第三話-3
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リプルの町は中心部の高級街を抜けると、スラム街が無秩序に広がっていた。ベニヤ板だけで作られた家が立ち並んでいる。家と呼ぶには貧相すぎる家屋もあった。
この一角に一人の青年が住んでいた。切り揃えられていない髪に、着古したボロボロの服。このスラム街のように陰気な表情をしている顔には、割れかけた眼鏡を掛けている。
青年はベニヤの家から出ると、大きく伸びをした。狭い家の中では、大の男が背伸びをするなどとても無理だからだ。
その時、ベニヤの家の間をすり抜けるようにしてこちらに向かって走ってくる女に、青年は気が付いた。このスラム街には似つかわしくない女だ。
青年はその姿を一目見て、自分の知っている女だと分かった。
「リア……!」
青年もリアの方に向かった。リアが目の前で立ち止まった時、青年は少し困った顔で口を開いた。
「何度も言っているけど、こんな所に来たらダメだよ、リア。女の子が一人で来るには危ないし、何より家の人が良く思わないだろう? それにアラザだって……」
青年はそこまで言って、口が止まった。目の前の女が泣いているのに気付いたからだ。リアは肩を震わして、声を絞り出した。
「ひっく……ダン……」
ダンと呼ばれた青年は、弱ったように額に手を置いた。そして、何かを思い付いたような顔をして、リアに話しかけた。
「……リア、泣かないで。ほら」
ダンは左手首を一回転させた。すると、ポンっという音を同時に、一輪の小さな花がダンの手の平に突然現れた。ダンはその花をリアに差し出す。
リアはそれを受け取ると、泣き顔を優しい笑みに変えた。
「綺麗なお花……。私、いろんなお花を見てきたけど、こんなお花は初めて見たわ。名前は何というのかしら……」
「名前なんてない、道端に咲いてるただの野草だよ。ごめん、家で花商人をやっている君にそんな花をあげるなんて失礼だったよね……僕には花を買うお金さえ持っていないから」
ダンは恥ずかしそうに言葉を濁した。しかし、リアは首を横に振って、嬉しそうに微笑んだ。
「いいえ、名前のないお花でも、とっても綺麗に咲いてるわ……。……ありがとう、ダン」
「うん……、君が泣き止んでくれて良かった。……ところで、どうしたんだい? 何かあったの?」
「いいえ……、何でもないの」
そう言うリアの表情が強ばったのを見て、ダンはリアに何があったのか推測できた。
「……アラザにまた何かされたのか? 最近のアラザはどこか変だ。リアにちょっかいを出すし、僕にも……」
「ダ、ダン! 久しぶりに、あそこに行ってみない? 今の季節はとっても綺麗だと思うの」
リアが慌ててダンの言葉を遮った。もうその話題には触れたくない、とでも言っている表情だ。
「リア? ……そうだね。今から行ってみようか」
ダンはリアの様子に不思議そうに首を傾げたが、結局はリアの提案に賛成した。
リアとダンはスラム街を抜けて、町の外に出た。町のすぐ横には森があり、その中に木々に囲まれた平地があった。色とりどりの花が自分の美しさを主張するように咲き誇り、蝶や小鳥がそれを祝福するように飛び交っている。その地上の楽園のような野原に、二人は腰を下ろした。
しばらくの間、周りの光景に心を奪われたようだ。二人は沈黙していた。昔を思い出したダンが懐かしそうに呟いた。
「小さい頃、リア、アラザ、僕の三人で、よくここに来て遊んだよね」
「そうね……。共通点なんてなさそうな私達がどうしてこんなに仲良くなったのか、今でも不思議ね」
リアがクスクスと笑う。そんな幼馴染に、ダンが思い出したように言った。
「そういえば、覚えているかい? リアが、こんな綺麗な場所を僕達三人だけの秘密にするなんてもったいない、って言った時、アラザが……」
「『ここは俺達の秘密基地だー!』……でしょ? 私達のリーダーが考えそうなことよね」
二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。それから、ダンは柔らかい草の上に寝転がった。
「昔、ここで三人の夢を語り合ったよね……。リアは花職人、アラザは東部派貴族一の将校、僕は手品師。二人はすごいなあ。着実に夢に向かっているしね。僕なんか、明日食べる物の見通しさえ立たないよ……」
ダンは力なく笑った。自分がいかに無力なのかを、自分の言葉で再び思い出したのだ。
そんなダンをリアが励ました。
「何言ってるの、ダン。あなたの手品だって、すごいわ! どんどん新しい手品を覚えて、私やアラザを驚かしてくれたじゃない」
「でも……手品師という職業は商売道具がとても高価でね、僕みたいなスラムに住む貧乏人には到底手が届かないよ……。でも、いいんだ。僕には身分不相応な夢なんだと分かったんだし。夢を見られただけでも幸せだったよ……」
「ダン……」
完全に諦めた様子のダンを見て、リアはショックを受けたようだ。いつもはダンが自分を励ましてくれたが、今度は自分がダンの力になる番だ。リアはそう心に決めて、ダンに優しく話しかけた。
「悩み事があったのなら、私やアラザに一言くらい相談してくれても良かったんじゃない? 私達、親友じゃない! それに私……夢に向かって頑張っているダンが大好きよ」
そこまで言って、リアはハッとした。
(私……今、何て言ったの?)
「リア……?」
顔を赤らめているリアを、ダンは不思議そうに眺めた。