後輩が「幽体離脱できるようになった」と言ってきたので適当にあしらっていたら憑依された話
陰暦の上では霜月の半ば。寒さもいよいよ本格的になり始めたこの時期は、冬を憎む全ての人々にとって天敵となる。大学構内の並木道を歩く美園有理もまた、陰鬱な顔で北風に身を縮めていた。
「有理せんぱ~い、お疲れ様です♡」
風で乱れた黒髪を手櫛で整えていた有理の後方より、場違いなほどに甘ったるい声がかけられる。
有理は、その声に一度足を止め────振り切るように歩みを速めた。
「ちょ、先輩、待ってくださいよ!」
「…………」
有理の名を呼んだ人物は小走りで有理に近づきトレンチコートの袖を掴んだ。
捕まった有理は観念したように振り向くと、件の人物を睨みつける。
「何か用かしら、結愛?」
「え~? 先輩が一人寂しく歩いていたので、どうしたのかな~って声をかけただけですよ」
檜花結愛。有理の後輩である彼女はブラウンアッシュの髪を揺らしながら蠱惑的な笑みを浮かべた。
一方の有理は結愛の猫なで声が耳に障ったのか、小さく鼻を鳴らして再び歩みを進め始めた。
「…………帰る」
「まってまって、待ってくださいよ先輩。どうせなら一緒に帰りませんか?」
「一緒にって、アナタの家は大学を挟んで反対側でしょう」
「え、先輩の家に行くんですよ?」
「何を当然のことのように惚けているのかしら。付いてきたとしても家には上げないわ」
「またまた~、そんなこと言っておいて毎回家に入れてくれるじゃないですか」
「……それはアナタがしつこかったから仕方なく家に入れていたの。今回ばかりは駄目」
「とか言って~?」
「駄目。今すぐ踵を返して自宅へ向かいなさい」
「いやですー。今日は先輩の家に遊びに行くって決めてるんですー」
「……はぁ、もういいわ」
結愛は微笑を湛えると、上目遣いで有理に強請った。押し問答を嫌った有理は溜め息を一つ吐くと、結愛をジト目で見遣る。
「夜遅くなっても、帰りのタクシー代は出さないわよ?」
「あ、大丈夫です。今日は先輩の家に泊まるんで」
結愛の堂々とした居座り宣言を聞いて、有理は再び大きく息を吐くのだった。
◇
「この部屋暑くないですか」
「何を言っているの、寒いくらいよ」
「そんなにモコモコになるまで服を着込んだ上に暖房とコタツって、さすがにやりすぎなんじゃないですか」
「仕方ないでしょう。寒いものは寒いのだから」
白と黒のツートーンを基調とした家具が置かれた有理の部屋。中心にポツンと置かれたコタツには有理と結愛が肩を並べて入っていた。
「先輩、晩御飯は食べなくていいんですか?」
「寒すぎて自炊する気が起きないのよ……」
「もう、しょうがないですね。私が何か作りますよ」
「いいの?」
「はい。通い妻の責務を果たしてきますね!」
「通い妻ってそんな……」
有理は否定しようと口を開いたが────その言葉は途中で止まった。
言いえて妙だな、と。
有理は一人暮らしであるが、料理も掃除も洗濯も疎かにしがちで家事力は壊滅的だ。ここ半年は、その状況を見兼ねた結愛が家事の代行をすることも珍しい話ではなかった。
「できましたよ~」
「ありが……なにこれ」
「オムライスですよ?」
有理のエプロンを纏った結愛が、出来上がった料理を運んでくる。コタツの天板に並べられたのは二人前のオムライスであったが、有理は眉をひそめた。
「この文字は何かしら」
「私から先輩への気持ちですよ~、恥ずかしい~!」
『あいらぶ♡ゆー』
有理のオムライスにはケチャップでメッセージが書かれていた。
「玉子の量に対して些かケチャップが多いように見えるのだけれど」
「あれ、私の告白はスルーですか!?」
「ん……」
「ちょっと先輩、真っ先に愛の言葉を潰さないでくださいよ!」
有理はスプーンの凸面でケチャップを潰し、何事もなかったかのように食事を始める。結愛はふくれっ面でぶう垂れた。
「美味しい」
「本当ですか? ありがとうございます」
「玉ねぎが入っているけれど、ウチに置いていたかしら?」
「先週私が来た時に買い置きしてたんですよ。調味料とかも色々持ってきてます」
「……参ったわね」
「おやおや、しおらしい先輩なんて珍しいですね。あ、もしかしてデキすぎる通い妻をもって居た堪れない感じですか? いいんですよ、これくらい朝飯前ですから」
「いえ、私の家が思った以上に結愛の侵食を許していて困惑しただけよ」
「ア、そうですか、はい」
◇
食事を終えた有理は思い出したように口を開いた。
「そういえば今日は何か用があってウチに来たのではないの」
「あっ、そうでしたそうでした。実は先輩に見せたいものがあるんですよ」
「見せたいもの?」
話題を振られた結愛はパッとコタツから飛び出ると、部屋の隅に設置された有理のベッドへと腰かけた。
「実は私、幽体離脱ができるようになったんですよ!」
「……は?」
幽体離脱。生きている人間の肉体から魂や意識が『幽体』を伴って抜け出すという超常の現象。
有理は珍獣でも見るような目つきで結愛を眺めた。
「カルト宗教にでも入ったの?」
「ち、違いますよ! 本当にできるようになったんです!」
「結愛、アナタ疲れているのよ。タクシー代は出してあげるから今日はもう帰って休みなさい」
「だから本当にできるんですってば! つい先週のことなんですけど────」
結愛曰く、昼寝の最中に金縛りに遭った際、偶然にも幽体離脱の方法を理解したのだという。
「身体がピキーンって固まっちゃった時に動け動けと念じたら、ふわっとできちゃったんですよ……幽体離脱」
「はぁ」
「一回できるようになると、身体がハウトゥーを覚えちゃったらしくって。何回でもできるようになっちゃったんですよ」
「へぇ」
「……先輩、私の話聞いてます?」
「ええ」
有理は話半分に結愛の言葉を聞き流していた。結愛もまた、有理が適当に相槌を打っていることに気が付いたらしく、ムッとした表情を見せた。
「先輩が信じていないみたいなので、ここで実演します」
「そんなに簡単にできることなの?」
「はい、できますよ。ベッド借りますね」
結愛は仰向けに横たわると、胸の上に手を置いて目を瞑った。さながらそれは、棺桶に眠る幽姫のよう。
ピタリと動かなくなった結愛を訝しんだ有理はポツリと言葉を漏らした。
「……幽体離脱中?」
しかし、その声に反応する者はいない。
場が静寂に包まれてから五分ほど経った頃、有理はモゾモゾとコタツから躙り出て、結愛の顔を覗き込んだ。
規則正しく上下する胸と微かな息遣い。有理は結愛の眼前で手を振るが、全く反応を示さない。どうやら結愛は眠ってしまったらしい。
「……困ったわね。私がコタツで眠らなければならなくなったわ」
生憎、有理の部屋にあるのはシングルベッドだ。密着すれば二人でも眠れるだろうが、後輩と同衾するのは少々憚られると有理が考えたところで────────
「(一緒に寝ましょうよ、先輩♡)」
「なっ……!」
有理の脳内に聞きなじみのある口調が流れた。
刹那、身体から力が抜けてしまった有理は、その場にぺたりとへたり込む。
「なんっ、身体………が」
「(ふふっ、初めてでしたけど成功してよかったです。幽体離脱ができるならもしかしたらと思っていましたが────憑依成功です!)」
憑依。有理の肉体には二つの魂が同居していた。
有理と、結愛。
「(身体が動かない……っ)」
「(あ、私の意思で動かせるみたいです)」
「(はぁっ!?)」
有理は動作を確認するように手のひらを開閉させた。
身体の主導権を奪われる。かつてない経験に有理は混乱の極みにあったが、どうにか正気を保ちつつ、意識の内にある結愛へと語り掛けた。
「(どういうことか説明してもらえるかしら?)」
「(ええっと、幽体になった私が先輩の身体に乗り込みました)」
「(乗りこみました、じゃないわよ。身体が動かせないのだけれど)」
「(うーん、なんででしょうね。あ、私の方がアストラルボディの扱いに長けているからじゃないですか?)」
「アス……? とにかく早く私の身体から出てい────────」
「(あっ! いいこと思いついた!)」
有理の言葉を遮るように結愛は叫ぶ。有理の視線の先にあったのは、すやすやと穏やかな息を立てる結愛の肉体だった。
◇
「(ねえ、何をする気……?)」
「(んふふー、とってもイイことですよ♡)」
「(お願い、酷いことしないで……)」
「(し、しませんって。急にしおらしくされるとやりにくいのでやめてくださいよ)」
「(それはアナタに罪の意識があるからよ。もうやめましょう、こんなこと)」
「(あーあー聞こえないー。それに、酷いことするのは私じゃなくて先輩ですよ)」
「(……どういうこと?)」
「(まあ、見ててください)」
有理は徐に立ち上がると有理のスマートフォンに手を伸ばす。カメラ機能で動画の撮影を開始すると、ベッドと対角の位置にあるラックへとセットした。
「(今の私たちを録画しているの?)」
「(はい、今後の材料として利用したいので)」
有理は再びベッドに戻ると、結愛の身体を跨いで馬乗りになった。
「(こうして見ると、私ってめちゃくちゃ美少女ですよね)」
「(肯定するのは癪だけれど……綺麗ね)」
透明感のある肌に、通った鼻梁。二重の瞼によって閉じられているその奥には、翡翠色の美しい瞳が秘められている。
いつもは挑発的に持ち上げられる口元も、今は花開く前のつぼみの様に薄く閉じられていた。
「(先輩に褒められた!)」
「(ちょっと、私の身体で変な動きをしないでくれるかしら)」
有理は、にやける表情を抑えるように自身の両頬に手を当て、くねくねと身を捩る。一通り喜びを噛み締め終えた有理は再び結愛へと向き直った。
「(それで、これから何をしようというの)」
「(むふふっ、これから先輩には私を襲ってもらいます)」
「(襲うというのは性的に?)」
「(よくわかってるじゃないですかムッツリスケベ先輩)」
「(変な渾名を付けないで。そもそも、身体の主導権はアナタにあるのに、どうやって襲えというのかしら)」
「(私が先輩の身体を操って、私を襲うんです)」
「(よく意味が分からないのだけれど。新しい自慰?)」
「(違いますよ! さすがにそれは発想が変態すぎますって)」
「(いや、アナタが言い出したことじゃない……)」
「(私が私を襲う理由。それは先輩を脅迫するためですよ。部屋に設置したカメラにはこの現場が映されています。果たして映像を見た人はどう思うでしょうかね)」
「(まさか……)」
有理は口元を軽く綻ばせる。妖艶かつ悍ましい表情を浮かべていた。
「(ふふっ、そのまさかです。眠った後輩を襲う先輩の姿がバッチリ記録に残るわけです。幽体離脱で身体を乗っ取られた、などと先輩が証言しても、その妄言を誰が信じるでしょうか)」
「(……それで私を脅してどうするつもり?)」
「(私の彼女になってもらいます。さもなくば、先輩のお義父様とお義母様に映像を見せます!)」
「(お父様とお母様に他意が含まれていた気がするのだけれど……そうね、その条件なら特に問題はないわ)」
「(やけに素直ですね)」
「(あら、脅されなくったって恋人くらい余裕でつとめるわよ?)」
「(嘘つかないでください。あれだけアピールしてきたのにうんともすんとも言わない先輩が正攻法で彼女になってくれるわけないですもん。今日だってケチャップの文字をスルーされましたし)」
「(あれは冗談だと思っていたから……)」
「(まあいいです、とにかく今は────)」
有理は結愛のカーディガンをはだけさせると、一息にカットソーを胸元まで捲り上げた。
「(────既成事実を作りましょう、先輩♡)」
◇
「(なんか、自分で自分の下着姿を見るって不思議ですね)」
「(あの、結愛って結構大胆な下着を付けているのね)」
「(先輩の家に遊びに行くって決めてる日は、いつも勝負下着ですからね)」
「(へ、へぇ)」
有理の視界には結愛の無防備な姿が映っていた。黒地に水色のワンポイントが入った上下セットのランジェリーは、暖房によって桃に色づいた結愛の肌によく映えていた。
「(こういうのって何から始めればいいんですかね)」
「(さ、さあ、私に訊かないでくれる?)」
「(じゃあ、とりあえずおっぱいでも揉みますか)」
有理は結愛の柔肌へと手を伸ばすと、その胸元を撫で上げた。
「(うわっ、柔らかいですね~)」
「(そ、そうね)」
「(……なんか身体が熱くなってきたんですけど、先輩もしかしてムラムラしてます?)」
「(……してない)」
「(本当ですか~? まあ、先輩の身体に訊くのが一番手っ取り早いですかね)」
有理は上体を前方に倒す。至近距離に結愛の艶麗な顔が映し出される形となった。
結愛の唇に焦点を合わせると有理の心臓はひと際大きく跳ね上がり、身体に血が巡る。
「(ちょっと顕著すぎません?)」
結愛に指摘された有理の顔は羞恥から真っ赤に染まり、いよいよ隠し立てすることが叶わなくなる。
「(仕方ないでしょう、そもそも……私だってこの状況を悪くないと思っているのだから)」
「(……え?)」
「(だから、結愛とこういう関係になれたことが嬉しいと言っているの!)」
「(いや、いやいやどうしたんですか先輩、この期に及んでデレるんですか! 急展開が過ぎません!?)」
「(今までアナタのことを邪険に扱っていたのも好意の裏返し……と言って信じてもらえるか分からないけれど、私だってさっき気づいたことなの)」
「(好きな子に冷たくしちゃうとかそんな小学生男子みたいなことあります!? ま、まあ、でも、普通に嬉しいです先輩)」
「(結愛……こんな状況で言うのも可笑しな話だけれど、どうか私を最後まで────)」
「(え、あれ、意識が────────)」
「結愛?」
ふわり。
結愛の意識は有理の身体を離れ、吸い込まれるようにして本来の肉体へと還る。結愛の魂が抜けたことにより、有理に身体の主導権が戻った。
一方の悪戯な眠り姫は、恐る恐る瞼を持ち上げた。
「タイムリミットということかしら?」
「そうみたいですねー、あははー……どうしたんですか先輩、目が据わってますよー?」
「可愛い可愛い私の彼女様には、たっぷりお礼をしないとね」
「ひぇっ、ちょっと待ってください、意識が戻ったばかりで身体が上手く動かせないん────むぐっ!?」
◇
数刻後、ベッドの上には抜け殻のような結愛と、艶々とした有理の姿があった。
「ハッピーエンドなんですけど、なんか、思ってた展開と違います……」
魂の抜けたような声で結愛はぼやいた。
「それで、事後に確認するのもアレだけれど、本当に結愛は私のことを?」
「はい、一年前にサークルの飲み会で介抱されたときからずーっと好きでしたよ。そういう先輩こそどうなんですか?」
「私は……分からないわ。アナタに好意を寄せていたなんて自分でも驚きだもの。愛とは与えられて初めて気が付くものなのね」
「なに哲学じみたこと言ってるんですか」
「それにしても、私たちは晴れて両想いの恋人同士になった訳だけれど、最初の脅迫はいただけないわね。何か反省の言葉はあるかしら?」
「うっ、それについては申し訳ないと思っています。でも、私だって焦ってたんですよ、先輩は三年生で就活も近いし、いつまでこうして一緒にいられるかわからなかったんですもん……」
「成程、納得したわ。今回だけは許してあげる。でも────」
「でも?」
「もし同じようなことがあれば今日以上に激しくするわ」
「ひっ」
有理の冷徹な笑みは、結愛の心胆を寒からしめるのに充分であった。
◇
「そういえば、幽体離脱中はどんなことができるのかしら?」
「ええと、私が確認した限りでは今日やった憑依とか、あとは遠見ですかね」
「遠見?」
「幽体だと、ふわふわ宙に浮いた状態で移動するうえに、壁抜けもできます。だから遠くの景色をらくらく見に行くことができるんですよねー。他の人からは見えないらしくって、昨日は先輩の入浴をのぞ……あっ」
「お仕置きが必要なようね、結愛?」
「ま、待ってください今日は無理ですお願いします足腰に力が入らにゃぁぁぁ♡」
【TIPS】
美園有理
憑依される人。性欲強め。
人づきあいがあまり得意ではなく、他人に対して冷たい態度を取りがち。クール。
しかし、しつこく迫ってくる結愛に絆されており、内心では結愛のことを好ましく思っていたようだ。デレ。
檜花結愛
憑依する人。大学内ではかなり有名な美少女。思い付きで暴走しがちな子。
サークルの飲み会で有理に一目ぼれ。積極的にアピールを仕掛けていったが鈍感な有理には効かず、煮え切らない日々を過ごしていた。
ひょんなことから幽体離脱ができるようになった。使い方によっては世界を震撼させるほどのチート能力だが、本人はそのことに気が付いていない模様。