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首都崩壊

2017年.3月30日 午前8時12分


東京都.新宿区.新宿警察署




綾芽と龍介は、自分達の拠点である新宿警察署に到着した。龍介が警察署前まで車を寄せたと同時に、入れ違いで数台のセダン( 覆面パトカー)がサイレンランプを天井に装着した状態で出ていった。


「朝っぱらからご苦労なこったな。」


「あんたも同じ立場でしょうが。」


綾芽からの言葉に「的確なツッコミどうも」と返し、龍介は車を車庫に入れる。


新宿警察署に所属する警察官数は600名余り、日本最大の警察署である。


正面入り口から署内へ入った二人は、普段とは違う空気が署内に満ち溢れていることに気がついた。


二人は、「なんだろうな」と目を合わせつつ、署内の一室へ向かう。


扉上に「第二機動捜査隊」と書かれた札が貼られている扉を開けて中へ入ると、室内は騒然としていた。


部屋中を事務員が走り回り、捜査員達が書類を片手に叫んだり、装備を急ピッチで整えたりと、明らかにこれまでの普通の朝とは異なる光景が広がっていた。


「どいてくれ!」と準備を整えたらしい捜査員達が部屋からダッシュで出ていく。




「え、なんだろ、ヤバい事件でもあったのかな?」


「さあ……」


二人して呆然と入り口で立ち尽くしていると、一人の男性警察官が二人のもとへ駆けてきた。彼も見たところ腰のホルスターに拳銃を装備している。これから外へ出るのだろう。


「宮野先輩!高月先輩!」


「そんな大声で呼ばなくたって聞こえてるっつーの。」


生き生きとしたその声に、龍介が顔をしかめながら返した。溢れんばかりの若さを感じさせるその警察官は名取(なとり)という、二人より一つ年下の新米刑事である。


「名取君、この騒ぎは一体何なの?」


「あ、えっと……なんか、都内各地で混乱が生じているそうで……詳しい話は隊長から聞いてください!俺も出動命令を受けたんで今から出ます!」


そのような物騒な状況の何が楽しいのか、眩しいぐらいに明るい表情で説明する名取に、綾芽は首をかしげた。


一方で隣の龍介はその笑顔の理由を見抜いているらしく、やれやれと言った表情を浮かべると、低い声で名取を突いた。


「おい、質問されたぐらいで喜んでんじゃねぇよ。」


「なっ……!べ、別に喜んでなんかいませんよ! 」


龍介の言葉を耳にいれた瞬間、名取は顔を真っ赤にして否定した。


「ゆでダコみたいな面して否定されたって何の説得力もねぇんだよ。」


男二人が繰り広げる会話の意味が上手く読み取れないらしい綾芽は、きょとんとした様子で成り行きを見守る。




「……高月先輩って、本当に鋭いですよね……」


「そうじゃねえ。お前がわかりやすいんだ。」


観念したとでも言うように、名取から勢いが消え失せた。同時に龍介は何か閃いた表情と共に、意地の悪い笑みを浮かべると、名取に「耳を貸せ、いいことを教えてやる」と顔を引き寄せた。


「何ですか?いいことって……」


「知りたいか?」


「いや、先輩が教えてやるって……」


「仕方ねぇなー、耳の穴かっぽじってよく聞いとけよ?」


「はい。」


「……今朝、綾芽の裸をご馳走になってきた。」


「っ!?」


「あの大きさだと……多分Dカップぐらいか……」


「っ!!」


……硬直する。とは正にこのことだと、龍介は「くっくっく」と笑みをこぼした。どうやら期待通りの反応を得られたらしく、大変満足げである。


……裸をご馳走になった。とは言っても、たまたま綾芽が不手際で下着姿をさらけ出しただけであるが、龍介はあえてそこを隠して誤解を招く表現を名取の耳元で呟いた。


顔を真っ赤にした名取は、まるで石化したかの如く、身動き一つ取らない。


「え……龍介?名取君になに言ったの?」


気になって仕方がないのだろう、綾芽が男二人の耳打ちの内容を求める。


その声に反応した名取が、ガシッと綾芽の肩を掴みにかかった。突然の出来事に、綾芽の体がビクッと反応する。


「宮野先輩!どういうことですか!?」


「は……なにが?」


「今朝のことだよ、俺がお前のをご馳走になったってやつ。」


隣からの龍介の声に、綾芽は「ああ……」と何かを思い出したようだ。ガタガタと震えながら見つめてくる名取に綾芽は言った。


「確かにご馳走したけど。」


「そんな……!」


「いや、別に大したものじゃないよ?ついでだったし。」


「ついで!?」


名取は綾芽の肩から手を離すと、力なく項垂れた。それを見て綾芽はあたふたする。


━━えっ、朝食をでしょ?落ち込む理由がわからないんだけど……




その二人の傍らで、龍介は必死に込み上げる笑いを堪えている。


「えっ……名取君、一体どうし━━」


「宮野!高月!もう来てるか!?」


突然隊長席の方から響いた召集に、綾芽の言葉が遮られた。


「は、はい!」


「こっちに来てくれ!」


「了解!……あー、名取君……なんかよくわかんかいけどごめんね?」


いまいち名取の心情を読み取れない綾芽は、とりあえずお詫びを入れて「行くよ」と龍介の裾を引っ張った。


龍介は「名取」と彼の肩に手をおく。


「冗談だ。」


「はい!?」


光速で項垂れていた上半身を上げ、名取は龍介の方へ目を向けるが、彼は既に綾芽と共に隊長席へ向かっていた。


「高月先輩……勘弁してくださいよ……


自身が弄ばれていたことに気付き、名取は再びガクリと肩を落とす。


「……ん?じゃあ宮野先輩の言ってたご馳走したって何のことなんだ?」


考えを巡らせる名取だったが、同じ班の刑事に「名取!早くしろ!」と急かされ、彼は課せられた任務に向かうべく部屋を後にした。




機捜隊長から召集を受けた綾芽と龍介は、並んで隊長の机の前で敬礼した。


威厳のある顔立ちが印象的な第二機動捜査隊.隊長━━仙堂(せんどう)が向かい合う形で、机の上の書類を纏める作業を行っている。


その顔つきは泣く子も黙る威圧感だが、部下に常に気を配り、時には厳しく、時には優しく接する、情に厚い警察官である。そして……


「隊長、おはようございます。」


「ああ、おはよう。悪いがお前達を呼んだ理由は、昨日の競馬について熱く語り合うためではない。」


……ちょっとしたユーモアも兼ね備えている。


━━ええ、こっちもそのつもりです。


そのジョークを綾芽は心の中で容赦なく叩き落とす。こういうのはさらっと受け流すに限るもので、誤っても口に出して否定しては━━


「隊長、こちらもそのつもりはごさまいません。」


「!?」


━━おぉい!?


こいつ言いやがった!口に出しやがった!


受け流さず、まさかの全力打撃を加えた龍介。わざとなのかバカなのか。ことの真相はわからないが、仙堂の書類を整える手が止まったことから、この後何を命ぜられるか綾芽は即時に予想した。


「宮野。」


「はい。」


「俺の代わりに一撃頼む。」


「了解。」


「えっ?ちょ……うぐっ!」


綾芽は素早く胸元で左拳を右手で握ると、突っ張った左肘をそのまま龍介の右脇腹へめり込ませた。


「見事な肘撃ちだ、宮野。」


「ありがとうございます。」


「た、隊長……」


龍介が右脇腹を押さえながら、勘弁してくれという表情を浮かべる。


「美人な同僚からの愛のムチだ、有り難く受けとれ。」


仙堂は満足そうに龍介の反応を見た後、真剣な表情に戻し、改めて二人へ切り出した。


「さて、ふざけるのはこれぐらいでいいだろう。時間が惜しい、本題に入るぞ。」


低くなった声に、綾芽と龍介も姿勢を整えた。


「本題とは……署内の騒ぎと関係があるんですか?」


「そうだな。手取り足取り教えてやりたいが……端的な説明で我慢してほしい。


30分ほど前から、都内各地で通行人が突然襲われたという通報が頻発し始めた。


詳細な情報が欲しいところだが、まだそれぞれの事件の関連性は掴めていない。とにかく警戒体制強化のため、悪いがお前達にも今から出てもらう。コーヒーを飲む時間も与えてやれんが……」


「傷害事件……ということですか?」


「現時点ではそう捉えるしかないな。

既にこの第二機捜からも複数の班が出動している。直に収拾はつくはずだが……」


とにかく気を付けろ。と仙堂の言葉を受け止め、二人は警戒パトロールへ向かうために部屋を後にした。





━━午前8時45分.


二人は足早に廊下を歩いていた。

相変わらず署内は騒然としており、それだけで都内が異常な状況下に陥りつつあることが読み取れる。


「ねぇ……」


隣を歩く龍介に、綾芽が声をかける。


「……すっごく嫌な予感がするんだけど。」


「奇遇だな、俺もだ。まあ、なるようになれって感じだな。」


浮かない表情を互いに浮かべている内に、二人は銃器保管庫へ辿り着いた。ここでは警察官達が携行する拳銃が管理されている。


入り口の管理員に警察手帳を見せて中へ入ると、同じくこれから出動するのであろう者達が各々の拳銃にマガジンを差し込んでいた。


綾芽も自身の拳銃が保管されている場所へ行き取り出す。


「マガジン1つ分だけで足りるといいがな……」


「やめてよ、縁起でもない。」


「ああ、悪かったよ。」


悪態をつきながら、龍介も銃本体と、弾が充填されているマガジンを取り出した。

二人が使うのはM92バーテックという、装弾数15発のアメリカ製自動拳銃。以前は特殊捜査班のみに配備されていたが、他の捜査組織にも配備が進められている。


綾芽も15発入りのマガジンを銃底へ押し込み、安全装置が掛かっていることを確認してから右腰のホルスターへM92を差し込んだ。


ずっしりとした重みが腰にのしかかる。


スーツの前は開けたままにしておく。いざという時に、素早く腰のホルスターまで手を伸ばせるようにしておくためだ。


拳銃の装備が完了し、二人は車庫へ向かった。


警察署が管理する黒いセダンのロックを外し、今朝のように龍介が運転席、綾芽が助手席に乗り込んだ。


鍵を差し込み、右へ回す。エンジンの目覚める音を確認し、龍介はハンドルを握った。


「さーて、パトロールと行きますか。」


アクセルを踏み込み、車庫を出る。

二人を乗せたセダンは、暗雲が立ち込める首都の道路へと繰り出した。



まだ街全体としてはそれほど乱れてはいないようだ。しかし、遠方、またはすぐ近くから絶え間無く他のパトカーや救急車等のサイレン音が耳に飛び込んでくる。


━━見えはしないが、確実にこの街は今

、何かに侵されようとしている。


まだ『不審者』と出くわしてはいないが、綾芽はどうしても不吉な予感が胸に引っ掛かっているような感覚を拭いきれず、更に深まり続ける黒い雲がそれを煽っていた。





特に何の異変にも出くわさず、警察署を出発してから15分ほどが経過した。


このまま何事もなく戻ることになるか……二人がそう考え始めた、その時だった。通りかかった商店街の入り口付近から女性の叫び声がこだました。たちまち付近に人だかりが形成され、二人がいる車内からもそれは目視できた。二人はすぐ近くにセダンを停車させ、その人だかりへ向かった。


「警察です!通してください!」


龍介が警察手帳を掲げながら、もう片方の手で人だかりを掻き分けていく。


綾芽もそのすぐ後に続いて歩き、やがてその中心まで辿り着いた。


中心部では、二人の人間が重なるように倒れている。


女性が下敷きになる形で地面に仰向けに倒れ、その上に男が覆い被さっている。女性の首筋に顔を密着させているようで、表情は読み取れない。


━━白昼堂々と……随分と悪趣味な犯行ね……!


刑事として……女として許しがたい現場に遭遇した綾芽は、素早くスーツの裾を払って腰のホルスターに手を伸ばし、M92バーテックを引き抜いて男へ声を張り上げた。





「警察よ!その女性から離れなさい!」


綾芽の透き通った、しかし威圧感の込められた声が響く。

同時に拳銃の銃口を男へ向けた。男も一般人、拳銃等という物騒な代物を向けられれば、変な気は起こさないだろう。


警察官が銃器を構えるという滅多に御目にかかれない緊迫した状況に、周囲の野次馬達も興味を抑えきれないのか、その場から離れずに成り行きを見守る。


女性の首筋に顔を埋めていた男は、綾芽の声に反応したのか、ゆっくりと頭を上げ始めた。


綾芽は観念したかと思い、銃口を向けつつ男性を現行犯逮捕するため手錠を左手で腰から取り外し、男に近付こうとした。


が、綾芽を突然龍介の腕が遮った。


どうしたのよと、龍介を見上げる。彼は男へ視線を向けたまま、しかし横顔からでもわかる程の警戒心を露にして言った。


「待て……なにか様子が変だ。」



「えっ?」と綾芽も再び男へ視線を戻す。その時……


「っ……!?」


顔を上げた男がこちらへ振り返った。

その顔に、思わず二人は表情を歪ませる。


まるで生気が抜け落ちたような蒼白な顔面、焦点の定まっていない濁った瞳。そして口の周りを鮮やかに彩る紅の液体……



「ち……血だ……血だーーー!!」


「うわぁぁぁ!!」


次の瞬間、周囲の野次馬達のざわめきは悲鳴へと変わった。


蜘蛛の子を散らすように八方へ逃げていく。余りの恐怖に腰を抜かし、その場から動けない者も現れた。


綾芽と龍介も、思わず後退りしてしまうほど動揺していた。




ゆっくりと立ち上がるその男は、不穏な唸り声を上げながら、おぼつかない足取りで二人へ近づいてきた。

その後ろに見える、男に倒されていた女性の首筋からは肉が半分無くなっている。そこから鮮血が吹き出し、既に周辺のアスファルトを真っ赤に染め上げていた。致死量の出血だ、もはや手遅れだろう。


動揺する心を必死に支えつつ、綾芽は男へ視線を戻した。


薄汚れた服は、もう何日も着替えていないかのようで、泥にまみれ、所々が破れている。しかしどのような服だったのかは把握できた。


……だが、この身なりが綾芽の脳内を更に混乱へ陥れた。


━━まさかそんな……あり得ない……!


綾芽は男の服装を見るや否や、その黒い瞳を見開いて、「うそ……」と途切れそうな声を吐いた。


それを聞き取った龍介が、額に汗を滲ませながら綾芽へ視線を向ける。


「綾芽、取り乱すんじゃねえ。どうしたんだよ?」


「あの……男の服装……」


「あ?」


「よく……よく見て……!」


段々と震えが増していく綾芽の声に何かを感じ、龍介も男を凝視する。そして、彼も綾芽と同じく何かを思い出したように目を見開いた。


「お、おい……嘘だろ……!」


「間違いないわ……あの男……!」


━━二人の記憶は、ちょうど綾芽の部屋で朝食を摂っていたところまで遡る。


その際報道されていた、長野県白馬村での行方不明事件。


そのニュースの最後に、ニュースキャスターが読み上げたものがあった。


『なお、長野県警はこの行方不明の男性に関する情報提供を呼び掛けています。


男性の氏名は、山本鉄也さん。身長は175㎝程で、上に青い生地に黒の縦ラインが入ったランニングシャツ、下に白いハーフのスポーツパンツ、黒に白いラインが入った運動靴を身に付けているとのことで━━』


そして今、二人の目の前にいる男は、その情報と一寸の狂いもない身なりをしているのである。




「んなバカなことがあってたまるか!」


龍介の焦燥した声が響く。


「今朝の事件は長野県で起こったんだぞ!?ここは東京だ!瞬間移動でもしてきたってのか!?あり得ねえよ!」


こめかみを伝う汗はそのままに、「どうなってやがんだ……!」と困惑の色を隠せない龍介と同様に綾芽も自身の目を疑ったが、目の前にいる男は何度見てもニュースの情報通りの人間だった。


如何にして東京まで辿り着いたのか、答えを導き出すことはできないが、それよりも突っ込みどころ満載な今の現状で既に綾芽の心は混乱していた。そんな中で、少しでも冷静さを取り戻すために頭の中を整理する。


先ず言えること。それはこの男が女性を一人殺したということ。それも残虐な手口で。


その時点で十分『普通の人間』ではないのだが……


「くっ……止まりなさい!」


拳銃を向けても、一切動じない。果たして普通の人間は、銃口を向けられて無視できるような余裕を持っていられるものだろうか。


目の前の男はまるで、恐怖と言うものを忘れているかのようだ。……いや、もしや通じていないのか。それを確かめるべく、ゆっくりと近付いてくるその男に綾芽は最終警告を行った。


「聞こえないの!?止まりなさい!本当に撃つわよ!」


……男に反応はない。強いて言えば、唸り声が返ってくるだけ。


おそらくこいつには言葉による制止は無意味だ。ならば力ずくで鎮め込む必要がある。だが、相手は容赦なく人間を殺めた殺人犯。このノロノロとした動きがもし、こちらの油断を誘って動きを鈍らせる罠だとしたら……無闇に突っ込む訳にもいかない。


不気味さ極まりない外見から漂う死のオーラが、戦慄を煽る。


これまで大概の事件を冷静に処理してきた綾芽だが、今回ばかりはそのゆとりは消え去っていた。


緊張状態から息は荒くなり、肩を上下させながら銃口を向け続けることしかできない。


そうしている間にも、男は距離を詰める。気がつけばその距離は3mにまで迫っていた。


「くっ……!」


人差し指を、引き金に掛ける。だが……


……撃ちたくない…………いくら凶悪な人間だからといって、銃で傷付けるとなると素手で抑え込むのとはわけが違う。鉛弾を体内に撃ち込むようなことは……


……したくない……!


綾芽の瞳にどうにかしなければならないという思いと、傷付けたくないという思いの色が入り雑じる。指が、引き金に力を加えるか否かで震えている。


━━お願い、止まって……!


蒼白な顔面の男が、目の前まで迫る。その濁った目を見据えながら、綾芽は心の中で叫んだ。


……その時。


突然綾芽と男の間に影が割って入った。




「……龍介?」


目の前に割って入った龍介の背中に、綾芽は銃を下げた。


彼は男を見据えたまま、綾芽へ静かに言い放つ。


「綾芽……深呼吸だ。今は心を落ち着かせて、無駄なことは考えないようにしよう。先ずは目の前の殺人犯を鎮める。それだけやり抜こう。」


龍介は続いて男に向かってドスの聞いた声を放つ。


「おいこらてめえ……さっきから止まれって言われてんだろ?お巡りさんは言うこと訊かない人間には厳しいんだ……それはお前も知ってるはずだが?」


だが、男は歩みを止めず、龍介との距離は僅か2mという近さまで接近した。


……と、そこで男は足を止めた。


「…………」


龍介は無言のまま男を睨み続ける。瞳が濁っているせいで目の焦点が定まっていないことが原因なのか、男が止まると同時にその次の動作が読めなくなった。まるで電池切れを起こしたロボットのようだ。しかし油断はしない。相手は人間を殺した凶悪犯だ。


自身の鼓動が緊張で速くなるのを感じながら、龍介は綾芽へ意識を向ける。


「……綾芽、もう一歩下が━━」


━━まさにその、一瞬だった。


龍介の背中を、とてつもない寒気が襲った。刑事として数々の事件に関わってきた彼にはその寒気の正体がわかる。


━━己へと、殺気が向けられた瞬間に感じるものだと。




その直後停止していた男が、突如半ば倒れるような勢いで龍介に飛び掛かってきた。


「っ!?うおお!」


反射的に身構えた龍介は頭から倒れてきたその男の両腕を掴み、辛うじて接近を阻止した。男は届かない顎をガチガチと動かしながら、力ずくで龍介との間隔を狭めようと更に押してくる。


「龍介……!」


綾芽の動揺が混ざった声が背中にかかる。


「大丈夫だ!」


それに短く返して龍介は右足を上げ、がら空きの腹部目掛けて、前蹴りを叩き込んだ。


━━入った。


感触で、龍介は腹部の急所である鳩尾へ自身の一撃がヒットしたことを悟った。屈強な身体を持つ人間でも呼吸が詰まるこの場所に渾身の蹴りを撃ち込んだのだ。


龍介の見解では、一般人がこれを食らえば悶絶もの。果ては意識をも奪える一撃だ、すぐに立ち上がることなど不可能である。


不意討ちを食らった男はよろめき、そのままバランスを崩して背中からアスファルトへ転倒した。


「はっ、勝負あったな。詰めが甘いんだよ。暫くそこで大人しく寝て……っ!?」


龍介は目を疑った。男は一切苦しむ素振りを見せず、ゆらゆらと立ち上がったのである。


「なっ……なんだこいつ…………くそ!」


一瞬狼狽えた龍介だったが、すぐに次の行動に出た。地面を蹴り、まだ態勢が不安定な男へと距離を詰める。


素早く左腕を掴んだ龍介は、男の背中にその腕を回し、自身も背後を陣取る。そのまま地面へ男をうつ伏せの状態に組伏せ、その上に乗って自由を奪うと、右腕も後ろへ回して手錠をかけた。


「はぁ……はぁ……いい加減諦めやがれ……!」


立ち上がった龍介は、男がもがくばかりで起き上がれそうにないことを確認し、綾芽のもとへ歩いた。




「大丈夫か?」


「うん……ごめんね、ちょっと信じられない事が続いて取り乱しちゃった……全く……情けない……」


そう言いながら、綾芽は自虐的な笑みを浮かべる。


「いや、謝ることはねえよ。俺もここまで狂った人間に出くわすなんて思ってもいなかったしな。」


綾芽と向かい合ったまま、龍介は胸ポケットから無線機を取り出した。


新宿警察署へ繋ぎ、現場を隔離するための応援と被害者の遺体を収容するための救急車を要請するためだ。


スイッチを押し、無線機を口元へ近付けたその時だった。


突然辺りを大きな衝撃が襲った。足下が激しく揺れ、耳を潰されそうな爆発音が響く。


「きゃ……!」


「今度はなんだってんだよ……!」


辛うじてバランスを保ち続けた二人は、爆発音が響いた方角へ視線を向けた。


「なっ……!」


二人の視界が捉えたのは、不気味な雲に覆われた天へ昇る黒煙だった。同じ方角から、人々の悲鳴も聞こえてくる。


「これもしかして……テロか……?」


黒煙を凝視しながら龍介が呟く。


一理あるな……と綾芽も黒煙を見つめながら考える。同時多発的に発生したこの傷害又は殺人事件で警察を撹乱させようとしていたのだろうか……


『━━こちら新宿本部!宮野、高月、聞こえるか!?』


龍介の無線機から、機捜隊長.仙堂の声が響いた。


「こちら高月、聞こえます。」


『高月、二人とも無事なのか!?宮野も傍にいるのか!?』


しきりに二人の様子を確かめてくる仙堂の声からは、普段の落ち着きようには不似合いな周章が感じ取れる。




「宮野も傍にいます。何かわかったんですか?」


『無事か……ならその質問に答えるのは後だ!大至急署まで戻ってこい!外を彷徨くのは余りにも危険だ!』


「しかし……現在殺人犯を確保しているんです。そいつへの対処は……」


『今すぐ離れろ!そいつは放っておいていい!』


「りょ、了解……今すぐ戻ります。」


仙堂の一抹の余裕も感じさせない声を怪訝に思いながらも龍介がそれに応え、二人は目を合わせた。


と、その時、綾芽は視界の端に何か動くものを捉えた。龍介の背後だ。


……そしてその存在を確認した綾芽は目を見開いた。


「龍介、危ない!」


次の瞬間、龍介の無防備な背後にいつの間にか立っていた一つの影が、耳を塞ぎたくなるような金切り声を上げた━━━


━━━━━━━━━━



━━━━━━



━━━



……目の前での唐突な出来事に、龍介は目を見開いたまま動けないでいた。



「はぁ……はぁ……」



ただ、綾芽の荒い吐息だけが辺りを支配している。


彼女の小刻みに震える両手には、銃口から硝煙の臭いと火薬による煙を漂わせているM92バーテックが握られている。


「あや……め……」


霞むような龍介から声が絞り出された。


これまで彼が見たことの無い表情だった。署内で名高い綾芽の真っ直ぐな意志が体現された様な気品に満ちた表情はそこにはなく、ただ己の指先が力を加えたことに驚駭しているような……怯えた瞳をしていた。


……と、同時に。


背後から、バタッと何かが地面に倒れる音を耳にした龍介は、自身の後ろ側へ振り返る。


「!?」


そこには、先ほど男に噛み殺されたはずの女性が、額に穴を開けて倒れていた。


「ど……どういうことだ……死んでいたはずじゃ……!いや、そもそもなんで被害者であるはずの彼女までが、俺を襲おうと……」


頭を撃ち抜かれた女性は、今度こそ間違いなく絶命しているだろう。


しかしたった今死んだと考えるには不自然な点があった。蒼白な皮膚に濁った瞳。そしてなにより、首筋から半分消えてなくなっている肉と、女性が倒れていた場所に溜まっている大量の血。


あの状態でまだ生きていたなど、とても考えられることではない。




━━この濁った瞳、蒼白の顔面……取り押さえた男と同じだ……



唖然とする龍介の側で、今度は綾芽が膝を崩して地面へしゃがみこんだ。


「綾芽!」


龍介が彼女の肩に手を回し支え、「大丈夫か」顔を覗き込んだ。


対する綾芽は、瞳を真っ赤に染め、今にも雫が溢れそうな状態のまま肩で息をしている。


「龍介…………わたし……」


「ああ、わかってる……」


「龍介の……後ろに…………あの男と同じ……危険な表情の女性が見えたから……龍介が殺されると思って……気がついたら……指が……勝手に……」


「わかってる、わかってるから……俺を助けるために撃ってくれたんだろ?ありがとうな。」


龍介は震える声を絞り出す綾芽を落ち着かせようと、彼女の背中を擦る。



その後沈黙が続く二人の耳には、ただひたすらに人々の叫び声と爆発音や衝撃音だけが…………


…………日本最大の都市が、崩壊していく音だけが響いていた。



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