先輩と料理長
しめ縄をくぐった玄は、秋に手を引かれるまま久遠の元へと向かい歩いていた。向かう道中に見た景色にほぅ、と玄は息を吐き出した。目の前には豪勢な和装建築がそびえ立っていて、周りの木々は青々と茂っており、さらに美しく彩られた提灯が旅館を照らし出し、より一層美しさを掻き立てている。ここは本当に実際に己が目に映している場所なのだろうか、夢ではないのだろうかと、考えた玄だったが自分は夢でこんな美しい景色を想像するイメージ力などない。手を引かれながらあたりをぐるりと見渡してみた。しばらく見ているうちは綺麗だな、と思うだけだったが、よくよく見てみると、玄にとってはおかしな景色だということに気づく。美しい旅館の窓から顔を出しているある客の肌の色は青白く、所々鱗が浮いており、そこら辺を散歩していたらしき客の瞳の色は白眼の部分が真っ黒である。思わず目が合いそうになった玄は思いっきり目を逸らした。相手はもちろん不審そうにした。不慣れな場所で気を散らしていることが伝わったのか、秋の手が少し力を入れて玄の手を握りしめて来た。
「緊張してるなら、おしゃべりでもしながら行こっか」
まるで小さい子供をあやすかのような口ぶりに、また玄は少し気恥しくなった。それと同時に、この秋という少女は自分を年下扱いをしているということに気づいた。
「秋ちゃん…でいい?」
「うん」
「秋ちゃん、俺今年で23歳なんだけど」
「へぇ、そうなの」
「だから別にずっと手をつながなくていいかなって思うんだけど」
「そうなの」
「…ウン」
玄は秋とつないでいない方の手で顔を覆った。どうやらこの少女は玄の年齢を聞いても扱いを変えるつもりはないらしい。玄のささやかな断りを優しく、それはもう幼稚園児の子供を母親があやすかのような優しい声掛けをされて一蹴された。降参だった。子供特有のもちもちの手がきゅ、と自身の骨ばった指を懸命に握るさまに、ァ、もぉいっか、と思ってしまったのだ。玄は秋のされるがままになることが決定した。
対して秋の方はというと、実はこの女、どっちかというと玄が旅館に就職してくれたらうれしいなと思っていた。玄から旅館に電話がかかってきたあの日、秋は暇だった。暇だったから旅館内を適当に回っていた。どうやら自分の保護者は旅館の中でも上客の部類に入るらしく、その上客の庇護下にある秋は旅館内でもある程度の無茶が効いた。だから従業員専用の場所でも入り込むことができたのだ。よほどあれな場所に入り込んだりしない限り、従業員たちは自分をあらまぁどうしたの、また遊びに来たのと優しく丁寧に扱ってくれた。小さな子供の見た目というのは実に便利なものである。
だがしかし、そのうちに彼女は少し、日常が味気なくなってしまった。自分と仲良しの友達や優しいお姉さんやお兄さんが相手してくれるのは楽しい。だが顔触れが変わることがめったにないので少々つまらない。他の客と交流して遊ぶのだって楽しい。だがほかの客はいつか元の世界へと帰ってしまう。そんな中、玄は秋の前に存在を提示した。
「着いたー!、あ、ねぇ、靴脱いでね!汚すと岩ちゃんが怖いから」
「え、あ、ぅん…?」
旅館の中に入ると、外側と同じく内装もとても凝っていた。至る所が豪勢な飾りで彩られているが、派手すぎず、だが飽きさせないようなふうになっている。電飾の木枠も丁寧な木彫りが施されており、素人目の玄から見てもどれもこれもが貴重なものであることが感じられた。ずんずんと奥の方まで容赦なく入っていく秋に不安を感じた玄は思わず秋に問いかけた。
「あ、秋ちゃん、この道本当に大丈夫?」
「大丈夫、久遠ちゃん一番奥の部屋にいつもいるから」
何枚もの襖をくぐり抜け、何通りもの道を突き進んだ後、ある一枚の襖の前に彼女は止まった。その襖には美しい月富士の絵が描かれており、今まで流し目で見ていた襖の絵たちの何倍も綺麗な絵だと玄は思った。そんな絵を見ている玄を尻目に秋は思いっきり襖をスパァンと引いた。玄は、せめて心の準備をしてから引いてほしいと内心叫んだが秋は問答無用と言わんばかりに玄を襖の中に押し込んだ。
中にいたのは和装のでかい男だった。とにかくでかい。座っているのに170以上はある玄の胸元までの座高がある。立てばゆうに2メートルは超えるであろう。サラリとした藍の髪をおかっぱのよくにしているのかと思いきや、前から後ろにかけて短く刈り上げにしているという一風変わった髪型をしていた。瞳も同じく藍色であり、そして何より雰囲気が彼も人ではないことを示していた。この男も秋と同じで人ならざる魅力を放っているような男だったからだ。
「久遠ちゃん、玄くんだよ」
ぺいっと乱雑に押し込まれてぐぇっと醜い
声を出した玄に目もくれない秋に、玄は仲良くなったと思ったけどもしかしてそこまで仲良くなっていないのか?と認識をちょっと改めそうになった。
「おっ、連れてきてくれたのか、ありがとな」
「久遠ちゃんが誤解されたままなのは困るからね」
会話をしている二人をどういう反応をすればいいかもわからず眺めていると久遠がチラリとこちらに視線を移した。
「おっと、そんじゃァ秋はしばらく席を外してくれやしないか?玄としばらく話をする」
そう久遠が言うと秋はいいよ、と言って出ていった。そうして二人きりなった部屋に静寂が広がった。気まずい空気に耐えきれなくなり先に口火を切ったのは玄の方だ。最初に玄がした行動は正座をして頭を下げることだった。
「先程は無礼な言葉をかけてしまい、も、申し訳ありませんでした!」
そういうとまさか謝られるとは思ってもなかったと言うふうな態度で体をびくりと震わせた久遠が驚いた顔で思い切り玄の方へ顔を向けた。
「エッ、まァじでそれ言ってる?!」
「ほ、本当のことを言ってたのに迷惑かけたのは自分ですし…引越し代などもそちらが持ってくださったのにあんな態度…すいません」
そう深々と頭を下げるとぶんぶんと髪を振り乱しながら久遠は叫んだ。
「いやいやいや!こっちが配慮してなかったせいだろォ!?頭あげてくれや、な?それに口調もそんな固くなくていい、もうちょっとゆるくて構わんよ」
そう言われて仕舞えばおずおずと頭を上げる以外することができなくなってしまった玄は頭を上げる。相手の態度を窺う限りとりあえず電話口での態度で内定を取消しにされることはなさそうだと思いほっと肩の力をやっと抜いた。
「そそ、力は抜くに限る」
にこ、と笑う久遠にどこか実家のような安心感を覚えた玄は不思議な気持ちになる。
「さてさて、ここに来たということは、お前はウチの従業員になることに対して覚悟を決めたと言うことでいいんだな?」
今なら引き返せるぞという厳かな基調で久遠から言葉を放たれた言葉をゆっくりと噛み砕きながら玄はしっかりとからの目を見据え、
「はい」
そう答えた。
そしてしばしの沈黙の後…
「よ、かった〜〜!!!」
へなりと床に横になり安堵の声を漏らす久遠に前は今日何回目かわからない驚きの感情に襲われた。
「えぇ!?」
「いやァな?だっていくら失礼なこと言われたからってお前の世界のことを配慮してなかったのはこっちなんだしよォ」
文句言われて従業員断られたらどうしようかと、と言われ、そんなことはない、と玄は言った。そりゃあ最初は人外だの廃墟だので、信頼度はゼロだったが、こうして自分の目で見たこと、そして、自分の失礼な態度を許してくれたことに、玄は少なからず恩のようなものを感じていたのだ。
「ま、お前さんがうちに勤めてくれるってなら嬉しい限りだ、秋も喜ぶだろうしな」
そう話したところで久遠はここに勤める上での注意事項を玄に切り出した。
「あー、そんで、まァ、お前はめでたくここに勤めることが決まったわけだがな」
「はい?」
「…お前、家族はいるか?」
「はい、もちろん」
そう聞かれそう答えると、目の前の男は目を細め、声を低くしてあることを玄に伝えた。
「今から説明することは、旅館での注意事項だ。」
そう言って彼は説明を始めた。
「まず第一に注意することは、あのしめ縄だ」
久遠がいうには、あのしめ縄はいろんな世界にいる旅館にとってのお客さまたちをで迎えるための世界の狭間を渡り、この旅館がある異空間へ導くための門のようなものらしい。
それだけを聞くとものすごく便利なものと思うかもしれないが、注意事項もあり、それは、異なる世界に属すものが異なる世界へ行くと、元の世界には戻れなくなるという点である。
例えば、Aの世界から来たAさんとBの世界から来たBさんがいたとする。AさんとBさんが手を繋ぐ、もしくは体のどこかをお互い掴みながらしめ縄をくぐろうとする。
そして、Aさんが先にくぐるとする。
その場合、なんとAさんはAの世界に帰れるが、BさんはBの世界には帰れず、Aさんの世界に属するという判定をしめ縄からくらい、Aさんと共にAの世界へと転送されるという。
ならもう一度しめ縄をくぐればいいと思うかもしれないが、もう一度しめ縄をくぐったところで、その先にあるのは旅館だ。そして、Bさんが再び旅館側から潜ったとしても、たどり着くのはBの世界なのだ。
ちなみにしめ縄を先にくぐったのがBさんだった場合、Aさんが元の世界に帰れなくなる。
理解できたか?という久遠からの問いに、頭から湯気が出そうになりながら玄は返事をした。
「えっと、つまりこの旅館側から複数人であのしめ縄をくぐると、元の世界に戻れないってことですか?」
「まァざっくり細かいこと気にせず解釈するとそういうことになるな」
とんでもないじゃないかと玄は頭を抱えそうになった。それじゃあ元の世界にいる親や友達に会えなくなってしまう、なんて恐ろしい。
「てなわけだから気をつけるんだぞ?まァ、気をつけることや本仕事が始まってから教えることとかはまだまだあるけどな、その気をつけることっていうのが二つ目の注意になるが」
「どういうことですか?」
「お前の世界にもなかったかァ?
人ならざるものが、人の子を連れ去るって話」
それらは一般的には総称として神かくし、なんて呼ばれているよなァと言葉は続いた。人ならざるものは、人に惹かれやすい。それが憎悪、好意、興味、奇異、どれであろうと惹かれてしまうのだという。
「実はな、ウチの従業員に人はいないんだ。」
お前が人間第一号てことだなァと久遠は笑いながら玄に言ったが、玄は言われたことがあまりに驚きすぎてそれどころではなかった。
自分以外の人間が、いない?
「ど、え?!人が、僕しかいない!?」
「旅館の客の中には人も結構いるけどなァ、従業員に関しちゃァお前さん一人しかいねェんだわ」
けたけたと笑う久遠と比例して玄の顔はどんどん引き攣っていった。職が安定したと思ったら今度は命の危険があるかもしれないなんて!!!そう強く思ったのが久遠にも伝わったのか、久遠はさらにケラケラと笑い腹を抑えた。
「別にお前しか人間がいないからってみんな取って食ったりしねェよ」
「そ、ですか…、え、でも神かくしって…」
「それは外から来るタチの悪い客だな、でもまァ、さっき言った通りお前以外の奴は全員人外だから、ここに身を置く限りお前は俺たちの庇護下にある。それに、ある程度危ない客は旅館がそもそも招かない。だが、それでも万が一があるからお前なりにも意識を持って欲しいってことだ。」
あまりに衝撃的な話が多すぎて頭がパンクしそうだった。一通りの話が終わり、そう締めくくれられると、久遠は徐に近くにあった鈴を手に取り、鳴らした。
「お前の分の鈴もやるよ」
鳴らした後、玄の方に鳴らされた鈴と別の模様が刻印された鈴が手渡された。白鷺が刻印された綺麗な鈴だった。陽の光を反射して、キラキラしている様に玄は、ほぅ、と見とれた。
「俺がここに同じ模様の鈴をもってる。
俺が鳴らせば連動してその鈴も鳴る。手軽な呼び出し鈴ってとこだな」
そう言い終わるや否や、スパンっと思いっきり襖が開かれた。襖を開けたある人物に、玄は思わず目を奪われた。
だってその人物は全裸だったのだから。
「はぁっー??!!?」
玄は大声をあげそうになった。なぜなら目の前の全裸の人物は女性だったからだ。咄嗟に手で口を塞ぎ、首から変な音がするんじゃないかという勢いで玄は目線を逸らした。近くにいた久遠は頭を抱えながら玄を背中へと隠した。だがしかし、目の前の彼女はそんな二人の様子をものともせず、にっこりと笑って元気よく話し始める。
「久遠さん、お呼びでしょうか!」
そんな彼女の様子に呆れた久遠は咄嗟に自分の羽織っていた上着を彼女に投げつけ、それを着るように指示した。彼女は一瞬、訳がわからないという顔をしたが玄があることに気づくと悲鳴を上げた。
「にっ、人間?なんでここに人間がいるの!?あっ、今私裸だわ!!人間には裸を見せちゃいけないのよね!?やっちゃったわ!!」
「落ち着け、そんで早く着ろ、あと人間以外でも裸でいたらダメに決まってんだろ」
「あぁっ!そうね、着なきゃ着なきゃ…」
しばらくすると、するすると服が擦れる音が聞こえ始めた。そろそろいいか、と玄は思い、ちら、と彼女の方を見ると見たらアウトな部分は概ね服で隠れたため、ほっと胸を撫で下ろした。そして、改めて彼女をまじまじと見る。上の方に髪を二つに括ったキラキラの金糸のような髪の毛。よくみると、髪色は毛先にかけて赤くグラデーションがかかっている。そして玄が何より目を引いてしまったのが、特徴的な前髪だ。彼女は前髪を三つ編みにして顔の真ん前に垂らしていた。あとなぜか髪の毛が…というか、彼女体が全体的に濡れて湿っている。シャワーでも浴びていたのだろうか?
あまりにヘンテコな髪型と様子に玄は何か言った方がいいのだろうかと考えに考え、なんとか言葉を絞り出した。
「あの、なぜ、服を…?」
「こいつ服を着るの慣れていないんだ」
久遠からそう返され、今度は玄が頭を抱えた。服を着るのに慣れてないってなんだよ、どこかの民族か何かか、てか民族以前に人外か、と、内心荒ぶっていた。そのうち彼女は完全に着替えを終わらせ、久遠と玄に向き合って座った。
「改めまして!久遠さんお呼びですね、何をしましょうか?」
「よ〜ォ、海、呼びつけていきなりで悪いが人を紹介したい。ここにいるこいつはまぁ、見ての通り人間で、名前は玄。ここの新しい従業員になる奴でお前の後輩だ」
そう久遠がいうと、稲妻が落ちたかのように海という少女が固まった後、華奢な体を震わせながら絞り出すような声で、
「後…輩…?!」
と言った。そしてゆっくりと、興奮を抑えるように玄の方を振り返った。
「ど、どうも?」
玄が話かけると、海はガバッと顔をあげ、金色の瞳をキラキラと輝かせながら、彼へと詰め寄った。
「に、んげん…?しかも、私の後輩…??!
っ後輩くん、私、私先輩、先輩よ!!何か困ったことあるかしら?!」
「っうぇ!?!」
瞳に爛々とした光を宿したかと思えば、玄の手をガバリと掴み、意気揚々と迫る。突進する猪の如き勢いに玄はたじたじである。そんな様子もお構いなしに、彼女は興奮が抑えられないとでもいうように頬を朱く染め、捲し立てる。
あなたどこからきたの?
家族はいる?
好きな食べ物は?
ここのご飯はもう食べた?
好きな散歩スポットとかある?
人間の同僚は初めてだから何か変なところがあったら言ってちょうだい!
などなど…
玄は目をぐるぐるしながら言われたことに一つ一つ丁寧に答えていった。途中見かねた久遠が海を止めようとしたが、玄が目線で構わないという意志を送ったので海からのマシンガントークはしばらく続いた。全ての質問に答え終わりぜぇはぁと息を切らしそうになってきた頃、さすがに、と言ったふうに久遠が間に入った。
「おい、海、あまり新入りを困らせるんじゃない、早く案内してやれ」
「あっ、ご、ごめんなさいね!私ったら、嬉しくって」
ころころと愛らしく笑う彼女を見ると、さっきまでの会話の疲れも吹き飛ぶ…訳ではなく、普通に玄は、「ちょっと待ってくださいね」と、少し休みをもらってから海と共に旅館を回り始めた。海と共に部屋を出た玄は、彼女からより詳しい旅館事情について聞くことにした。
「あの…、久遠さんからここの旅館での大まかな注意事項は聞いたのですが、細かいことまでは聞いていなくて…もしよければ、この旅館のことを教えてもらっても構いませんか?」
「いいわよ!!あと、そんな堅苦しくなくていいから!」
久遠と話した時は旅館で過ごす以上、最低限知っておかなければならなかったことだったが、彼女から話されることは旅館の中の人間関係や、細かな決まり事、そして今まで起きた面白いことだった。その一つ一つが非日常で面白く、玄の心をくすぐった。
「あ、あとね、あんまり旅館の中を汚したり、散らかしたりしたらダメよ!岩さんに怒られちゃうから!」
「いわさん?」
岩…と呼ばれる人物に玄は心当たりがあった。秋が岩ちゃんについて少しだけ言及していたからだ。そういえば秋ちゃんも汚したらダメだと言っていた気がするなぁと思った玄はよほどその人は綺麗好きなのだろうと思った。しかし、
「ううん、岩さんは綺麗好きじゃないわ」
「えっ」
まさかの返答に玄は驚いた。汚したら怒られるみたいなこと言われてるのに当の本人は綺麗好きではない…?
えっ、つまりそれって自分は汚すけど他人には汚されたくないタイプの人…?
そんな人、理不尽すぎではないか?
頭の中ではてなマークを浮かべる玄を知ってか知らずか海は会話を続けた。
「うちの従業員で、一番お掃除が得意なのが岩さんで、本人の好き嫌い関係無しに、適材適所でその役割、掃除人に収まってるの。まあ、これは他のみんなも大体そうね、むしろ、好きでやっている人の方が少ないと思うわ。例に漏れず、岩さん本人も別に綺麗好きでも、掃除好きでもないから、自分の仕事が増えるのをすんごく嫌がるのよね。それで、汚したら岩さんの仕事が増えるから怒られるって訳。」
「あぁ、なるほど…」
最初に自分が考えてたタイプの理不尽な人ではなかったが、こちらもこちらでかなり理不尽だな…というのが玄の感想だった。だが自分の仕事が増える面倒さはなんとなく理解ができた。確かに好きでもなんでもないことを仕事にしている以上、なるべく仕事量を抑えたいと思うのはなんら不思議ではない。しかも他人のせいで自分の仕事が増やされるようなことがあれば、他人を責めたくなってしまうという気持ちもわかる。
しかし仕事として任されたのであればある程度は許容するべきでは?とも玄は思った。そんな個性が強い岩さんの話をしているうちに、旅館内の厨房に当たる場所に二人は着く。
「あらもう着いたのね、まだ話したいことがあるのに…」
「そうですね…」
玄はいつのまに着いたんだ、と思い、自分が感じている以上に歩いている時間が気にならないほど海の話に夢中になっていた事に気づく。そもそもの話、彼女の声自体が心地よかった。聞き慣れた母の声を聞いているような、そんな感覚がするのだ、彼女の声を聞いていると。そんな懐かしさを感じさせるように喋る海は、唐突に厨房と思わしき場所に掲げられた暖簾に頭を突っ込んだ。その行動にこちらが目を丸くさせているのにも気づかず、彼女はすぅと息を吸うと、厨房中に響く挨拶をした。
元気でいいなぁ、と思いながら、自分も挨拶をした方がいいのでは、と慌てて挨拶をしようとして玄は暖簾の中に顔を突っ込んだ。暖簾の先で玄を待っていたのは、見渡す限り、視線、視線、視線である。ありとあらゆる目が、玄へと向けられていた。
「…人間?」
「人間がどうしてここに…お客様かな?」
ヒソヒソと聞こえる会話に、玄はまず自分がお客様でないことを伝えなければ、と思った。このままでは客と勘違いされて追い出されるのではないかと思ったからだ。
「お前、新しい従業員なのか?」
「…え」
玄がそう考え、とにかく自己紹介をせねば、と決意を固めた瞬間、まるで玄の考えを読んだかのような発言で話しかけられ、思わず肩が震えた。声の方を振り返ると、そこには男性が立っていた。髪は若草色で、短めの長さの髪型をしており、着ている和服の色は、海の青に金の刺繍が入ったものと違い、濃い緑色に目玉をデフォルメしたような模様が刻まれていた。さらに、彼は頭には布巾を被っていた。
そして特徴的なのが目だ。彼の目はなぜか両目とも閉じられている、が、なんと額にもう一つ目がついていたのだ。
「あぎゃぁ!?」
変な声を出し飛び跳ね、床に思い切り尻餅をついた玄をけらけらと笑いながら彼は玄に手を差し出した。そして人好きそうな笑顔を浮かべると、
「驚かせて悪かったなぁ、俺はこの旅館の料理長の三池蓮太郎だ。お前、その様子を見るに旅館の新人だろ、しかも人間の」
そう言いながら蓮太郎と名乗った彼は尻を痛めた玄が立ち上がるのを手伝った。玄はじとっとした目で蓮太郎と名乗った男を見た。なぜなら先ほど悪かった、と言った男の声音は、明らかにこちらを揶揄うような言い方だったからだ。
「おぉ、お前以外と自分の意見は顔にしっかり出すタイプだね、そういう奴は良い、心を読む手間が省けるからな」
「心を読む手間…?もしかして、貴方、俺の思っていることが」
答えに辿り着いた玄が驚きながら唇を震わせて問いかけた。問いかけられた蓮太郎はニヤリと意地悪そうに笑うと、玄を揶揄うかのように、いや、実際揶揄っているのだろう、さも愉快そうにこう言った。
「あぁ、察しの通りだ。俺は妖怪、妖怪【さとり】、人の心が読める化け物さ、とは言ってもいつも読んでるわけじゃないぜ?人の心がいつもわかっちゃぁ面白くないからな」
玄は見た目はかなり人間に近いのに、この人も人じゃないのだな、と思った。それをはっきりと額の目が彼が人間であることを否定している。きょろきょろと目玉は視線を彷徨わせた後、すっと玄の方を向いた。その瞳を見た玄はなんだか居心地が悪くなった。なんだか、こちらの全てを見られているような、プライバシーを侵害されているような、そんな心地だ。
「あれ?意外と驚かないんだな?俺が妖怪だってこと、さっき目を見た時は腰を抜かしたのに」
「いえ、まあ、でもさっきほどではないですけど、めちゃくちゃ驚いてますし、正直…」
心を読まれるのは本当にいい気がしない、そう言いそうになり、喉まで出かかったその言葉を必死に飲み込んだ。なんだかややこしいことになりそうな気がしたので。もしかしたら相手には筒抜けかもしれないが、これを口に出すのはなぜか憚られた。それに言う言わないは自分の気持ちの問題だと玄は思った。
「というかなんで僕の心なんか読んだのですか?」
そう玄が問いかけると、人間がここにくる理由はあらかた見当がついたが、確認のためにお前の心を読んだ、と返された。それでも正直玄はげんなりした。人に心を読まれるのはなんだか気持ちが悪い、と。だがしかし、そこは人と人外の感覚の違いだろう、もしくは先ほどの揶揄うような態度から察する感じ、この人の性格がとてつもなくアレなだけか、と考え直した。
「なんか能力使わなくても分かる、お前なんか失礼なこと考えただろ」
「いえ、別に」
先ほどの玄のようなじとりとした視線をこちらに寄越す蓮太郎からそっと目線を逸らすと、はぁ、とため息をつかれた。ため息をつきたいのはこちらだというのに、と玄は思っていると、突然いい匂いが鼻をくすぐった。その匂いに目を瞬かせると、蓮太郎は「来たばっかりだしな、腹減ってるだろ。こっち来い、海もな」と言って、玄と海を厨房の奥へと案内した。