滅亡の狼煙
2017年3月27日 午後10時48分
大阪府.大阪市.天王寺区
「おったぞ!こっちや!」
「待たんかいコラァ!」
既に日は沈み、暗闇が覆う大阪市天王寺区。
静寂が支配する住宅地で、突如怒声が響いたのはたった今のことだ。
続けて響いたのは、ドタドタとアスファルトを蹴りあげる足音。それも複数人のようだ。
ざっと5、6人と言ったところだろうか。
そしてその足音達が追い掛ける先でも、一人のアスファルトを蹴りあげる音が響いていた。
その足音の主である男は、息を荒げながらもボストンバッグを抱えて懸命に後ろから迫る集団から逃げる。
彼は公園を見つけると咄嗟にそこへ入り込んだ。
公園内に生い茂る草木を利用して、追っ手の目から逃れようという魂胆のようだ。
だが……
「ええ加減に……せえよ!」
後から追い掛けてきた内の1人が、隠れようとしていた男へ飛び付いた。その衝撃で、抱えられていたボストンバッグが宙へ投げ出される。
二人はそのまま勢いに身を委ね、地面へと倒れ込む。そこへ続いて到着した屈強な男達が、次から次へとそこへのし掛かった。
同時に宙へ投げ出されたボストンバッグも地面に打ち付けられ、衝撃で中身が辺りにぶちまけられた。
中からは、幾冊もの古い書物がバッグから放り出されていた。
「22時48分、犯人逮捕!」
のし掛かった男の内の1人が、自身の腕時計へ目をやって叫んだ。
一番下で組伏せられた男は、何故か口角を上げて歯を見せている。
最初に彼へ飛びかかった男が、組伏せられた男の腕を後ろへ回し、手錠をはめ込んで言った。
「大阪府警や。なんで捕まったかはわかってんな?窃盗容疑で、お前を逮捕する。ったく……あんな由緒正しい寺から盗みなんぞ働きやがって……」
どうやら男を拘束した者達は警官のようだ。
その警官の内の1人が、地面に転がっていたボストンバッグを拾い上げ、続いて中から飛び出ていた書物を拾い上げようとしたその時。
「っ!……今の……なんや……」
手を伸ばした瞬間に感じたとてつもない寒気に、彼は咄嗟にその手を止めた。既に寒気は消えている。だが、確かに感じた。この書物に手を伸ばした瞬間、確かに嫌なものを感じたのだ。
警察官は黙りこんで、拾い上げようとした書物の表紙を凝視する。
「日本國……未来記……?」
と、その時、彼の背中に別の警察官が近づいた。
「待て。それらは貴重なもんや、丁重に扱わなあかん。あとで段ボールと新聞紙を持ってきてそれに包む。そのあと一応鑑識に持っていって、目立った傷が新しく増えてへんか検査してもらうぞ。」
「……了解……」
上司であろう警官にそう言われ、彼はそのままその手を引っ込めたが、その表情からは困惑の色が浮かび上がったままであった。
「くっくっくっくっ……!」
地面に組伏せられながらそれを見ていた男は、目を見開いて不気味な笑みを浮かべた。
「これで……クハンダが降臨する!!」
突然絶叫する男に、抑えていた警官が胸ぐらを掴み怒鳴り付けた。
「訳のわからんことを口にするな!」
しかし、男はきみの悪い笑みを浮かべたまま絶叫を続ける。
「『例の邪気』を感じた……貴様らがその目に捉えたからだ!これで……これで日本の腐敗した秩序は浄化される!!」
「どういう意味や!?何を企んで……なっ!?」
次の瞬間、男は突然━━
━━ブツッ━━
━━自身の舌を噛みきり、そのまま絶命した。
━━3日後。
2017年3月30日 午前6時31分
東京都.品川区
15階建てのマンションの一室に、その女性は住んでいた。
彼女は、バスルームで肩を覆うほどの長さがある黒髪を背中に回し、頭からお湯を浴びている。
お湯によって火照ったその肌は、普段は白く艶のあるきめ細かいもので、化粧などもほとんど必要としないほどである。
そして同世代の女性なら誰もが羨ましがるであろうその引き締まったボディラインと端麗な顔立ちは、見ず知らずの他人が彼女を一目見れば、モデルでもやっているのではないのかと錯覚してしまうであろう。
だが、彼女の職業は晴れ舞台でウォーキングと衣装を披露するものではない。
シャワーの蛇口を捻ってお湯を止めると、浴室を出て用意しておいたバスタオルで身体に残った水分を拭き取った。
下着を身につけ、壁に引っ掻けてあるドライヤーを手に取る。
鏡の前に立ってコンセントを差し、黒髪の余分な水分をくしでときながら弾き飛ばした。
乾いた黒髪に艶が露になったことを確認してドライヤーを止めた彼女は、顔に化粧水をひと塗りし、バスタオルを肩にかけて、化粧水の入ったボトルを手に洗面所の扉へ近づいた。
━━今日も気を引き締めて、頑張らないと。
ボトルをぎゅっと握り締め、彼女はリビングへ続く扉を開けた。
マンションは築8年とまだ新しい方で、バスルーム、トイレ、キッチン完備。
リビングは然して広くは無いが、独り暮らしの彼女にとっては何の不備もない、とても快適な部屋になってい━━
「よぉ。」
「きゃぁぁぁ!?」
誰もいないはずの早朝のリビングと共に視界に飛び込んだ1人のスーツ姿の男に、女性は絶叫した。
まるでそこにいるのが当たり前とでも言うかのように、ソファーにどっしりと座り込み、長い足を組んでいる。
若干短めに整えられた頭髪は清潔感に溢れ、女性に笑顔を向けているその顔付きは、町行く女達から黄色い声援を浴びせられてもおかしくないほどの爽やかなものだったが、この部屋の主である女性には、それらの要素は全て、この場においては不満要素以外の何物でも無かった。
男は嫌味なぐらいの爽やかさを纏ったまま、叫びを上げたきり絶句している女性へ声をかける。
「いや~、今日も素晴らしい天気だなっぐふぁ!」
同時に女性の手から化粧水のボトルが男の顔面へ撃ち込まれたのは言うまでもない。
男は不意討ちを受けた額を擦りつつ、変わらず笑顔を浮かべていた。
「相変わらずの安定したコントロールだな綾芽……いやーしかし、このリビングはやっぱ快適な━━」
「不愉快!実に不愉快よ!」
「何でだ?こんなに綺麗な部屋なのに……何か余計な物でも置かれてるのか?」
「あんたに決まってんでしょうが鬱陶しい!逆に言わないとわかんないわけ!?あんたの頭どうなってんの!?……いや、それより何でここにいるの!?てかどうやって部屋に入って来たのよ!?」
止まらないツッコミ……というか最早罵声に等しい言葉達を、マシンガン並みのスピードで能天気な男に浴びせる女性━━
宮野綾芽は、必死さが滲み出るような形相で男を問い詰めた。
対して男はヒートアップする綾芽を宥めつつ、落ち着いた声で返した。
「今日無駄に早起きしたせいで暇だったから、迎えに来てやったんだよ。それから、玄関の鍵は開いてたぞ。」
「はぁ!?迷惑もいいとこ……えっ、嘘?開いてたの?」
途端に静かになった綾芽は一瞬目を見開いて、玄関へと目をやる。
そんな彼女を見て男は溜め息を吐くと、「あのさぁ……」と静かに切り出した。
「お前、もうちょっと恥じらいを持とうな?」
突然お説教━━いや、おそらく嫌味の部類だ━━ が始まったのかと、綾芽は「はい?」と不愉快な心情を露にして男へ視線を戻した。だが……
「さっきからずっと下着だけで叫んでんだぞお前。」
「ふぇっ!?」
「何?朝っぱらからその身体俺にご馳走してくれるわけ?」
「なっ……なっ……!」
そこで初めて、自分は今まで下着一式のみで1人の男と対峙していたことに気付いた綾芽は、反射的に両手で胸を覆い、みるみる顔を真っ赤に染めた。そして、
「き……着替えてくるわ……」
もはや戦意喪失。そんな言葉がぴったりな、先程とは対照的な覇気のない声でそう言うと、綾芽はリビングからトコトコと出ていった。
「……やれやれ……相変わらず表情豊かな女だ……」
恥ずかしそうにリビングを後にする綾芽を見送った男━━
高月龍介はフッと笑みをこぼした。
綾芽は寝室に入ると、扉を閉めてタンスの前にペタッと座り込んだ。
「あいつマジでなんなのよ……!」
綾芽の心を渦巻くのは、朝一から受けた羞辱に対する悔しさと……
「一生の……一生の不覚……!」
下着姿を見られたというとんでもない恥ずかしさ。思い出しただけで、また頬が熱を帯びていく。
そしてこの行き場のない恥ずかしさを紛らわせるため……
「……後で一発蹴り上げてやろう。」
……と何やら男にとってはこの上なく物騒に聞こえてしまう思いつきを口に出しながら、綾芽はタンスからワイシャツを取り出した。
それに腕を通して第一ボタンを除いた全てをとめ、続いてタンスの横にあるクローゼットを開く。
ハンガーに掛けておいた黒のレディーススーツの上下で身を包み、ソックスを履いてから髪を軽く整えた。そして最後に……
「……よし。」
旭日章が輝く黒い手帳をスーツの内ポケットへ滑り込ませた。
そう、彼女は紛れもない警察官である。
先ほどは終始取り乱していた綾芽だが、彼女は機動捜査隊の一員、すなわち犯罪者達と第一線で対峙する刑事なのである。
警察署での彼女の評判と言えば、強くてクール、一言で言えば強い美人警察官。
というのも、いくら表では男女平等と謳われているこの世の中でも、やはり女性というのは男性上司などから下に見られがちで、綾芽の職場である警察等という組織にでもなれば、心身共に強靭さが求められることから、少しでも弱い部分を見せてしまうとたちまち周囲から甘く見られてしまう。
という内情を把握していた綾芽は、そうならないような振る舞いを続けている。
実際に強さを意識して来た彼女は、26歳という若さながら、物事に対して冷静に向き合い、事件の捜査を着々とこなしていく力を持ち、職業柄時には犯人と白兵戦になることもあるが、合気道を足しなむ彼女の手にかかれば、並み大抵の人間は直ぐに抑え込まれる。
そんな彼女でよく遊んでいるのが、綾芽が先ほど顔面にボトルをお見舞いした男、高月龍介である。
綾芽と同僚の彼も勿論機捜(機動捜査隊)であり、基本的にペアで行動するこの隊で二人は任務を共にする、つまりは相棒と言うことである。
彼も綾芽同様、先ほどは警察官らしさを思わせる素振りは一切無かったが、実家の父親は剣道の道場の師範代であり、龍介もその父親から剣術を始めとする武術を学び、身につけている。
更に、その武術達からの賜物なのか、度々行われる射撃訓練ではいつも好成績をマークしており、その度に相棒の綾芽にどや顔をかましては蹴りを食らっている。
綾芽も仕事仲間であるにも関わらず、他の警察官と接する時と違い、彼の前だけでは怒ったり顔を赤らめたりと、自分の素の部分を度々露にしている。
そんな二人を見た上司が、「お前らは相性が良さそうだから」と若手の綾芽と龍介でペアを組ませたのだった。
相棒がいるリビングへ綾芽が戻ると、彼はソファーの向かい側に置かれている液晶テレビを付けてニュースを眺めていた。
━━こいつ本当に我が家みたいに使ってやがるわ……
じっとテレビを見つめている龍介を一瞬睨み付け、綾芽はリビングと繋がっているキッチンへ入った。
「龍介、朝ごはん食べたの?」
綾芽は裾を捲り上げて手を洗いながら、キッチンカウンター越しに龍介へ問い掛けた。
「いや、食べてない。」
「じゃあ、食パンでいい?」
「え、作ってくれんの?」
龍介が意外そうな表情で綾芽へ視線を向ける。
「ついでだからね」と言って綾芽は朝食の支度に取り掛かった。
トースターに食パンを2枚放り込み、ダイヤルを回す。
パンが焼ける間に、フライパンを温め、バターを入れる。全体に馴染ませてから、ベーコンを軽く炒め、更にそこへ卵を落としてかき混ぜる。
焼き上がったそれを用意した2枚の皿へ二等分して盛り付けると、丁度トースターが軽快な音を奏でてこんがりと焦げ目のついた2枚の食パンを押し上げた。
それも1枚ずつ皿へ移し、両手で皿を持ち上げて綾芽はリビングのテーブルに置いた。
一旦キッチンへ戻り冷蔵庫を開けて、コーヒーと牛乳を取り出す。予め出しておいたバターとコップは持てない。もう1往復しようと決めた、その時。横から現れた大きな手が、バターと2つのコップを持ち上げた。
「食わせて貰うんだ、俺も手伝うよ。」
龍介は「行こう」と笑みを浮かべてリビングに戻った。
すっと現れてすっと消えた龍介に、きょとんとしていた綾芽だったが、彼女も笑みを溢して龍介の後を追った。
食パン、スクランブルエッグ、ベーコン、そして昨日の夕食の際に余った野菜サラダという何ともポピュラーな朝食を二人で摂りながら、画面越しに映るニュースキャスターの声に耳を傾けた。
『━━続いてのニュースです。3日前から連続して発生している、詳細不明の失踪事件が今朝、再び発生しました。
事件現場は長野県白馬村の山中で、地元で暮らす40代の男性が早朝にランニングへ出掛けたきり、家に戻って来ないとの通報が地元の交番へ寄せられました。
警察官が男性のご家族の案内のもとランニングコースを捜索したところ、途中大量の血痕が見つかったとのことで、長野県警は三日前から多発している同様の失踪事件と状況が一致することから、事件性が更に濃厚となったとして、捜査員を増員して付近の調査にあたっています。
なお、これまで発生した同様の事件にも、失踪現場と思わしき場所で大量の血痕が発見されており、警察は同一犯、もしくは組織犯罪の可能性も考慮して━━』
「……またか、これで何件目だよ。」
龍介が食パンを頬張りながら言った。
綾芽も職業柄、一連の事件については耳にしていた。
全国で行方不明者が3日前から続出しているのだ。
そして事件が発生したと思われる付近を警察が捜索したところ、大量の血痕……則ち血溜まりが事件発生直後に発見された。
そして今日、全く同じ失踪事件が再び発生した。龍介の言う通り、これで何件目なのだろうか。そもそもこんな短期間で同じような失踪事件が起こるなど、複数人が及んだ計画的犯行以外に考えられない。
この不気味な失踪事件は、すでにネットでも話題になっており、訳のわからない都市伝説などを踏まえた事件の憶測が飛び交っていた。
「お前も気を付けろよ?」
ベーコンに手をつけようとする綾芽に、龍介が言った。
「は?何に。」
「この事件の被害者にならないように、だよ。怪しい人に声かけられたらお巡りさんに通報するんだぞー」
「……」
━━こいつは私を小学生扱いする気か。腰に拳銃と手錠を下げて歩き回る子供がどこにいる。
「仮にでもそんな事があれば、その時は犯人を顔面から地面に叩き付けて上げるわよ。」
体験させてあげようか?そう言って綾芽は怪しい笑みを浮かべて両手を握ったり開いたりして見せる。
それを見た龍介の顔が若干ひきつり、「いや、遠慮しておく」と言って皿へ視線を戻した。
「つまんない奴。」
「いや何がだよ。」
龍介からのツッコミを華麗に無視して、綾芽も残りの朝食を口の中へ運んだ。
━━午前7時30分.
朝食を食べ終えた二人は仕事へ向かうため、共に綾芽の部屋を出た。
鍵をかける綾芽の横で、龍介が空を見上げ「あれ?」と呟く。
「どうしたの?」
「いや、俺がお前の部屋に入るまでは晴れてたんだ……なのに今は……」
鍵を掛け終えた綾芽も龍介に並んで空を見上げて見た。
「うわ……ひどい色だね……」
視界に入って来た空の様子は最悪だった。
ここまで黒くなるかと思わせるような分厚い雲が一帯を覆い尽くしている。太陽の光の一筋も見えなければ、青空も一切垣間見えない。
「傘、持っていくべきかな。」
「……賢明な判断だな。」
綾芽は再び玄関の鍵を開け、傘を2本手にしてから鍵を掛け、今度こそ仕事場へ向かうためにマンションを後にした。
龍介が車に乗ってきたというので、綾芽は今日だけ帰りも含めて世話になることにした。
警視庁の人間達がよく使う黒いセダンの助手席に、綾芽は腰掛けた。
龍介がハンドルを握り、車を運転する。
車での移動中も、相変わら分厚く真っ黒な雲はそのままで、見ていると自分まで憂鬱な気分にさせられそうなほど不気味なもので…………
「……龍介。」
「ん?」
「今日も無事に、1日を終えられるといいね。」
「……?ああ、そうだな……」
意味深な言葉に内心首をかしげながらも、龍介はそれに同意した。
一方の綾芽は、窓の外へ目を向けたままだったが、その瞳には一抹の不安が揺れていた。