第一話:突如現れた男
──せっかく偉大な音楽家の娘として生まれたのに──
少女に向かって、周りの大人達はこう呟く。いや、少女にとってはそう言うのが『見える』だけだ。
耳の聞こえない彼女は、唇の動きから人が何を話しているかを理解する。生まれた時から耳が聞こえないため、周りの人間と交流する方法のひとつとして、無意識にも読唇術を心得たのである。
音の概念が解らない少女は大人達の考えのない言葉に傷つけられてきた。偉大な音楽家の下に生まれた子は当然音楽家としての道を歩むべきで、そのためにはどうやら使い物になる耳が必要らしいことを少女は解っていた。だからこそ、耳の聞こえない少女は大人達に必要とされない存在であり、むしろ無用の長物であるかのように扱われた。
──ねぇ、“音”ってなぁに? 誰か教えてよ……──
*****
音楽の町、プルーグ。元々何の変哲もない町だったが、とある音楽家が誕生してからは、その音楽家が住む町として世界中にプルーグの名が広まった。
世界に名を馳せたプルーグの音楽家、グラッシーの大豪邸。そして、その周りを広大な大庭園が取り囲んでいる。
庭園では雇われ庭師が何人も働いていた。丹精込めて育てられた花々や木々が春の到来を喜んでいる。たくさんの小鳥達がそれに共感するように、木々の上で楽しそうに飛び回っていた。
「ここか……。プルーグ一番の大富豪、グラッシーの屋敷は」
一人の男が、庭園の木々の間から音もなく現れた。群青色のほつれたマントで身体を覆い、頭にもフードを被っていた。顔は見えないように、布で目から下を覆って隠している。
しかし、この男は一体どうやってこの庭園に入って来たのだろうか。グラッシーの屋敷と周りの大庭園は、大男の二倍の高さはあるだろう塀によって囲まれているのだ。それに、出入りのための二つの門にはそれぞれ門番が立っていた。
男は木々の間から見える屋敷を眺め、祈るように呟いた。その目は何かを切実に訴えている。
「……今度こそ」
そして、決心したかのような面持ちで、物音を立てずに屋敷に向かって歩き始めた。
少し行くと、小さな噴水が姿を現した。噴水から流れ出る水が太陽の光できらきらと光り、心地よい音を立てながら跳ねている。
男がその噴水を横切ろうとした時、噴水の前にベンチがひとつ置かれていることに男は気付いた。誰か座っている。
男の位置からではベンチに座る人の後姿しか見えなかったが、小さな背丈からどうやら子供らしかった。後頭部には、まとめ上げられた長いポニーテールが揺れている。どうやら少女らしい。
しかし、子供だからといって男は油断していなかった──自分は無断でこの邸宅内に侵入しているのだから。怪しい恰好をした、見知らぬ男を少女が見つければ、大きな声を上げるに違いない。そして、たちまち屋敷の者が集まってくるだろう。男はそんなリスクを負いたくなかった。
相手の様子を観察するために、男は斜め後ろから少女を見られる位置に立った。その位置では少女の横顔がよく見えた。予想した通り、思春期に入る前の年齢の女の子だった。十歳くらいだろうか。色白の肌に小麦色の長い髪の毛が印象的な少女だ。大人しそうな顔つきにまだ幼さが残っているが、男には少女の漆黒の瞳が嫌に大人びて見えた。
その時、前に差し出している少女の手の平の上で何か動くものに男は気付いた。リスだ。よく見ると、肩にも小鳥が二羽とまっている。さえずっている小鳥達が少女と会話しているように見えた。
(普通は警戒して人間に近づかない鳥獣が、こうも少女に馴れているとは……)
そう思った瞬間、男はあることを思い出した。グラッシーには一人娘がいたはず。そして、ここはグラッシーの家だ。
この少女をグラッシーの娘と考えるのは妥当だ。“あの時”から年月を数えると、ちょうどこの少女の年齢くらいになっているはずだ。この家の住人であれば、庭園の動物が馴れていることも納得がいく。
そうと分かれば、このまま屋敷に忍び込むより、少女に連れられて屋敷内に入る方が少しはリスクが小さくなるだろう。そう考えた男は、少女に見つからないように避けるのではなく、あえて話しかける手段を取ることにした。
不審だと思われないよう語調に気を付けながら、男は背後から少女に声を掛けた。
「……少しお訊ねしたいんだが、お嬢ちゃんのお父上はグラッシーという人かい? もしそうなら、お父上のところまで案内してくれると助かるんだが……」
しかし、少女の返事はない。それどころか男の存在に気付いてさえいないらしい。少女は先ほどと変わりなく動物と戯れている。
「…………?」
男が立つ位置から少女が座るベンチまでの距離は五メートルほどだ。決して声を掛けられて気付かない距離ではない。男は不思議に思って、少女の方に一歩近づいた。
──その時だった。
男の足音に驚いた動物達が、少女の手や肩から一斉に逃げ、羽ばたいていった。
「…………!?」
少女は空へ羽ばたいていった小鳥達を驚いたように見上げた。どうして突然、動物達が自分から離れていってしまったのか分からない、といった表情だ。しかし、後ろから近づいてきた男が少女の視界に入った瞬間、その謎が解けた。
そのまま少女は身動きもせず、近づいてきた男の目を見た。男を見る少女の漆黒の目は決して穏やかではない。動物達を驚かせたことを責めるかのように──怪しい男を不審がるのではなく──男を睨んでいる。
男はここで少女を敵に回すことだけは避けたかった。大声でも出されて騒がれたら厄介だからだ。
この不穏な空気を打開するべく、男は再び口を開いた。
「すまない、邪魔してしまっ……」
その瞬間、少女は男の話を最後まで聞くことなくベンチからさっと立ち上がった。そして、男を一睨みしてから、逃げるようにどこかへ走って行ってしまった。
男は呆然としながら少女の後ろ姿を眺めることしかできなかった。
(……一体どうしたというんだ?)