夜の輪郭
スーツが書きたかったんです。
心を、かき乱すような。
耳障りのいい声には、甘い毒が含まれている。
多分、致死に至るにはほんの少しだけ足りないほどの毒。それは僕をがんじがらめに縛り上げて動けなくし、君だけしか見えなくする。
仕事が終わったのが日付変更の境目だった。呼び出されたのは電話。着信音は君だけのもの。君との空間が繋がった幸せな証。
今すぐ、と言われて、一瞬迷った。
スーツのままで、と君は見透かしていた。
シャワーは浴びなくていいから。
あなたの汗の匂いが好きよ。
語尾が甘く上がるやわらかな疑問系。好きよ。君は必ずその言葉を尻上がりで口にする。断定してしまえば、僕が調子に乗るとでもいうように。僕より弱い立場に立たされるとでもいうように。
早く来て。
感情をにじませない言葉から、それでも薄く発せられる愛の欠片のようなもの。
君の声は薄荷の透明さを持つ。
一面ガラス張りの窓、その向こうに広がる夜景に目をやる。背の高いビル達のまたたき。赤と、真珠の色と、オレンジ色と黄色と鋭い青と。ひとつずつの光は独立しているのに集合している。寄り添って個々に輝く。
早く、来て。
甘い毒の含まれた言葉。
君の声。
僕の心は細いけれど頑丈な金属の紐でぐるぐると巻かれてきりきりと締め付け上げられる。なんて、甘い、痛み。
今、すぐ。
来て。
携帯電話の向こう側から夜の空気ごと流れ込んでくる君の声。
電話の受信口から手を突っ込んで直接繋がれてしまったらいいのに。そうしたら、猥雑な夜の空気から君を救い出せるのに。不安のいつしか膨らんで、ひどい圧迫感を伴った悪夢のような場所から君をさらえるのに。
本当は。
電話などで繋がっても意味はないのだ、会いたい気持ちは満たされない、誤魔化されることばかり覚える、耳に馴染む声に騙されて大切なことを忘れそうになる。
君の声。
君の声、
君の、声。
パソコンの電源を落とす。社内の明かりはまだ煌々と点いているのに、レベルを下げたかと思うくらい一段暗くなる。
電話を耳に当てたまま、空いている方の手でネクタイの結び目に指を差し込む。緩める。喉が解放されて気管が広がる。息苦しさが消える。ほんの、少しだけ。
「ネクタイは、わたしが解きたいのに」
彼女は受話器の向こうで微かに笑う。
どうして分かったのか驚いていると、あなたの声だもの、と唇をきっちりと笑みの形に持ち上げているのが分かるような返事がきた。
「ネクタイを解くわ。すべらかな生地に指を這わせて、片方の手であなたのスーツの肩に触れる。近付いてもいいかしら? ワイシャツの襟元の、あなたの汗の匂いが好きよ。いい匂いがする。獲物を確保した後の肉食獣みたいな。舐めたらあなたはきっとあまりいい顔をしないわね。でも舌先が感じるあなたの汗の苦さが好きよ。もうたまらなくなるから、その胸に顔を埋めさせてね。一日を終えた充実感の匂いがする。乾いた太陽のくすぐったさも混じってる。間違えてないわ、確かだもの。抱きしめてもいい? スーツの背中でわたしは自分の手を繋ぐわ。ぎゅっと。わたしが力いっぱい抱きしめても、あなたは痛みなんて感じないんでしょうね。わたしは痛いほどあなたのことが好きなのに。……あなたを思うと胸が痛いの。本当よ。わたしはあなたのものだから。飽きたら簡単に捨てられてしまうことをいつも恐れているの。首筋を舐めさせて、ほんの少しだけ歯を立ててもいいかしら、あなたの存在がきちんと確実にそこにあることを自分自身に証明するために。わたしが顔を上げたら、ちゃんと目を見て。わたしの目に、あなたしか映っていないことを確認して。好きよ。好き。どうしてあなたはわたしと繋がっていないの? どうしてわたし達はふたつのバラバラな生き物なの? どうしてわたしはあなたの一部でないの? わたしは、できるならあなたの身体のどこかになりたい。命が終わる瞬間まであなたと一緒にいたい。好きよ。好き。言葉ではどうして足りないのかしら、抱き合ったら抱き合ったで、肌と肌の隔たりの確実さに泣くのに。どうしてわたし達は溶け合ってしまえないのかしら。昨日よりも今日のあなたが好きよ。今日よりもきっと明日の方がこの気持ちは大きくなっているわ。好きよ。今すぐ、会いたいの、会って、抱きしめて欲しい――」
君の声は、毒だ。
僕を完全に縛ってしまう、甘い甘い毒。
致死量に足りない絶妙さで、僕の目に君以外を映せなくしてしまう。
僕は君の声を受け止めながら、そっと目を閉じる。
夜の輪郭がありありと分かる。肌で感じる。ホットケーキの縁を甘く塩辛く染み込んでかりかりにさせたバターみたいに、夜はくっきりと縁取られている。
君のいる、夜。
ネクタイを解く続きを、あの白い指で妄想する。願う。恋することは、祈りに似ている。届かなくても、口にせずにはいられない、そのくせ届かないことに苛立ち、焦る。
君の声。
君の夜。
僕の言葉。
君の唇。
君の。
僕の。
まぶたを開けば、ガラスの向こうにはまだ夜がまたたいている。あれが終わってしまう前に。僕は、王子様のように君のもとへ駆けつけなくてはならない。使命ではなく、僕自身の満足のために。君の欠けているものを埋めるために。僕の失っているものを補充するために。
愛してる、の言葉はチープすぎて口にできないから、僕は見えてもいないのにこちら側で小さく頷く。
会いに行くから。
小さな約束。
大きな願い。
君が好きな僕が君に好かれているという幸福。
互いの尻尾を飲み込んだままのヘビのように、僕らはふたりで完結したい。
愛の言葉は放り投げる。夜の輪郭が濃くなる。光る。あの縁はきっと信じられないような美味だ。だけど僕は夜に飲み込まれている君にしか興味がない。君だけに会いたい。君の言葉に浸りたい。君の中に溶けたい。
そして、ふたりでバターのように絡まって溶け合ってしまう夢を、見たい。