第二話: 赤から、三番鍋
長い渋滞に嫌気が差して、少し遠回りをした。
もしかしたら――七海と帰りが重なって、駅で見かけるかもしれない。
普段は年中エアコンなんて使わない俺が、ほんの少しの期待を胸に暖房をつける。
駅前は相変わらず大渋滞だった。
ロータリーの流れに飲まれながら、それらしき影を探す。――でも、見つからない。
ピロン。
携帯が鳴った。嫌な予感がした。
俺は暖房を切って、乱暴にハンドルを切る。
ロータリーの渋滞から抜けると、そのまま家へ直帰した。口元は歪み、目頭が熱かった。
玄関の鍵を開ける。ほとんど飛び込むみたいに家に入り、鍵を閉めることすら忘れて寝室へ向かった。
見たくなかった携帯を開いて、顔を枕に埋める。
今日も残業。
どうせ明日も残業。
明後日だって残業。
残業で帰ってきやしない。
七海の性格上、浮気はありえない。
元より、恋愛や安定より、仕事と挑戦を選ぶ人間だって知っている。
その中で、盲目的に俺を選んでしまっただけ――そうやっていつも、自分に言い聞かせた。
もう三十になるのに、俺は派遣だ。
それも中卒で大工をやってきて、派遣ですら簡単には受からなかった。
この年でまだ、大卒の新卒と同じかそれ以下の給料をもらい、ろくに賃貸の審査も通らない。
この立派な一軒家は、七海が払っていた。
4SLDK、月15万。初期費用は80万以上。
そんな家賃を払っても平然として、好きなものを買い、好きなことに打ち込む七海を見ていると――俺は釣り合わないって気持ちが、日に日に濃くなる。
来年には独立する予定で――なんて話をされると、特に。
「……」
胸が、ざらつく。
そのとき。
「クゥーン」
ベッドの下から、テトテトと軽い足音がした。
俺と七海が出会った年に“我が子”として迎え入れたパグのぽんずが、「おかえり」とでも言うみたいに尻尾を振っていた。
ぽんずが俺の首元で丸くなる。
この息苦しさが、たまらなく好きだった。すべてを終わらせてしまえるような辛さと圧が、心地いい。
けれど、くぅくぅとパグ特有の寝息が耳に触れて、また現実に戻る。
――まだ死ねないな。
そう思う瞬間だった。
ガチャッ。
「ただいまー」
間の抜けた、絶妙にだらしない声。七海が帰ってきた。
スタスタと階段を上がってくる音。
寝室のドアがゆっくり開いて、七海が顔を出す。
「残業じゃなかったの」
そっけなく言うと、七海は目を丸くして笑った。
「労基がうるさいから帰れって怒られた。……拗ねてる?」
ぐーすか眠るぽんずを横目に七海を見ると、ニヤニヤしている。
「赤から鍋の三番買ってきた。食おうぜ」
冷凍庫に、この日のために牡蠣と海老とホタテと……いろいろ楽天で買い込んでたらしい。
七海は野菜をささっと切って鍋にぶち込み、冷凍の海鮮も解凍せずそのまま入れる。相変わらずだ。
ズボラで、どうしようもないめんどくさがり。
それなのに、不思議なくらい波長が合う。
「久しぶりに一緒に風呂入ろー!」
久しく一緒に入っていない風呂。
その単語だけで、胸がきゅっとなる。――やっぱり俺は七海が大好きだ。
別れを考えていることが、急にみっともなく感じて目頭が熱くなった。
「映画見よ! 映画! アレみたい、あの映画!」
風呂を入れて、昔よりずっと大きくなった浴槽に二人で並び、テレビをつける。
相変わらず「アレ」とか「コレ」とか、抽象度の高い言葉ばかりで、「どれだよ」って笑いながら突っ込んだ。
「わん!」
風呂場の戸をいつも通り全開にしていたせいで、起きたぽんずが入ってくる。
ママとパパだけずるい、とでも言いたげに、くぅくぅ鳴く。
犬用のバスタブにお湯を張ってやって、一緒に入る。
映画を見る気満々の七海からリモコンを奪って、濡れない場所へ置いた。
「鍋、吹き出すよ」
「あぁ!!」
思い出したみたいに、七海が全裸のままバタバタ走っていく。
その背中を眺めながら、俺は浴槽でぽんずと目を合わせた。
「ママは仕事デキウーマンなのに、家じゃダメダメだねぇ」
「……?」
首を傾げるぽんずがおかしくて、笑う。
そんな七海を見ていると、やっぱり自分がいなきゃって心が揺さぶられる。だから別れを切り出せない。
あんなに抜けてる七海が、心底愛おしかった。




