案内は豚汁で終わる
厨房の中は外の旅館と違い、そこまで和風な雰囲気ではなかった。どちらかと言うと、大正や明治の頃のような、わかりやすく言うと、「レトロ」な作りをしていた。ガスコンロやオーブンはもちろん置いてあるし、水道もシンクだし、壁紙もモダンな模様が刻まれている。外が和風建築なため、中身も江戸時代の頃くらいのように釜とか置いてあるのかなと思っていた玄は、あまりの意外な作りにびっくりし、思わず心の声を漏らした。
「外と雰囲気が違う…」
「あー、だよなぁ、見た人みーんなそう言うからなぁ」
蓮太郎が玄の言葉に同意すると、ふと、近くにあったとても大きな鍋を開けた。するとそこからあまりに美味しそうな匂いがしたので、匂いにつられ顔を向けると、そこには出来立ての具沢山な豚汁があった。豚汁から出ている湯気がまるで私を食べてと言わんばかりにゆらゆらと揺れる。思わずゴクリと唾を飲み込むと、様子を見ていた蓮太郎が優しく微笑んで、スッとお椀に豚汁を注いで差し出した。
「食うか?」
コクコクと赤べこのように頷き、お椀を受け取る。豚汁に浮かぶ自分の顔は今すぐにでもこの豚汁を食べたいという顔をしていた。そして、豚汁の匂いを肺いっぱいに嗅ぎ込むと、おもいっきり口の中に豚汁を流し込んだ。
その瞬間、口に広がる美味しさと言ったら!
じんわりと広がる味噌と肉の旨味、ゴロゴロとした野菜の甘みと食感、味のよく染み込んだ豆腐がほろほろと崩れていく感覚。全てが脳のおいしいという神経を刺激してくる。あまりの美味しさに玄は一気に掻き込み、咽せそうになりながらも豚汁の美味しさを堪能した。そして最後の一滴まで飲むと、ほぅ、と一息ついて、ご馳走様でした、と、ポツリとつぶやいた。
「お粗末様でした」
玄の食べっぷりを見た蓮太郎は、いやぁ、おれぁその顔をが見たくて料理作ってんだよ、と玄に向かって言った。
「その顔って?」
「うまいうまいって食った後、幸せそうな顔を晒す瞬間だよ。その時は、誰しも建前も何もない顔を晒すんだ。」
確かに、と玄は思った。ご飯をお腹いっぱい食べた後なんて、誰しも建前を作る暇もないくらい食べれて幸せという気持ちに包まれるだろう。それに、心を読むことができる人が言うんだ。説得力もある。
しかし、この豚汁は不思議だ。なんだかいつもご飯を食べた時よりも、幸福感が増しているような…
「あー、玄くんも豚汁食べたの?」
そんなことを考えているうちに、厨房内をうろついていた海に話しかけられた。その手には空っぽになった玄が今持っているお椀と似たお椀がある。どうやら海もこの豚汁を飲んだようだった。口の端に野菜の屑がついており、それを指摘すると恥ずかしそうに後顔を赤らめて口を拭った。
「は、はずかしー…!」
「ほれ、口を拭うなら手じゃなくて布のほうがいいだろ」
そう言って蓮太郎に差し出された布巾をそっと受け取ると海は腕をゴシゴシと拭った。
「ありがと蓮太郎さん、
玄くん、もう他の人に挨拶した?」
「あ、いや、まだですけど…」
「じゃあ、他の人にも挨拶しに、」
「おっと、ちょっと待ってくれ」
そう蓮太郎が止めに入ると、玄の腰あたりを指差した。
「それ、確認したほうがいいんじゃないか?」
玄がポケットに手を突っ込むと、先程久遠から渡された鈴が震えていた。金色に白鷺の彫刻が施されたそれはチリンチリーンと控えめになっている。その様子を見た海と蓮太郎は目を丸くした。そして、珍しいこともあるものだ、と呟いた。
「め、珍しい?」
「うん、久遠さんっていつも思いっきり鈴を鳴らすの。まるで早く来いって言っているみたいに。」
「あぁ、確かにそんな風に鳴るよな、この鈴。こんな風に控えめに揺れているのはあまり見ないな。」
とりあえず、この鈴が鳴っているってことは久遠さんに呼ばれているってことだから早く行ってこい、とそう蓮太郎に急かされ、旅館案内を中断して玄は久遠の元に向かうことにした。
「あ、玄くん、これ!!」
咄嗟に呼び止められなんだなんだと振り返ると、海からある紙を手渡された。
「これ!旅館の地図なの!本当は案内し終わってから渡そうと思ってたけど、そんな暇ないし、それに玄くん久遠さんの部屋わかる?」
「わ、からない、かも…」
そう言うと海は玄の手に地図を押し付けた。そして太陽のような声と笑顔で、久遠さんとの用が終わったら、案内の続きしようね、というと、手を振って玄を見送った。
______
「蓮太郎さんは、自分の正体を言うの、怖くないの?」
玄が走り去った後、ポツリと海は蓮太郎に問いかけた。先ほどの太陽のような笑顔とは違い、顔は俯いていてどんな表情かはわからない。そんな海の様子を見て、はぁ、と蓮太郎はため息をつき、そうだ、こいつ結構思い詰める奴だったと思い出した。
「俺は怖くねぇよ。それに、いい奴じゃないか、俺の目を見て腰抜かすだけで済むなんて。普通は化け物とか少なからず思うはずなのに、あいつは思ってなかった、適応力が高いのかもな。というか、人間の従業員なんて初めてだなぁ、客で人間っていうのは珍しくないが…」
「…蓮太郎さんはすごいなぁ…それに、性格悪いけど優しいね、私のこと、慰めようとしてくれてるんでしょ」
「そんなつもりはない、俺は俺の意見を言っただけだ」
「ふふ、そっか」
そう言って顔を上げた彼女はへらり笑っていた。だが、先ほどの太陽のような笑みではない、どこか諦めたような、乾いた笑いだ。海のその様子を見た蓮太郎は、はぁ、とため息をついた。
「お前は、話していないんだな」
蓮太郎がそう問うと、海は力無くうなづいた。蓮太郎は知っていた。海が自分の正体を話したがらない理由を。
「私は、私のあの姿が嫌いだから」
ポツリと呟くように言った海に、蓮太郎は難儀な奴だな、と思いながらどうしたもんかと考えた。己のような男にはこういう時の女にどのような言葉を掛ければいいかなんて検討もつかない。なので、そっと海の心を読んだ。自分にはこうすることしか他に方法が思いつかないので。しかし、読んだはいいものの、それでも蓮太郎はどういう言葉を掛ければいいかがわからなかった。だから、言葉の代わりに豚汁のおかわりを出した。
「食え、そんで元気出せ」
そういう時、海はキョトンとした顔をした後、嬉しそうに、ありがとう、と言って豚汁を受け取った。蓮太郎は美味しそうに豚汁を飲む海を見た後に、玄が走り去っていった方向を見た。
「そういや、ここに来るまでどんな話をしたたんだ?」
ふとそんなことが気になった蓮太郎は海に聴くと、海は岩さんの話をしていたのよ、と話した。ふーん、と思いながら蓮太郎はその話を聞いていたが、聞く限り、旅館の者たちの話しかしていないことに気づき、驚いた顔になる。
「お前【月札】のこと言ってないのか?
あの様子だと久遠さんからも説明受けてないだろ、あいつ」
「あっ!そうそう、そうだわ!してなかったわ!!岩さんの話をした後にそのことについて話そうと思っていたけど、ちょうどその時ここについちゃったのよね」
だからまだしてないわ、と、あっけらかんと言い放つ海に、蓮太郎はそうだこいつこういうポンコツなところもあったな…と頭を抱える。
「でも、初めてここに来たのだし、色々な説明をしたら彼、疲れちゃうかもしれないじゃない?だから別に月札については、私は本格的に仕事が始まってからでもいいと思うわ」
海のその言葉に、まぁ確かに、初日から何かに巻き込まれることなんてないだろうと蓮太郎は思った。思って、いたのだ。