私が私の為に生きることは悪いことだったの?
なんとも言えない出来です…
その朝、鏡の前に立った私は、いつもより長く自分を見つめていた。
王太子の婚約者。
敬虔で、慎み深く、決して波風を立てない令嬢。
そう“見られている”自分を。
侍女が下がり、部屋に一人きりになる。
私は無意識に、胸元の小さな聖印に指を触れていた。信仰の証。教会から贈られたものだ。
そのとき、鏡の中の私が、先に瞬きをした。
「……?」
遅れたのではない。
私より先だった。
『相変わらずね』
声がした。
私の声だった。
喉がひくりと鳴る。
『その顔。何も知らないふりをして、平然と残酷な行いをした人の顔』
鏡の中の私は、静かにこちらを見ていた。
「……あなた、誰?」
『あなたよ』
『正確には、あなたな捨て去った良心』
心臓が早鐘を打つ。
『ねえ、覚えてる?聖女が“異端の疑い”をかけられた夜』
空気が、冷えた。
覚えている。忘れるはずがない。
あの夜、城は異様に静かだった。
『本来なら、あの時殺されてもおかしくなかった。』
鏡の中の私が淡々と言う。
『でも、出来なかった。彼女は“奇跡を起こした”から』
奇跡。病を癒やし、枯れた畑に芽を出させた力。
『本物か偽物か、断定できない存在を殺すのは怖い』
『だから彼女は隔離された。保護という名の、猶予』
修道院送り。それが意味するものを、私は知っていた。
「……だからって、私に何の関係があるの」
声が震える。
鏡の中の私は、少しだけ目を細めた。
『関係しかないでしょう』
廊下の情景が、脳裏に蘇る。
夜更け。忍び足。荒い呼吸。
『彼女は、王太子の元には行けなかった』
当然だ。
王太子が彼女を庇えば、
“王権が神を脅かそうとしている”と断じられる。
最悪の場合、共倒れ。
『神官の元にも行けなかった。異端審問を主導していたのは、彼らだから』
助けを求めること自体が、無駄になる。
『だから――』
鏡の中の私が、一歩近づいた。
『最後に残ったのが、あなた』
胸が、詰まる。
『王太子の婚約者で』
『教会からも信心深いと評価されていて』
『どちらの陣営でもない』
私は、あの夜の自分を思い出す。
扉の前で、立ち尽くしていた私を。
『あなたの一言は、権力者の横槍じゃなく、“第三者の証言”として扱われるはず。』
だから扉が叩かれた。
『彼女は、泣いていた』
あのとき私は、扉の前に座り込んで、動かなかった。
鏡の中の私が、静かに言う。
『あなたは気づいていたはずよ』
『彼女が消えれば、王太子の視線が、完全にあなたに戻ること』
胸の奥が、じくじくと痛む。
否定できない。
『奇跡を起こすたびに、あなたの存在は目立たなくなった』
民衆の喝采。王太子の微笑み。
それが、自分に向けられなくなっていたこと。
『彼女が異端と呼ばれたとき。』
鏡の中の私が、こちらを見据える。
『あなた、ほっとしたでしょう』
私は、息を呑んだ。
『彼女が消えれば、あなたは何もしなくても、再び“選ばれる側”に戻れる』
扉の向こうで、彼女は泣いていた。
でも私は、その声を、
『煩わしいと思った』
言葉が、突き刺さる。
『今ならまだ助けられる』
『そういう思いもあったのに。』
『でも何より、』
鏡の中の私が、微笑んだ。
『彼女がいなくなれば、あなたは安心できると思った。』
私は、何も言えなかった。
沈黙は、恐怖からでも、無力さからでもない。
選択だった。
『だから、扉を開けなかった』
『だから、声を上げなかった』
その結果、彼女は修道院へ送られた。寒くて小さくて、ボロボロの修道院へと。
『あなたは、直接罪を犯したわけではない』
『誰も殺していない』
鏡の中の私が、一歩近づく。
『でも、誰かが消えることで、自分の居場所が守られると知って、それを受け入れた』
喉が、焼けるように痛む。
『その感情を、あなたは持ちきれなかった』
だから。
『嫉妬も』
『安堵も』
『あの夜、眠れた自分も』
すべて、切り離した。
『それを引き受けたのが、私』
『あなたの良心と罪悪感』
鏡が、静かに歪む。
『ねえ、もう分かるでしょう』
白い手が、こちらへ伸びる。
『あなたは、なにもしなかったのではなく、ただ、醜い本音を隠そうとしたの。』
世界が反転する。
次に目を開けたとき、
鏡の前に立っていたのは、わたしだった。
誰も、何も疑わない。
当然だ。
この世界が必要としているのは、選ばれ続ける“清らかな私”。
罪を犯して、その罪悪感から逃げ出した私は、最初からここにいるべきじゃなかった。
これから永遠にここで過ごすのだ。誰にも迷惑をかけることなく、たった1人で。




