第二話:顔を変える女
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──ランス──
(誰だ、俺の名を呼ぶのは……)
──私よ、忘れたの?──
暗闇に一筋の光が走る。光が闇を切り裂き、散った。
闇から光になったそこには、十五、六歳の年若い女が立っていた。絹のような亜麻色の髪は腰の辺りまで緩やかにウェーブがかかっていて、大きな茶色の瞳には柔らかい光が宿っている。微笑みを浮かべるその顔には、少しだけ幼さが残っていた。
(ロザリー! 誰が忘れるものか、愛しい人の名を……)
女は微笑むと、自分の首にそっと両手を回し、首に掛けてあった首飾りを外した。こちらに向かって差し出す手の平に、十字架の首飾りが載っていた。
──ランス、これを持っていて。きっとランスを守ってくれるわ──
ランスはそれを受け取った。首飾りに付いている十字架には、手足に杭を打たれた男が磔にされている。何故かランスには、そのブロンズ細工の男が自分自身に重なって見えた。
──今日はとっても楽しかった……。またこんな風に一緒にいられたらいいね──
女はそう言うと、少し悲しそうに微笑んだ。光に抑えられていた闇が再び現れ、徐々に女を蝕んでいく。女の姿は闇に消えていく──。
(…………! 待ってくれ、ロザリー! 行ってはだめだ、ロザリー……)
気が付くと、そこはみすぼらしい部屋の風景だった。部屋の中にある物と言えば、今ランスが寝ている粗末なベッドひとつと、ベッド横に小さなテーブルセットがひと組だった。テーブルの上には、わずかばかりのランスの持ち物が置いてある。
ランスは起き上がると、窓の外を見遣った。もう日が高く昇っている。昼前のようだ。昨日ランスは深夜近くに町にたどり着くと、町で一番安いこの宿に泊まったのだった。
「──……夢……か」
ランスは深く溜息をつくと、胸に掛けていた十字架の首飾りを握り締めた。
しかし、いつまでもこうしてはいられない。ランスはベッドから立ち上がると、支度を始めた。
(夢で過去を見るなど……俺も落ちたな)
*****
ランスが宿を出ると、多くの町人が活動していた。ここトゥスパンは、この地域では都市とも言うべき、大きな街だ。この街には繁華街があり、大通りの人通りは多い。ランスは人混みに紛れ込むようにして、通りの端を歩いた。
(さて……と。この街には、何人の大富豪がいるのだろうか……)
町から町へ放浪の旅を続けるランスの目的は、写真の中で微笑んでいる年若い女を見つけることだ。彼女の行方を知る者を探すため、その町の大富豪や権力者に探りを入れることもしばしばあった。女の出身は東部派貴族なので、上流階級の誰かが彼女を知っているに違いないとランスは踏んだのだ。
このトゥスパンの街にはどんな上流階級の奴らがいるのかひとまず調べてみるか、とランスが考えていた──その時だった。
「待て~~~~っ!! 泥棒!!」
大通りの向こう側から叫び声が聞こえた。ランスはそちらの方向を見遣ったが、通りは大勢の人で溢れていて何が起こっているのか分からない。周りの人々も、一体何事かと辺りを見渡している。
しばらくすると、少しずつ喧騒が近づいてきた。小さな叫び声や悪態をつく声がする。その“泥棒”とやらが人混みを掻き分け、ランスのいる方向に向かってきているようだ。通りを埋め尽くしていた人々が脇に避け始め、いつの間にか、通りの真ん中にぽっかりと道が出来ていた。
人で作られたその“道”の向こうから、一人の女が駆けてきた。胸には黒い鞄をしっかりと抱きかかえている。
「誰か、その女を捕まえてくれ~~!」
その女泥棒の後ろから、中年の男が追いかけてきた。しかし、小太りの体──日頃運動をしていないことが如実に現れている──では、軽やかに走る女を捕まえることなど到底できないことは明らかだった。
中年の男の懇願も虚しく、通りの人々は皆、いざこざに巻き込まれたくないという顔をしている。脇に避けて、事の成り行きを見守っているだけだ。
「ばーか! 男なら、人に頼らないで自分で捕まえな! でも、私はあんたみたいなオッサンに捕まらないけどね! ぼーっとしてるのが悪いのよ!」
そう言うと、女は中年男に向かって舌を突き出してみせた。中年男は顔を真っ赤にして、さらに憤る。
「おのれ~~~~っ」
次の瞬間、女泥棒がランスの真横を走りすぎた。その時、少しだが、女の腕がランスにぶつかったのだが、女は立ち止まることなくどこかへ走り去っていった。
「やれやれ……大富豪の前に、一仕事か」
ランスは溜息をつくと、女が走っていった方向へ歩き出した。