秋という少女
「どういうことですか、騙したんですか!!」
玄は怒り心頭で電話口に向かって怒鳴った。あの後、何度も言われた住所とこの場所の住所を確認した。だが、いくら確認したところで、住所が示すのはこの場所だった。玄は衝動のままに久遠に電話をかけた。電話口の久遠はまぁまぁというふうに宥めたが、玄の怒りは治らない。今すぐにでもこの電話口の男のところへとかっ飛んで行って、その脳天にスマホの角をぶつけてやりたかった。
「ここが旅館!!?こんな廃屋、誰も住めないし泊まれない!家も解約したし、どうしてくれるんだ、この詐欺師!!」
【人を詐欺師とは、酷いことを言うなァ】
一通り怒鳴った後、妙に冷静になった玄は無言で電話を切ろうと通話停止のボタンへと指を動かした。だが玄が急に黙ったことにより、彼が通話を切ろうとしていることを察した久遠が待て待て待てと静止の声をかけた。玄は、この状況待てと言われて待つ人間はいないし、こんな相手の弁明を聞いたところでクソくらえだふざけんなと思い切ろうとした、が、
【人の話は最後まで聞くもんじゃないか?】
「…は?」
電話が切れないのだ。電源ボタンを長押ししてもスマホの電源すら切れない。じわじわと背筋に嫌な汗が伝う。まさかスマホがウイルスにでも感染したのだろうか。
「どういうことなんだよ…?!」
【ふむ、このままじゃこの旅館が、というか俺が詐欺師というとんでもねェ誤解を浴びせられちまうねェ】
切れない、どうして、ふざけんな、おい、などパニックになってブツブツ言葉を垂らしながらスマホのボタンを連打する。だが、玄の焦りに反してスマホの通話は切れる気配はない。そのうち、手からも冷や汗が滲み始め、スマホの画面を汚した。もうスマホをこのままに家へ走り帰ってしまおうか、そんなことを思い始めた矢先、どこか聞き覚えのある少女の声が聞こえてきた。
【何をしてるの、久遠ちゃん】
【お、秋か、いや〜それがな、件の玄に今あらぬ誤解をされていてなァ】
【…玄くん…であってる?聞こえてるよね、この間最初に玄くんの電話に出たの覚えてる?久遠ちゃんが言葉足らずなせいでまた誤解してるんでしょ】
その少女の口ぶりはまるでこちらが間違っているかのようだった。玄からすれば、確実にこんな状況に陥ったのはあちらのせいであるというのに、自分が何か勘違いをしているような言い方をされ、さらに怒りのボルテージが上がった。そしてそのまま久遠だけでなく、秋に対しても怒鳴りつけてしまったのだ。これが、ダメだった。
「誤解って、事実だろ!!さっきも言ったけど、この廃墟のどこが旅館なんだよ!!!」
【…私、なんで何もしてないのに怒られたわけ?】
キィンと頭に響く声、可憐な少女の声なのに、そこに滲み出ている圧はこちらに対して有無を言わさない畏怖を植え付けてくる。脳みそが冷水をかぶったかのように冷静になった。さっきまであった怒りがすうっと引いていくのを感じる。玄は自分でも驚いていた。あんなに怒り狂っていたのに。それと同時に少女に対して怒鳴ったことに後悔した。これは久遠と玄のやり取りから生じた問題であって秋は関係ないからだ。いや、もしかしたらこの少女も詐欺の片棒を担いでいるのかもしれないが。
【あ、ごめん…つい圧かけちゃった…怖かったよね、大丈夫?】
「ぁ、いぇ…」
【あぁでも怒りは落ち着いたんだ、結果的にはよかったのかな?ね、久遠ちゃん】
【いやァ、良いか悪いかで言われると良くはないと思うが…まあとにかく、今は落ち着いて対話することが最優先だからな、礼を言う、秋】
電話口の声が秋から久遠へと変わる。玄は怒りは収まりつつもまだまだ消えない警戒心を心に抱いていた。相手の目的は何だろうか。自分は現在、文字通り身一つの状態だ。相手が手配した引っ越し業者を信頼しきってしまい、手に持てる貴重品以外は全てあちらの手にわたっている状況だ。もしあちらの目的が金目のものならばもうすでに己への接触はせず、関係はすでに切られているだろう。となると、この久遠とかいう男の目的はもしや、
「人身売買…」
【待て】
「痛いのは嫌です…」
【ちょっと待て】
「いざとなったら噛み殺せば逃げれる…?」
【お前さんさては案外強いな?】
久遠は少し引いた、なんて脳筋すぎる解決方法を提示してやがるこいつとも思った。それに加えて、玄が提示した反撃方法の凶器がナイフとか鉄パイプなどの物ではなく、歯というところにも引いた。そんなの原始人くらいしかしなくないかと思ったし、最も身近にあり使いやすい歯という凶器を使う気であるという点を見て、玄の本気度が垣間見えてしまいこれは早々に誤解を解かないと確実に面倒なことになると察した久遠は何とか玄を宥め、非人道的な行いはする気はないと伝えた。
「…じゃあ結局なんですか、あなた達は」
【だァかァらァ!、俺は旅館の支配人だって言ってんだろ!】
「信じられませんよ!第一、なんで俺に教えられた住所はこんな廃屋なんですか!」
【大事なのは廃屋じゃねえよ!その中にあるしめ縄くぐりだ!】
「は?」
【とにかくしめ縄くぐりを探してくれ、それからなら警察に通報でもなんでもしてくれていい】
「ちょっ」
何言ってんだこいつ、と心の底から思った。その口ぶりからして要するにこのオンボロの廃屋に入れということだろうが、そもそも人の所有地なのではという可能性が玄の頭の中をかすめた。だがしかし、そんな玄の混乱を置いてけぼりにしてそのまま電話はブツリと音を立てて切れてしまった。途方に暮れた玄は肩をガックリと落としながらどうせ帰る家もないし、もうどうにでもなれの精神でしめ縄を探し始めた。不法侵入だろうが何だろうがもうどうでもいい、立て札もロープも、何もしていないし警察が来たら野良猫を追いかけて保護しようとしてなどで言い訳すればいい、俺は無敵の人、と自分に言い聞かせた。廃墟の入り口の門に手をかけると、ぎぃと錆びた音と門の木材部分に生えていた苔が落ちる音がした。玄は背筋を震わせながら廃墟の中へと足を踏み入れた。
「こわいって、怖すぎるって」
ゆっくり歩くだけでギシギシと歪んだ音で軋む床にそこらじゅうに生えた苔とカビ。思わず土足で上がってしまったが、これを素足で歩く勇気は玄にはなかった。廃屋の中は昼間だと言うのに薄暗く、何かが出そうな雰囲気を醸し出していたため玄はスマホのライトをつけてそろりそろりと探索を進めていた。気分はまるでホラーゲーム最初の序盤ストーリーに出てくる被害者Aの気持ちだ。主人公ではない。主人公は死なないかもしれないが玄は今この状況、この場所で何かに襲われたら確実に死ぬと思っていたからだ。
「ひぃ…こ、こういう時って何すればいいんだっけ?下ネタ叫んだらいなくなるんだっけ、あれ?」
怖さで使い物にならなくなっていた頭がついにとんでもないないことを思考して口に出し始めてしまった。立て続けに起こる苦行に脳が許容量を超え始めたらしい。今すぐにでも探索をやめてしまいたかったが、この廃屋は無駄に大きいらしく、部屋がいくつもあり、一つ一つ見て回るのはかなり時間がかかったため、なかなか探索が終わらず、余計玄を苦しませた。だが、探し始めて10分ほどが経った後、それはようやく見つかった。
「あれか…?」
ある部屋の中心で佇む、よく言うお盆などで行われる夏祭りで見る、茅の輪くぐりの輪部分が縄になったような、この廃屋に置いてあるにしてはいやに小綺麗な玄にとっては見慣れないものが目に入った。きっとあれが久遠が言っていたしめ縄なのだろう。玄は久遠が嘘を言っていなかったことに驚いた。改めてよく近づき、そのしめ縄をまじまじと見た玄は息を呑んだ。なぜならしめ縄の向こう側の景色が本来あるべき姿とは違ったからだ。しめ縄の向こう側には豪華な旅館屋敷が見えた。
「うそだ…もしかして、あれが?」
自分で自分の目が信じられない光景を目にして、呆然と言葉を口にした。目を擦っても、頬をつねっても、目の前の景色は変わらない。しばらくそこで呆然と佇んでいると、突然向こう側の景色がぐにゃりと歪んだ。突然目の前で起こった現実ではありえないであろう光景に思わず口から引き攣った声が漏れる。するとしめ縄の中から一人の少女が出てきた。
「ッは、ぁ…?」
「あ、いた」
あまりに衝撃的な出来事に玄は後ずさったが、少女がガッと玄の服を掴んだのでそれは叶わなかった。少女は玄の服が伸びるのにも関わらず、ぐいぐいと玄のことを引きずった。ぽかーんと割と強い力で引っ張る少女を見ながら、玄はぼんやりとした頭で考え込んでいた。これはCG、否、引っ張られている感覚があるから違う。これは夢、否、こんな現実味のある夢あるか、それに夢なら自分はここ一ヶ月夢を見続けていることになる。おかしい。これは幻覚、否、この目の前の少女とは初対面の上、いくら就活で疲れたとは言え、見たこともない少女を生み出す幻覚を見るようなこと己はしない。これは、現実?
「ねぇ、私、君が来るのがあまりにも遅いから迎えに来たんだよ、久遠ちゃんに頼まれてさ」
目の前の少女は人間とは思えないほどの美しい顔立ちを綻ばせ、笑った。