第三話:二十九ちゃい
「吹き出してなかったー。でも火、止めてきたよー」
ひと仕事終えたみたいな達成感を浮かべた顔で、七海が浴槽にバシャーンと飛び込んでくる。
跳ねたお湯でぽんずはずぶ濡れ、俺も鼻やら耳やらに入って、心底気持ち悪い。湯気で視界が白く曇って、鼻の奥がツンとする。
「最悪。何歳だよ。……二十九ちゃいめ」
隠せない笑い声でそう言うと、七海は「どうも、二十九ちゃいです」とドヤ顔をする。
腹立つから小突いてやった。肩をちょんと押しただけなのに、七海はわざとらしく「いてぇ〜」と声を上げて、さらに湯をばちゃばちゃさせる。ほんとに子どもだ。
ぽんずはぽんずで、ずぶ濡れになったのも気にならないくらいリラックスしてるのか、浴槽の縁に顎を置いて今にも寝そうになっている。鼻先だけがぴくぴく動いて、くぅくぅという寝息が湯気に混ざった。
俺はその顔を見て、変に力が抜けた。こういう瞬間だけは、いろんな不安が一度、沈む。
それからさっさと髪と体を洗い、眠そうなぽんずも拭いてやってリビングへ戻った。
ぽんずはタオルの上で一度だけ全力でブルブルして、水滴を撒き散らす。七海が「やめてー!」って叫ぶ。叫ぶだけで止めない。俺が拭く。いつも通りだ。
髪を乾かせばすぐ食べられるように、鍋は温め直しておいた。
コンロの火をつけると、ふつふつと湯が踊って、赤からの匂いが部屋に広がる。少しだけ辛い匂い。腹の奥が勝手に「飯の時間だ」って反応する。
髪を乾かしもせず、下着姿でペタペタ走り回っていた七海が、ようやくスウェットを着た頃。
俺はドライヤーを押しつけるみたいに渡したが、七海は受け取るだけで電源を入れない。代わりにぽんずを抱えて、頬ずりしている。
……ほんと、家の中だとダメダメだ。
食卓に鍋を置いて、ご飯をよそって、ぽんずにもご飯をあげる。
ぽんずは自分の皿の前で一回だけ「待て」をして、許可が出た瞬間に顔を突っ込んだ。七海が「えらい!」って拍手する。
俺は笑いそうになるのを飲み込んで、しゃもじを置いた。
気づけば二十二時。俺たちも遅めの夕食にした。
湯気の向こうで七海がこっちを見て、何か言いかけて、結局いつもの顔に戻る。
――この時間が続けばいいのに、と思う自分がいる。




