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おにぎり屋ふくふく

おにぎり屋ふくふく|クロだけが知っている

作者: 絵宮 芳緒
掲載日:2026/05/14

クロは、知っていました。


「いつも通り」に見える日に、本当はつらそうな人がいることを。


その日も、ふくふくにはやわらかい湯気と、おにぎりの香りが広がっていました。


ふくさんが、おにぎりを並べていきます。


シャケ。

タラコ。

ツナ。

かつお。

梅。


「ツナある!」

まぐろの目が、ぱっと輝きました。


「ぼく、かつお!」

トラもしっぽを立てます。


ミケは、いつものようにタラコの前。


シロは静かに梅を見つめていました。


そしてクロは――

いつもなら真っ先にシャケを見るのに、今日は違いました。


じっと、扉の方を見ています。


「クロ?」

トラが首をかしげました。


そのとき。

からん、と扉の音がします。


「こんにちは」


入ってきたのは、いつもの常連さんでした。


ふくふくによく来る、若い女性。


「いらっしゃい」

ふくさんが、やさしく迎えます。


女性は、いつものように笑いました。


「今日は昆布あります?」


「あるよ」


ちゃんと笑っている。

声も普通。


でも――

クロは、じっと女性を見ています。


歩く速さ。

ドアを閉める音。

息を吐くタイミング。

少しだけ、いつもと違う。


「にゃ?」


まぐろが、不思議そうにクロを見ました。


でも、ミケたちには分かりません。


クロだけが気づいていました。

今日は、無理して笑っている匂いがすることを。


女性は、いつもの席に座ります。


ふくさんが、お茶を置きました。


「はいよ」


「ありがとうございます」


笑顔。

でも、そのあと。


ほんの一瞬だけ、女性の表情がほどけました。


疲れたみたいに。


クロは、静かに近づきます。


女性は気づいて、少し笑いました。


「クロちゃん」


その声はやさしい。

でも、少しだけ細い。


クロは、近づきすぎない場所で座りました。


目を細めながら、静かに女性を見ています。


ふくさんが、おにぎりを差し出します。


「今日は昆布だよ」


「ありがとうございます」


女性は、おにぎりを受け取りました。

まだ、ほんのりあたたかい。


ひとくち。


「……おいしい」


ぽつり、と声がこぼれます。


窓の外では、風が揺れていました。


店の中は静かです。

急かす人もいない。


ただ、やわらかな時間だけが流れていました。


「今日ね」

ふいに、女性が言いました。


クロの耳が、ぴくりと動きます。


「失敗しちゃって」

女性は、小さく笑います。


「大したことじゃないんです」

そう言いながら、おにぎりを見つめました。


「ちゃんと謝ったし、もう大丈夫なんですけど」


でも。

その“ちゃんと大丈夫です”の言い方が、少しだけ苦しそうでした。


クロは、静かにしっぽを揺らします。


女性は、ふっと息を吐きました。


「……なんか、疲れちゃったな」

その声は、ようやく本音みたいでした。


ふくさんは、何も聞きません。

ただ、やさしくうなずきます。


「そういう日もあるよ」


女性は、少しだけ目を伏せました。


クロは、そっと席の近くへ移動します。


近づきすぎない。

でも、離れない。

その距離を、クロは知っていました。


女性は、おにぎりをもうひとくち食べます。


「……あったかい」

今度は、少しだけ力の抜けた声。


クロは、ゆっくり目を細めました。


食べ終わるころには、女性の肩の力が少し落ちていました。


「ありがとうございました」

来た時より、やわらかい声。


ふくさんは、にっこり笑います。

「またおいで」


女性は立ち上がって、クロを見ました。


「クロちゃん、ありがとね」


クロは、「にゃ」と小さく返事をします。


からん。

扉が閉まる音。


トラが、不思議そうに言いました。

「クロ、今日はずっと見てたね」


「シャケも見てなかったし」

まぐろも、くすっと笑います。


ミケは、クロをちらりと見ました。

「気づいてたんでしょ」


シロは静かに目を細めます。


クロは、窓の外を見ていました。


少しだけ軽くなった背中が、遠ざかっていきます。


ふくさんが、そっと笑いました。

「分かるんだねぇ」


クロは、静かにしっぽを揺らします。


「にゃ」


それだけでした。


でもきっと――

クロだけは、知っていたのです。


笑っている日の中に、隠れている寂しさを。

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