朋子
1 朋子
夜の闇は深く何の気配も感じさせない。街の灯さえ無くただ闇が拡がっている。歩く道は固く、足下に目を移すと、“コツコツ”と靴の音が聞こえる。香しくそして何か予感を秘めた春の闇夜だ。
二人の女が寄り添うように歩いてくるのが見えた。ポッと明りが点ったような現れかただった。音もなく風に吹かれるように闇の中を進んで行く白い姿だ。
女の一人は濃い化粧をして、微笑を浮かべていた。もう一人は闇の影になっていたが、清楚で疑いを持たない少女だと私には解っていた。濃い化粧の女の肩を抱くと、私は安らいで自由なおもいに包まれた。そしてその女がこの上もなく愛しく思われた。
私達は闇の中を歩き続けた。しばらくして、女は立ち止まり遠くを指差した。女のアパートがあるらしいのだが、とらえどころのない空虚な闇が拡がっているばかりか、いつのまにか霧も出てきたようで何も見えない。少女はそこで別れを告げたので、女と私は闇の中を再び歩き始めた。
朝起きると、二日酔いだった。窓からブラインド越しに朝の光がさしているが、ベットとテーブルの他何もない一DKの部屋は、ガランとして、五月も半ばだというのに薄ら寒い。頭がまだボンヤリしていた。あの事件の後身についた悪い習慣だ。わけが分からなくなるまで飲んでしまう。
シャワーを浴びながら夢の事を考えていた。夢の中のあの女どこかで見たおぼえがあった。
顔を鏡に写すと、まだ目の周りがほんのり赤い。仕事を休もうと思ったが、今日の仕事は昼までだと気を取り直してバスルームを出た。午後には青木との約束もあった。身仕度を整えると、階下の喫茶店に入った。
『生活が変わってしまったな。』と思う先に、あの記憶がまとわりついてきた。
私は妻を愛し始めていた。学生時代結婚を約束していた女性を捨てたという心の負担がとけ、見合い結婚した妻を愛し始めていた。その矢先だった。妻と子供が交通事故で死んだのは。なくしたものは大きかった。
『もうこんな時間か。』私は冷めたコーヒーを飲み干すと、席を立った。
青木は約束の時間に五分遅れた。私は十五分前に来ていたので、苛立っていた。
「遅いじゃないか。おまえのほうだろ。三時きっかりと言ったのは。」
「五分じゃないか。おまえみたいなお役所勤めと違って、こっちは自営業なんだからいろいろあるんだ。」
青木は私の小、中、高の同級生で、今は親父の後を継いで歯科医をやっている。尊敬すべきところは何ひとつない男だが、どういうわけか関係が続いている。あの事故の時、最初に訪ねてきたのも青木だった。彼は私と同じ三十一歳だが結婚もせず遊び呆けている。
「今日は面白いところに連れていってやるからそう怒るなよ。」
「また面白いところか、よく飽きないな。おまえもそろそろ結婚したらどうなんだ。もう三十越えたんだぞ。」
「話の腰を折るなよ。今日は女も二人呼んでるから…。まあ、結婚はまだ当分できないだろうな。女にも不自由してないし、第一女は信用できん。俺みたいな男に結局、十人が十人股開くんだから。それに、結婚にはおまえが一番懲りているはずじゃないか。」
口にして欲しくなかった。妻は、男の車に乗っていて事故に遭った。暴走車が反対車線に入り込み、正面衝突だった。妻と子供は即死だったが、男は生きていた。男は妻の学生時代の友人だった。妻とその男の間に何があったのか分からない。男とは結局最後まで会わなかった。病院で意識を取り戻した時、男は事故の記憶をなくしていた。そんな男に会うことに何の意味があるだろう。会って優しい言葉をかける気はなかった。一生重荷を背負って生きればいいと思った。
事故の後、私はできるだけ社会と関わりをもたず、即時的に生きようと心に誓った。その頃から性欲が異常に昂進してきた。そんな時、青木は便利だった。彼といると、女に不自由はしなかった。どんな女でも相手にした。女は欲望の捌け口としか考えなかった。そんな私を真剣に理解しようとした女もいたが、私は無視した。結局、女は私から去っていった。私はいつも最後は振られ役だった。驚きと侮蔑そして憐れみの目を残して女達は去っていった。別れは尾をひかなかった。私は振られ続けた。そして底無しの闇の中へ落ちて行くような墜落感を冷静に味わっていた。
「悪かった。つまらん事言って、嫌な事思い出させてしまった。」
「いや、いいんだ。それより今日はどこへ行くんだ。面白いところって。」
連れていかれたのは、スワップパーティーという集まりだった。我々が会場に着いた頃には五組程すでに来ていた。夫婦同志で何か話してはいるが、互いに他のカップルに関心は移っているようだ。入ってすぐ視線がまとわりつき始めた。
「どうだ。興奮するだろう。」
青木の声はうわずっていた。確かに異様な雰囲気だった。私自身戸惑いながらも興奮してくるのが分かった。
「もうすぐ酒池肉林、肉林肉林。」
青木は独り言を言いながら、オードブルをぱくついていた。
しばらくすると、司会者がマイクを持って現れた。ダンスが始まるらしい。もうすでに裸になっている者も数人いた。女のほうが積極的なようだ。女達は仮面をつけていた。ナットキンコールの曲が流れていた。私はしだいに理性的になっていた。集まった連中が醜悪に見えた。私の腕に抱かれている女は三十半ばだろう。ニワトリの足のような指をしていた。その指の大きなダイヤで女の生活が想像できた。強く抱くと恥ずかしそうに身をよじるが、女の手は私を強く抱き、私を離さなかった。
「それじゃこのあたりでゲームを始めましょう。みなさん、これからは全員裸になってください。」
司会者が押し付けのユーモアでその場を盛り上げようと懸命に頑張っていた。集まった連中もわざとらしくそれに答えて笑う。私は馬鹿らしくなってその場を離れ、ウィスキーを飲みながら眺めていた。男も女も肉の固まりのようで醜悪そのものだった。男は脂肪で腹がたるみ、醜くペニスを勃起させている者もいた。女の足は短く、笑った顔に黄色い歯を見せ卑猥で不気味だ。
そのうちライトが暗くなり、スワップパーティーの本番のようだ。あちこちで女のうめき声が聞こえ始めた。私は酔いも冷め完全に冷静だった。私は上着を捜し始めた。その時誰かの視線を感じ振り返ったが、見えるのは獣達の蠢きで、悪寒が走った。目の前で女が仮面のまま、前と後ろから犯されていた。私は急に嘔吐を催し、急いでマンションを出た。
外に出ると夜風が気持ち良かった。しばらく歩くとアーケードに出た。真夜中のアーケード、土曜日だというのに人通りが絶えていた。夜の闇は深く何の気配も感じさせない。街の灯さえ無くただ闇が拡がっている。歩く道は固く、足下に目を移すと、“コツコツ”と靴の音が聞こえる。後から私を足速に追いかける靴音がした。そして止まった。
「待って。」
振り返ると、仮面をつけたままの女がいた。ゆったりとした服を羽織っていた。私が当惑して見詰めていると、「私のこと覚えていないの?」と言って女は仮面を外した。
「あっ、君は。」
思わず私は声をあげてしまった。
昨夜夢の中で見た女の顔だった。彼女は現実の女だったのだ。目の前にいる女は嬉しそうに笑っていた。アイシャドウを濃く引き、真っ赤なマニキュアをしていた。確かに夢の中の女だった。
「思い出してくれた?」
現実の彼女は思い出せない。夢が醒めたあと、どこかで見た覚えがあると感じたのは正しかったのだと私は妙に納得した。
「あの時は有難う。嬉しかったわ。今夜はちょっとショックだったけど。」
彼女は人違いをしているのじゃないかと私には思えたが、真剣な彼女のまなざしを見ていると、何も言えなかった。この数ケ月、私は女性には恨まれる事しかしていなかった。
「今晩私うまく逃げてきたから自由なの。少し歩こうよ。」
彼女は私の手を握った。暖かい感触が伝わってきた。可愛い手だった。私は彼女のペースに乗せられていた。
「あの時殴られた傷、もう大丈夫?」
私は思いだしかけていた。あの時の女だったのか。
妻をなくして一月も経っていない頃だった。私は毎日深酒をし、荒んでいた。場所も確かこのアーケードの下、時間もちょうど零時を回った頃だった。私は例によって酔っていた。今日と違って人通りがあった。学生達が赤い顔をして集団で騒ぎ、それぞれお目当ての女を口説こうと努力していた。猿が酔っているようだった。仕事帰りの女がさっそうと去っていく。だらしなく酔った中年のサラリーマンが肩を抱き合って時々大声を上げていた。その時、私の横を若い男が走り去ったかとおもうと、後方で女の悲鳴が聞こえた。
「やめて。」
女は植え込みの木にしがみついていた。その女の髪を男が後ろから掴み、足で女の体を蹴っていた。その度に女はうめき声を上げ、男も何かわめいていた。手を木から離した女を、男は今度は引き摺りそして立たせると頬を殴り始めた。
「朋子、人並みに男に惚れやがって。どういうつもりだ、おまえは。」
そう言って男は女を殴り続けた。私はこれはただの痴話喧嘩ではないと思い、男に歩み寄った。酔った勢いだった。胸は高鳴り、声は震えているのが分かった。
「いいかげんにしたらどうだ。」
そう言って私は男の手を掴んだ。向き直った男の形相は怒りに興奮して、私を圧倒していた。そして手から伝わる感触は、私にはとてもかなう相手ではないことを教えていた。
「おまえには関係ねえんだよ。」
男の視線を嫌い目をそらすと、女が私を見上げていた。彼女の潤んだ目が救いを求めているように私には思えた。私は追い込まれたと思った。同時にとことんまで自分を追い込んでやれという思いが募ってきた。私は幾分冷静さを取り戻していた。
「それじゃ、君にはこの女性を殴りつける程の関係があるのかな。」
私は一言一言はっきり言うことができた。
「おおありなんだ。」
男は私の胸倉を掴んだ。
「君とは関係ができたようだな。」
「何だと。」
男は私を突き倒すと飛びかかってきた。私は咄嗟に身を避け、男の足を払った。男はもんどりうって倒れた。しばらくして起き上がった男の顔には野性の狂暴さが現れていた。刃物を突きつけられたような恐怖が私の体に拡がった。すぐ私は男の一撃を顔面に受け、腹部には膝蹴りを受けていた。倒れようとする私に男はもう一度パンチを出した。パカッという音がしたかと思うと、私の口から血が噴き出ていた。私は血を腕で拭うと男の腰に向かってダッシュした。男の後ろにはちょうど自転車とバイクが止めてあり、男はそれに躓き、私と一緒に倒れた。しかしすぐ男は体を入れ替え私に馬乗りになった。
「君は、女性を、人間を愛したことがあるのか。」
私は殴られながら、観念して先程から考えていたことを口走った。男の目の色が一瞬変わった。
「愛だと、愛だとか善意だとか振り回す奴を見るとヘドがでる。この女の痛みをおまえは我慢できるだろう。愛や善意でこの女を助けようと思うならその愛とか善意で最後までやってみろ。俺に愛とか善意で勝てるのか。」
男はそう言うと男は立ち上がり、私の脇腹の急所をめがけて蹴ってきた。私はもう男のなすがままだった。その時だった。女が私に被さりガードしてくれたのは。
「もうやめて、朋子言うとおりにするわ。」
男は機械的に蹴るのを止めていた。男は女の手を掴み引き上げると、私を見下ろした。私も男も冷静だった。男は視線をそらすと女を連れて歩き出した。私は女が素早く手渡してくれたハンカチで口を拭ながら振り返る女を見詰めた。
「確か朋子、だったかな。」
微笑んで私を見詰める朋子の顔は昨夜の夢の中の女の顔だった。
「あら、何故名前知ってるの。」
男がそう呼んでいたと言おうとして私は口を噤んだ。男の影が心をよぎった。アーケードがとぎれ、交差点で私達は立ち止まった。
「送っていこう。」
私は車を止めようとしたが、朋子は私の手を強く握り、私を見詰めた。
「イヤッ」
派手な音を鳴らしながら暴走車が走り去った。
「どこへも、もう行くところはないんだ。僕のアパートはもうすぐそこだし。」
私は疲れていた。自分の部屋で一人で眠りたかった。時々見せる彼女の思い詰めたような仕草が私には負担だった。
「お願い。シャワーだけ使わせて。それできっと帰るから。」
私は仕方なく頷いた。車はもう走っていなかった。街灯が点々と点り、道は広く、長く、そして遠くまで見通せた。並んで歩くと、朋子の髪が私の頬に触れた。
アパートに着くと、戸口で少し朋子はためらっていたが、「おじゃまします。」と言って入って来た。そして、物珍しそうに中を見回していた。
「何もないのね、この部屋は。」
「早くシャワーを浴びて帰ってくれ。」と私は冷たく言った。
朋子は服を脱ぐと、服をテーブルの上に載せ、痩せ気味の裸身を見せた。そして、「イーッだ。」と言って舌を出しこちらを向いた。 私は呆気にとられていた。いつになくドギマギしていた。私はコップに水を注ぎ、飲み干した。振り返ると、朋子はもうバスルームに消えていた。私はガラス越しに見える裸身を見詰めた。しばらくして、朋子はバスタオルを体に巻いて出てきた。白い肌が上気して美しかった。私は心が乱れるのを感じていた。
「あらっ、珍しい!カセットデッキがあるじゃない。なにかかけてもいい?」
「触らないで欲しいな。僕がシャワーを浴びているうちに帰ってほしい。」
私はまた冷たく言った。朋子の美しさにひかれたが、朋子の気持ちを受け入れる余裕はその時なかった。私は疲れていた。うなだれる朋子を後に残し、私はバスルームに入った。熱い湯が疲れをほぐしてくれて気持ち良かった。一気に眠りにつけそうだ。バスルームから出ると、朋子は服をつけ私のベットに座り、テープを聞いていた。私を見上げると、朋子は口を開いた。
「泊めてほしいの。」
「帰るのが約束だろ。ラジカセには触るなって言ったろ。おまえはどういう女なんだ。よく考えてみろ。」
「いいわよ。帰ればいいんでしょ。馬鹿、ろくでなし。」
彼女はドアに向かって駆け出した。私はカギを掛けるつもりで後を追ったが、朋子は玄関口で私に背を向け立っていた。私を待っていたように朋子は振り返った。
「私、戻る所がないの。」
それだけ言うと、朋子は下を向いた。嘘をついているとしか思えなかった。いつもの私なら叩き出してやるのだが……。部屋に入れたのが最初の躓きだった。泥沼に足を突っ込んだような疎ましい気分だった。たぶん、どこか朋子にひかれたせいもあったのだろう。私はますます泥沼に足を踏み入れてしまった。
「ベットはひとつだから君には毛布を貸すだけだ。カーペットの上で寝てもらう。」
私はベットから毛布を取ると、朋子に渡した。朋子は毛布で身をくるむと、ベットから離れた壁のそばにうずくまり眠り始めた。
先程朋子のかけたテープからは、バッハのコラール“主よ、人の望みの喜びよ”が流れていた。私は暗がりの中でしばらく朋子に見入っていた。窓からさす月の光に照らし出されてうずくまる朋子の姿は、私の目を捉えて離さなかった。私にすべて身を委ねているように思えた。私の心の中に、懐かしい熱い何かが生まれかけていた。私は静かに立ち上がり彼女に近づくと、ゆっくり抱き上げた。顔を覗き込むと、頬にはまだ乾かない涙のあとが見えた。あどけない顔だった。ベットまで運び寝かせようとしたが、朋子は私の胸に抱きつき肩を震わせ泣き出した。私は一緒にベットに入ったが、安心したのか朋子は私の胸に顔を埋め眠り始めた。私は素直に朋子を愛しく思えた。胸に熱いものが育ってゆく。




