第二十八話:思い出と切れ味
「ごめん、今日夕飯遅くてもいい? 早くて九時ごろかな……」
帰ってきたら真っ先に風呂へ行きたいだろうし、たぶんそのくらいになる。
「あ、はい。私は特に、次の日予定もないので」
「大丈夫です」と言いながら、その子はぽんずをこねくり回している。ありがたいと思いつつ、俺はジュースのおかわりとバームクーヘンを追加で出しておいた。
俺は俺で現実逃避も相まって、小論文の練習なんてしたくない。さっき水につけた砥石をタオルの上に置き、しまってあった包丁をシンクに並べた。
「あ、危ないから。ぽんずがこっち来そうになったら呼んであげて」
そう声を掛けると、「はい!」と元気な返事が返ってきた。
高い包丁なんて何本買っても、結局「使うのがもったいない」で安い包丁を使ってしまう。けど、たまに高い方を手に取るだけで料理してる感が出るのが好きだった。
「この包丁、そろそろ買い換えかな」
一本千円くらいの安い包丁は、研いでも研いでも切れ味が戻らない。かれこれ七海と出会ってからずっと使ってるし、思い出深い。
俺は他の二本を交互に見た。片方は四万ほどした、少し青みがかった包丁。もう片方は三万くらいで、波紋が綺麗な包丁。
たまに使うけど、使い倒すにはもったいないし、柄の部分が木だから漂白もできない。
「もうちょっと踏ん張ってくれよな……」
結局、料理の最前線はお前しかいない。俺はそう言い聞かせながら、ある程度研いだところで洗ってまな板に置いた。
砥石も軽く水で洗って水気を拭き取り、しばらく隅に追いやる。使わない包丁も同じだ。
なかなか切れない包丁で野菜を切り終え、鶏肉はハサミで一口大にする。他のものは食べる前に片栗粉をまぶしたり洗ったりして下処理するので、今はやめておいた。
一通り夕飯の準備が終わる頃、リビングに目をやれば妙に静かだ。ソファからびよーんと、ぽんずの足だか手だかが見える。たぶん二人とも寝てるんだろう。
起こさないように暖房を入れ、風呂を洗い、そのまま湯を張る。
待ち時間で、俺は小論文の参考書を手に取った。
ガチャッ。
「わっ……!」
十分ぐらいだろうか。階段に腰掛けていると、リビングのドアが開き、驚いた声がした。
「あ、ごめん。起こしちゃ悪いと思って」
「こちらこそ、すみません」
そう謝られて、また気まずい空気が戻ってくる。
「それは……」
その子は俺の手元の参考書を見て、不思議そうな顔をした。
「あー、いや。その……年甲斐もなく、大学……行ってみたいなーなんて、思っちゃったりして……」
絶対に引かれたと思った。
世間が俺を見る目は、現実が見えてない派遣の男。三十路を越えた大の大人が今さら夢を見るなんて、恥ずかしい。
それを、現役の高校生に見られたんじゃ、鼻で笑われる。
必死にごまかしているうちに、恥ずかしくもなるし、悲しくもなっていた。
「大学って……そんなに、良いところですか?」
でも、その子の反応は違った。
大学が良いところなんて信じられない。疑いの目を向けたのは俺じゃなく、大学という組織そのものに対してだった。




