太宰治と出会えなかったことに感謝を
街の灯りが、ドス黒い空ににじむ午前二時。
ネオンは星の代わりになれず、ただ地面に貼り付いた絶望を照らしていた。私は、誰かにこの気持ちを覗かれる前に、スマートフォンの電源を切る。画面が暗転する音が、世界から切り離される合図みたいで、少しだけ安心した。
「死にた、」
声に出した瞬間、その言葉は形を持たない幽霊になって、狭い部屋をゆっくりと彷徨い始める。壁に染み込み、天井に溶け、最後には自分の胸へと戻ってくる。
仕方がないのだ。普通に生きるという行為には、私はもう向いていなかった。欠けすぎて、壊れすぎて、修理不能のままここにいる。
そんな私を縛り付け、どこへも行けないようにしてくれるのが君だった。
逃げ場のない夜のなかで、君の存在だけが重力を持っていた。私が消えようとすると、必ず引き戻してくる、静かで残酷な引力。
「ねえ、殺してよ」
冗談みたいに、笑いながら言う。どうせ本気にされないと分かっているから。
君は何も答えない。ただ黙って、私を抱きしめる。
強すぎるほどのその腕は、優しさでも救いでもなかった。
それでも、その圧力だけが私がこの世界にまだ属している証だった。
狭い部屋には、常に耳を壊すほどの爆音で音楽が流れている。思考を止めるためだ。旋律に意味はないほうがいい。歌詞が理解できてしまうと、そこに自分を重ねてしまうから。私は無意味な論理を頭の中で並べ替えながら、胸の奥で暴れ続ける孤独に仮の名前を付けて黙らせる。
私は君の顔が好きなわけじゃない。
君の性格が立派だから、ここにいるわけでもない。
ただ、君が過ごす二十四時間という、途切れることのない日々のなかでその一欠片になるのは悪くなかった。
君の、朝と夜の境目に名前も役割もなく滑り込み、存在していたという痕跡だけを残したい。
私たちはお互いに大きなズレ偶然のように重なり合い、離れられなくなる。
愛でも欲望でも説明できない、ただ増幅していく依存。それは、あまりに意地悪な鎖だった。
剥き出しになった孤独が、互いの肌を通じて伝わってくる。
温度も、震えも、逃げたい気持ちさえも、嘘みたいに同期していく。
私は君を必要としているわけじゃない。
それでも私は拒まない。
その事実だけが、私にとっては致命的だった。
「ねえ、私たちってなんのために存在しているんだろうね」
音楽にかき消されそうな声で問いかけても、君は答えない。ただ、逃げ場を塞ぐみたいに、腕に力を込める。その沈黙が、肯定よりも残酷だった。
生きる理由なんてない。
でも、死ぬ決心をするには、君との日々が綺麗すぎる。
私は今日も、君の時間の端っこにそっと寄り添ったまま、午前二時をやり過ごす。
朝が来てしまえば、また名前のない人生に戻ると分かっていながら。
それでも、離れられない。
この鎖が切れる音を、私はまだ想像できないから。
私の体には、消えない痛々しい痕がある。
誰にも説明できないし、説明しようとも思わない過去が、皮膚の上に静かに横たわっている。時間が経てば薄れると思われたそれは、なぜか私が生き延びるたびに、くっきりと主張を強めていった。
君はそれに興味を示すことはしなかった。
視線を逸らすことも、優しい言葉で覆い隠すこともしない。むしろ、新しい釘を打ち込むみたいに、私を自分だけの場所へと固定しようとする。
逃げ道を塞ぐ手つきは、驚くほど慎重で、残酷なほど丁寧だった。
「このまま、どこにも行かないで」
懇願でも命令でもない、その声。
君の瞳の奥に、暗い絶望とは違う、小さな光を見た気がした。
希望と呼ぶには脆く、執着と呼ぶにはあまりに無防備な、それ。
私たちは愛の起源を探すみたいに、理性も、常識も、許容も、すべて脱ぎ捨てていく。
名前のない衝動に身を委ね、境界線を一つずつ踏み越えて、別の次元へと足を踏み入れる。
それは救いじゃなかった。
間違いなく、深い場所への転落だった。
でも、不思議と怖くはない。
君の体温が、私の孤独と同じ速度で落ちていくのが分かったから。
この底に、光はない。
未来も、正しさも、戻る道もない。
それでも、二人で堕ちるなら。
片方だけが置き去りにされることはないのなら。
それはもう、孤独ではないのかもしれない。
私は君の腕の中で、静かに目を閉じる。
壊れたままでも、傷だらけのままでも、ここにいていいと錯覚しながら。
世界が終わる音が聞こえるまで、
私たちはこの深さで、互いを手放さない。
少なくとも、今夜だけは。
朝が来る直前、部屋には二人分の香りと錆びついた心が軋む音だけが残っている。
カーテンの隙間から滲む薄明かりは、夜の共犯関係を白日の下に引きずり出そうとしているみたいだった。
私は眠らないまま、体に残る古傷をなぞる。
その溝の奥に潜んでいる異物、私を私たらしめている得体の知れない絶望の輪郭を確かめるために。
それは痛みでも記憶でもなく、たぶん欠落に近い。
君という強すぎる刺激を与えられて、初めて分かった。
私は、思っていたよりずっと深い場所で、孤独だったのだと。
誰かと体を重ねるたびに薄まると思っていたこの孤独は、逆に輪郭をはっきりさせていく。
きっとこれは一生治らない。
治す必要のある病気ですらなく、ただの構造欠陥なのだ。
君はまだ眠っている。
無防備な背中が、夜の約束など最初から存在しなかったみたいに静かに呼吸している。
この人も、やがて自分の朝に戻っていく。
私を置いていったまま、何事もなかったように。
それでいい、とも思う。
君の体温に触れている、このわずかな時間だけは、
この孤独さえも、破滅へ向かう物語の一部として愛せる気がするから。
私はそっと部屋を抜け出し、振り返らない。
朝は必ず来て、夜は終わる。
それでも、確かにここに、私たちは存在していた。
救われなかったとしても。
壊れたままだとしても。
それでいい。
こうやって私は今日も、生き延びてしまう。




