兄に話そうとしたの。不器男さんのこと。私、不器男さんに好かれる資格ないもの。」

 「何言ってるんだ。」

 「言わせて。兄に話してすっきりしたかったの。いつものようになる事は分かってた。苦しかったわ、とても。でも兄はいなくて、書き置きがあったの。一ケ月ばかりY市へ行くって。Y市って私達の生まれた所だけど。私どうしたらいいのか分からなかった。行く所がなくて、気がついたら不器男さんのアパートの前に来てたの。」


 私達は美術館の前に来ていた。近代ヨーロッパ美術展が開催されていた。

 「入ってみようか。」

 「私、美術館入るの初めて。この公園歩くのだってほんというと初めて。」

 朋子は私の後からついて来ていたが、気がつくと一人で絵に見入っていた。私はそんな朋子を遠くから眺めていた。朋子はモネやセザンヌの静物画や風景画を熱心に見ていた。 朋子は美術館を出てからも口を開かなかった。強く心を動かされたようだった。

 「おいしいコーヒーでも飲もうか。」

 「うん。おいしいコーヒーね。」

 近くの小さな喫茶店に入った。白を基調にしたインテリアの室内は端正で、掃除がゆきとどき気持ちが良かった。

 「ごめんなさい。ずっと黙り込んでて。いろんなこと考えてたの。セザンヌって人の静物画や風景画見ていてすごく心が安らいで幸せな気分になったの。そこにあるのは、ただ食器だったり、果物だったり、郊外の風景だったりするのだけど、こんなに幸せな気分になれるのは何故かしらって考えてたの。」

 朋子はいったん話し出すと、饒舌だった。私は嬉しくなった。朋子とこんな会話が出来るとは思ってなかった。

 「こんなふうに思ったの。絵を描く人って何て言ったらいいのかな、私達が見過ごしてまう大切なもの、幸せなものを絵を通して私達に気づかせてくれているのじゃないかしら。こうして不器男さんといて、時を止めてコーヒーを飲みながらゆっくり回りを眺めてみたら、大切なもの、幸せなものは私の目の前にあふれているって分かったの。」

 「よく分かるよ朋子の言ってること。そんな風に朋子が思えるのを聞いて安心した。でも朋子は殴られ泣いてた、今日だって、、、。美術館に誘ったのは僕だけど、絵なんて見てなくてその事ばかり僕は考えてた。朋子のこと、お兄さんのこと、もっと知りたいって思ってた。。」

 「兄と私とても仲に良い兄弟だったわ、幸せだった。」

 「過去形?」

 「少し話長くなるけどいい?」

 「聞きたいな。」


 「朋子の家、父は漁師で母は段々畑でみかん作ってたの。母はもともと東京の人で、戦争の時父の村に疎開していて父と知り合って結婚したらしいの。美しい母だったわ。私、自慢だった。今思えば、都会育ちで、結婚していきなり段々畑に出たり、父の仕事手伝ったり、家の事したりで大変だったと思うけど、母はいつも明るかったわ。あの頃は満ち足りていて幸せだった。母は多趣味の人のようだったけど、田舎に来て唯一許された楽しみは、花を育てる事だったみたい。庭にはいつも花が咲いていたわ。今でも思い出すの。初夏になると、色とりどりのけしの花、そして立葵の花に庭が埋もれていたわ。垣根にはゼラニウムの花、母が話してくれる西洋の国に来たみたいだった。秋には庭一面にコスモスが咲き乱れていたわ。そう、秋にはよく母と一緒に近くの丘にのぼったの。気持の良い風にすすきが揺れていて…。母は私にいろんなお話をしてくれたの。そして、遠くの海を見ていると、夢がいくらでも拡がった…。絵を見ていたら、その頃の幸せな生活を思い出したの。それに比べ私の今住んでる街はまるでコンクリートジャングルみたい。お金儲けだけの社会。そして私がこの街で出会う人たちは飢えていて疲れた顔してる。私そんな世の中にほんと馴染めないの。そんな時不器男さんに出会ったの。」

「ほんとうはみんな気がついているのかもしれないね。今の世の中おかしいって。」


 「私が小学校の五年生頃だったかしら、私達家族にも暗い影がさし始めたの。父は寄り合いがあるとかで毎晩遅かったわ。なんでも原子力発電所が私達の部落の近くにできるという話だったらしいの。ほとんどの人は、まだ自分達の畑や海を手放すことは考えていなかったの。でも、原発を造る計画は部落の人達の思惑に関係なく既製事実だったみたい。着々とそして強引に事は進んでいったわ。大人達はひそひそ話を始め出したの。妙に部落全体がよそよそしくなっていったわ。

 『ヒロのところは千二百万だったそうだ。』

 『いや、千三百万だ。』

 そういった噂話がそこかしこから聞こえ始めたわ。原発ってものがどんなものか、子供の私には分からなかったけど、何か暗い影が部落全体を覆っていくようで怖かったわ。そんな私の思いを決定的にした事件がある日起こったの。

 隣に住んでた村上さんは、原発に最後まで反対してたわ。おじいさんとおばあさんの二人暮らしで、おじいさんは頑固で変人だと大人達は敬遠してたけど、私達にはとても優しかったわ。

 村上のおじいさんが一人で一週間旅行に出かけたことがあったの。そこを狙って電力の人は、おばあさんを毎日のように責め立てたわ。経過は分からなかったけど、結局おばあさんは契約書に判をついてしまったの。帰ってきたおじいさんはすごく怒って、おばあさんに離婚を言い渡したの。その声が私の家まで聞こえたわ。

 翌日の朝まだ暗いうちに村上のおじいさんが私の家の前に茫然と立ってたの。父と母が出ていったわ。おじいさんが何か言って自分の家の方を振り返ったの。私達も見たわ。家の軒におばあさんが首をくくってぶら下がっていた…。」

 朋子は話しながら涙をこらえていた。

 「もういいよ……。」

 「いいえ。聞いて、まだ先があるの。」と朋子は自分に確認するように言い、先を話し始めた。

 「結局、父は土地も船も手放してしまったわ。一人では漁ができないし、失業したのも同然だったの。それにゴネて補償金を吊り上げているという噂が父のプライドを傷付けたのね。母も諦めたみたい。少しのお金で、父は本来の仕事と本来の生活があった家を無くしてしまったわ。とりあえず私達は町営住宅に入ったの。住宅は鉄筋四階建てで、私と兄とはもの珍しくてとても嬉しかった。でも、土木作業に出始めた父は慣れない仕事で精彩がなかったわ。いつもの自信に満ちた笑顔が見られなくなったの。でも、母は努めて明るく振舞っていたわ。

 あの日、母と私は夕食の買い物を済ませ家に帰る途中だったの。当時、道は原発建設の関係でよくダンプが通っていたわ。母が小石に躓き、倒れたの。買い物籠から野菜が転げ落ち、道に散らばったわ。私は急いで集めようとして道に飛び出したの。横を向くとダンプが迫っていた。その時、私は背中を突かれたの。気がついたら病院のベットの上で寝ていたわ。兄が椅子に座り私を見ていた…。

 何日かして家に帰ったら母はいなかった。子供の私にも母が死んだって事はすぐ理解できたわ。不思議なことにその時の記憶がすごく曖昧なの。隣のおばあさんが死んだ時の記憶は鮮明で、今思い出しても気持が高ぶるのに。今思えば、あまりショックが大きかったので、無意識のうちに記憶から省かれてしまったのかもしれないわ。

 そんなことのできない父は悲惨だったわ。月に十日程は土木作業に出てたけど、ほとんど毎日お酒とバクチに明け暮れていたわ。お酒が入ってない時、正気の時はすぐ涙を流す嫌な父になってた。涙を流してない時は、一日中誰もいない部屋でテレビの前に座って大きな笑声を立ててたわ。

 そんな父も仕事中ブルドーザーの下敷きになって、あっけなく死んでしまったの。残ったものはバクチの借金だけ。見舞金は当然借金のかたに取られて、高校生の兄と中学生になったばかりの私が取り残されたの。誰も助けてくれなかった。海の見える、私達の生まれた部落ではそんなことはなかったのに。あそこではみんな助け合って生きていたはずなのに。原発って暗い影はまず人の心を壊していったのね。

 その町を出る時、最後にもう一度我が家を見ようと、兄と峠に立ったの。一年も経っていないのにすっかり変わってしまってたわ。勿論私達の家は跡形もなかったし、母とよく登った丘も削り取られてなくなっていたわ。父がいつも錨を降ろした小さな港も、友達と走り回った渚も全部なくなってたの。悲しい思い出も少しあったけど、楽しい思い出がたくさんあったわ。そんな大切な思い出のある景色が全くなくなってしまってたの。そしてそこは、コンクリートで埋め尽くされていたの。私達はもう、渚に座り波の音を聞きながら楽しい思い出に浸ることも許されないの。何て言ったら良いのかしら、そんな仕打ちをしたものが幸せをもたらすとは思えない。」


 朋子は話しながら興奮していた。自分でもその事が分かったらしく言葉を切った。

 私は不思議な気持で朋子を見詰めていた。 時計を見ると、七時近かった。

 「あっ、いけない。七時に約束があるんだ。

先にアパートに帰っててくれないかな。すぐ済ませて帰るから。食事は…。」

 「作って待ってるわ。早く帰ってきて。」 

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