夢の国 〜 帰還
燈芽はレストランに着くなり、その整然とした出たちの景色と今まで嗅いだことがないほどの美味しそうな匂いに思わず全身を震わせる。
「良い匂いね」
「すごい、うん、ねえ!あの人たちは!?ごはん作ってるの!?」
「うん、ブッフェはみんなが食べたいものを自由に取って行っちゃうから、あのコックさんたちが出来立てを食べさせてくれるのよ」
「すごいっ!!ママ、ありがとう!!ぼく、がんばってガマンしてよかったーっ!!」
燈芽はその小さな身体で大きくバンザイをすると、彼を誘惑する匂いの元へと大股で歩み寄っていく。
手前から順に、冷前菜、スープ、メイン、デザートと並び、そのどれもが棚の上の照明の光を浴びてキラキラと魅惑的な光を放ち、燈芽の空腹感を刺激していた。
「どれから食べようかなぁ…」
真っ白に光を反射させる皿を橙里が手に取ると、二人でゆっくりと通路を進む。すると、燈芽は目の前の冷菜に目を止めた。
「ママ!これ取って!」
燈芽が指差した先には、ニシンのマリネがあった。
「あれ?燈芽お魚嫌いじゃなかったっけ?」
「でもいい匂い…!あっ、あと隣のそれ!」
「茶碗蒸しね。いっぱい取りすぎるのはダメだから、あともう一種類だけよ?」
橙里は念押しするようにそう言うと、燈芽はじっくりと考え込みながら辺りを見渡した。そして一点を見つめると、そちらを力強く指差す。そんな彼の瞳は爛々と輝き、鼓動が高まっていた。
「じゃあアレ!!」
その指差した先には、ローストビーフを手にした客がいた。
「ローストビーフ?」
「わかんないけど、たぶんそれ!」
橙里は燈芽のはしゃぐ姿に笑みをこぼしながらも、彼の指す方へと歩みを進めた。
「すみません、ローストビーフ二つお願いします」
「はい、かしこまりました」
間も無くして、温かな湯気を立てた料理が新たな皿に盛り付けられ、二人の眼前に置かれる。その匂いと鮮やかな断面に思わず二人の腹が鳴る。
「「ふふっ」」
「食べよっか」
「うん!」
そして二人は席に着くと、都会の光と夜風に揺れる緑を眺めながらその至福のひと時に舌鼓を打つのだった。
食事が終わり二人が部屋に戻ってくると、時計の短針は既に九を回っていた。
「やっぱこの部屋にしてもらって良かったかもね。この方が落ち着くし」
燈里は燈芽の手を引いて部屋の中に入るとベッドに浅く腰掛けた。
「…ねえ、ママ?」
「どうしたの?」
「どうしてパパとバイバイしないの?おにいちゃんとおねえちゃんが言ってたよ。ぼくがいるからママはいつも辛いんだって。ぼくがいるから、家族がバラバラなんだって。でも、おにいちゃんとおねえちゃんにはもう一人ママがいるからママはいらないって。ママ。辛いならぼくと一緒にパパとバイバイしよ?」
燈芽は橙里の手を握ると、その顔を見上げた。するとそこには必死に悲痛な顔で涙を堪えながら唇を噛み締める橙里の顔があった。
「…んね…___燈芽…」
「え…わっ_」
燈芽がキョトンと首を傾げていた刹那、橙里は燈芽の小さな身体を優しく包み込んだ。
「…ママね、本当はパパとバイバイしたい。本当はもっと燈芽と一緒にいる時間を作りたい。でもね、今はまだそれができないの…。今のままだと、きっと燈芽が中学生を卒業するまでずっとあのお家で暮らすことになると思う…。ごめんね、本当にごめんね……」
燈芽を抱きしめながらただひたすらに謝る橙里に、燈芽は複雑な顔をすると静かに口を開いた。
「…いいよ。ちょっと長いけど、二人でがんばればきっとすぐだから。それとね、ひとつ聞きたいことがあるの」
「うん、なあに?」
「ママがおめかししておうち出て、お金を持って帰ってくるとき、知らない人のにおいがするの。ママ、なにしてるの?」
途端に橙里は顔を引きつらせる。しかし、小さく息を吐くと真剣な表情で燈芽に迫った。
「…燈芽。そのことはパパやおにいちゃん、おねえちゃんに言ったことある?」
「ないよ」
「そっか。じゃあ、今から大事なお話するけど、聞いてくれるかな?」
「うん」
橙里は改めて燈芽に向き直ると、燈芽もそれに倣って姿勢を正す。
「燈芽。実はママね家族のみんなに内緒で、パパ意外の男の人とご飯食べたり、お話ししたりしてお金貰うことしてたの。本当に余裕がない時は、しちゃいけないこともしてる…。このことは燈芽以外の誰にも話してない…。そのお金で今までなんとか生活してきて今日貰ったお金でやっと余裕ができたから今日からちょっとの間奮発!って感じだけど…。やっぱり燈芽からしたらそんなお母さん、イヤだよね…」
橙里は最後、消え入りそうな声で告げると燈芽から顔を背けた。
「ママ」
「…?」
刹那。燈芽は振り向き様の橙里を優しく、けれど強く抱きしめる。
「ぼくは絶対にママのこと、きらいになんてなったりしないよ。ママはどんな時だってぼくのこと守ってくれる。痛い思いしたって、苦しい思いしたって、悲しい思いしたって、いつもママはぼくを一番に考えてくれてる。だからぼくはママが世界で一番、だいすきだよ」
「燈芽…」
「ママ、約束しよう」
「約束?」
「もしこれからずっと今のおうちで幸せになれなかったら、ぼくが中学校卒業したあと、二人で一緒に別のおうちにお引越ししよ!」
「…!燈芽はそれでいいの…?」
「うん。ぼくはママがいれば幸せだもん」
「ふふっ。ありがとう…。じゃあ、約束よ?」
橙里は顔をぐしゃぐしゃにしながら、自身を抱くその小さな逞しい身体を抱き返すと、燈芽から差し出された小指に自身の小指を絡めた。
「「ゆーびきりげんまん、ウソついたら針千本のーます!ゆびきった!!」」
二人は小指を離すと互いに顔を合わせ、微笑み合った。
そしてこの日は、数年ぶりに二人はベッドの上でなにに怯えることもなく心穏やかに健やかな眠りにつくことができたのであった。
それから一週間の時が過ぎた。
幸せな日々というのはそう長くは続かないもので、二人は共に沢山の幸せを紡ぎ合った部屋を名残惜しそうに眺めながら帰り支度を進めていた。
「…帰りたくないね」
「うん…」
家に帰れば、またいつもの辛い日常が戻ってきてしまう。母を守れない、情けない自分がまた戻ってくる。燈芽はそんな想いを巡らせ続け、遂には支度の手を止めてしまった。
「燈芽…?」
「ねえ、ママ?」
「ぼく、もっと強くなりたい」
「え…?」
「ごめんね、理由はまだ言えないの。でも、パパやおにいちゃん、おねえちゃんのいじわるに負けないくらい、強くなりたい…!」
燈芽のその燃え滾るような言葉と、爛々とした瞳に橙里はふと息を吐き、何かを考えるようにして首を捻り右上を見た。
「そうねえ…。じゃあこんなのどうかな?お家にいる時はお家でできるトレーニングをして、お外出れそうな時はお外でトレーニングする。前ユッカちゃんジム通いしてるって言ってたし、もしかしたらなにか良いの教えてもらえるかも」
「…!ぼく、がんばるよ!!」
そして二人はチェックアウト後、ユッカに最適のトレーニング方法を教えてもらうとタクシーで自宅まで帰ったのだった。
二人は小さな声で談笑しながらエレベーターに乗り、自宅の玄関前に着くと中からは微かに女性の声が聞こえた。それもただの話し声ではなく、橙里にとっては一番聞きたくないもので、吐き気すらも催すほどのものだった。
そんな橙里の異変に薄らと気づいた燈芽は咄嗟に彼女の腰に手を当て、優しくさする。
「…燈芽。まだお家に帰らない方がいいかも…」
「どうするの?」
「…とりあえずここからは離れよう。今はここにいない方がいいかも」
橙里は顔を引きつらせながら燈芽の手を引くと、足早に自宅前から立ち去った。
二人はそれから少しの間電車に揺られ、日比谷公園へと立ち寄った。大噴水前のベンチに腰掛けると、二人は黙って大きな音を立てながら流れる噴水と、その周りを楽しそうに駆ける親子を見る。
「…いいなあ」
思わず燈芽は心の内をぽつりと漏らす。しかし、刹那の間にハッとした顔をすると、慌てて口をつぐんだ。
「…我慢しなくていいのよ。燈芽はまだ子供なんだから。…今のパパはあんなだけどね、昔は素敵な人だったのよ」
「…え?」
橙里は遠い目をすると、その視線を噴水からどこか遠くの方へとやった。
お疲れ様ですm(*_ _)m
橙里です。
初めましてですね。燈芽の母です。
いつも息子がお世話になっております。
燈芽が死神とかなんとかになっているとか聞いたのですが、この時はそんなこと、微塵も思っていませんでした。
ふふ、人生、何があるかなんて分かりませんね。
あ、そうそうそれと。
私の名前と、燈芽の名前。同じ「燈」が入っているでしょう?
実はこの字、「灯火」とか「灯り」って意味があって、私的に気に入っている名前なんです。
だから、燈芽にもせめてこんな境遇でもどうにか明るく芽吹きのある人生を送ってくれたら…。そんな思いから、この名前を付けたんです。
…あら、こんなこと、こんなところでべらべら話しちゃいけませんでしたね。ごめんなさい。
それでは、また明日も燈芽を見てやってください。
お楽しみに。




