原爆~一瞬にして奪われた広島の命~
この話は、実話を元にして書いた小説です。
実際の人物に許可を得て書いています。著作権侵害行為等は行わないで下さい。
※昔の言葉を今風に言っている物があります。
それは僕の意図的な物です。
例)少国民→小学生……etc
私は佐々木明子。ついこの間女学校に入学した女学生だ。
私は、母に加えてまだ小学2年の妹と、小学校にも入学していない妹の3人兄妹──合わせて4人で、広島県に暮らしている。
母は幸子。真ん中の妹は久子。下の妹は千代子だ。
東から太陽が昇ったばかりで、まだ薄暗い早朝。それなのに25℃もあるそんな朝から、母はもう仕事に行っている。
母は、私たちを養うために血反吐の出る思いで、毎日1日中工場で働いている。しかし、未だに給料は上がっていない。給料と言っても、実際は私たち3人に茶碗1杯のご飯も食べさせられない程の物だ。
だから、母は私たちに自分の分の食べ物をいつも分けている。私は、苦労をかけている母に少しでも楽をして貰おうと、──母程ではないが──製糸場で働いている。
そこで得た給料は、本当であれば母に回したいのだが、下の妹に回している。
今の日本には、子供たちを魅了したとある物が存在する。
それは、幼児用のミルクである。
高いお金で買えるミルクは、小さな子供にとっては至高の一品。甘くて濃厚なその味は、数々の子供たちを魅了していった。
まだ金のある時代。乳の出なかった母は、よくちよちゃんにミルクを買ってきては飲ませていたので、それがちよちゃんがミルクの味を覚えた最たる原因だろう。
──甘くて美味しい!
そんなミルクは、まだ幼い純粋無垢な子供にとっては本当に魅力的なのだろう。
母は私に、「いいからいいから。そのお金は、私みたいに死んでいく者よりも、未来ある千代子に回しなさい」と言った。私は渋々それに従い、ちよちゃんにミルクをあげ続けている。
でも............。
別にちよちゃんが嫌いという訳では無いのだが、この家で1番苦労している母を労ってやりたいという思いの方が大きいのだ。
戦争に出兵した父は、戦地から帰ってきそうにもないので、尚更その思いが強くなるばかりである。
父は佐々木明夫という。
父は、暴君だった。大酒飲みの父は、1日中酒を呑み続けるという、だらしない生活を送っていた。
しかし、父は、小説家でもあった。
酒を呑んでばかりの父だが、そんな父が書く小説は一世を風靡した。言わば、売れっ子小説家である。
父は、私たちの生計を支えられる程売れていた。
そんな父だが、よく家族に手を上げていた。
特に、母。と言うのも、私たちにくるものを、全て母自らが受けてくれていたからである。
だから私は父が嫌いだった。
まだ小さかった私は、そんな父に嫌気が差していた。
暫くして、御国から赤紙が来た時は、好機とばかりに喜んだ。母に暴力を振るう男が消えたからである。
──ようやく我が家に平和が訪れる!!
しかし、それは幼い子供が抱いた勘違いにすぎなかった。
今、歳を重ねて、ようやく父の存在の大切さ分かった。
父がいなくなった結果が、今の母だからである。仕事のし過ぎの過労で、今にも倒れそう。それなのに、家族の為にと働き続けている。
だから私は密かに、父の無事を祈っている。
──父が居ないと、母が死んでしまう。
それを、女学生になってようやく理解したのだ。
今日もまた、真ん中の妹が南瓜の煮付けを食べている。
「南瓜、美味しい!!」
私に向けられる太陽のような笑顔に、また心がほっこりする。
ひさちゃんは、小さな頃から食いしん坊だった。
父はよく、ひさちゃんに色々な食べ物を食べさせていた。
父が「小説で、味についての描写の参考になるから、買って来た」とか言って、食べ物を買って来るのだ。だが、それは大義名分でしかなく、本当の目的はひさちゃんだ。
小学生の私はまたまた誤解をしていて、これは私や母を虐める為に、ひさちゃんだけ沢山食べさせて、それを私たちに見せつけているのだと思い込んでいた。
しかし、それは違った。
父は、ひさちゃんが食いしん坊なのを知っていて、ひさちゃんを可愛がって食べさせていたのだ。
その当時はちよちゃんが居なかったので、ひさちゃんが最年少だった。親が最年少の子供を可愛がるのは納得だ。それが、親心というものなのだから。
もう中学生になるひさちゃんは、成長期真っ只中だ。
今はまさに食べ盛りなので、家での食料消費量は1番だ。ただでさえ苦しい生活なのだが、私と母はそんなひさちゃんが可愛くて仕方ない。何とか私と母の食べる量を調節し、ひさちゃんに回しているのだ。
それを知らないひさちゃんは、ニコニコしながらご飯を食べる。
美味しそうにご飯を食べる姿は、癒しの象徴だった。
本当は母もひさちゃんの母らしく食いしん坊だった。
しかし、ひさちゃんの為に自分の食欲を抑え、ひさちゃんから食べ物をぶんどるのを我慢しているのだ。
これについては、母を止めようにも止められなかった。私も、母と同じような気持ちでひさちゃんの為に食べ物をあげていたからだ。
本当に、国は何故戦争などしているのだろうか。
国民がこんなに貧しい思いをするなんて。
私は知っている。新聞やラジオでは、日本がアメリカより優勢な様に報道しているが、実際は負けているのだと。これは、女学生の友達から聞いた話なので、証拠は無い。
しかし、私はそうだと直感している。
仮にアメリカに勝っているとするなら、国がこんなに貧しい訳が無いからだ。
さてと。そんな話は置いておいて、私は出勤だ。
製糸場は徒歩15分の場所にある。
広島の街には、広島電鉄、つまり路面電車が通っている。路面電車に乗る為には、もう家を出なければならない。
製糸場には早めに着くが、仕方ない。遅刻よりも100倍マシだ。
「行ってきま〜す!!」
「「行ってらっしゃ〜い!!」」
私は、重い足取りで駅へ急ぐ。
仕事の疲れが、体を蝕んでいる。製糸場での仕事は別に楽しくてやってる訳じゃないし、私が働かなかったら家に住む全員が餓死をしてしまう事を嫌でも理解してしまっているからだ。
はぁ......と溜め息をつく。
もう嫌だ。働きたくなんか無い。
戦争に負けると分かりながら、「御国の為に!!」と働くのにも、うんざりだ。
駅に着いた。
幸い、まだ電車は来ていなかったので、ほっと一息つきベンチに座る。憂鬱な気分が、少し晴れた気がした。
そして、「やっほ〜!」と背中をバシッと叩かれながら声をかけられる。
その声の正体は女学校の同級生、田中文子だ。
その「海藻」と呼ばれる御下げ姿は見慣れた。いつも首に付けている、エメラルドを象ったブローチが印象的である。
文子とは同じ製糸場で働いており、いつも隣同士だからよく見知った顔だ。
「明子ぉ〜、元気してた?」
ただただ「当然じゃ〜ん」と返事をするこの会話にも慣れた。もう何百回何千回と繰り返している内に、もはや日課となっていたからだ。
「おっ、電車来たよ!」
「乗ろう乗ろう!!」
文子と話しながら、電車に乗り、ゆらり揺られる。
文子と話す時間は短いものだ。
いつも通り席に座りながらお喋りをしている内に、製糸場に着く。
その少し廃れた雰囲気の佇まいは、もう見飽きている。
「もぉ、また製糸場に来ちゃったよ!! でも、家族の為!」
「そうだよ。家族の為に、私たちが率先して働かないと──」
「家族の為......?」
びっくりした! 急に背後から声が!?
「あなたたち......」
この声の主は、私たちの上司の祝原智子だ。
もう40代と中年だが、まだまだ現役である。
「家族の為じゃなくて、御国の為でしょ?」
「「はっ、はい!!」」
この様に、智子さんは盲目的愛国者だ。国を愛し、御国の為に働いている。
こんな人は、この製糸場でも智子さんだけではない。日本中どこを探しても、ほとんどがこんな人ばかりだ。「御国の為に、御国の為に」って......そんなの言って何が楽しいの?
「さっ、仕事よ!! お互い今日も頑張りましょ!!」
「「はぁい......」」
私たちは、製糸場にある更衣室で、仕事着に着替える。
着替え終わったら、割烹着姿でいつもの配置に着く。ここからはただ黙々と作業をする。
暑い。8月に入りたてで、夏の気温だ。もう既に30℃は優に超えただろう。
まだまだ作業は続く。
辛抱しなければ......。
私が家計を支えなければ......。
そんな思いが私の頭を過ぎる。
ただ黙々と作業を続ける。それだけだったならば、どれだけ幸せだっただろうか。
それは、突如としてやって来た。
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昭和20年8月6日午前8時15分。
広島に、原子爆弾が投下された。
世界で初めて、原子爆弾が使われたのだ。
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あれ? 何が起こったのだろうか。
──痛い。とにかく全身が痛い。
一旦冷静になり、周囲を見渡す。
凄い音と共に、衝撃波が襲ってきた──いや、違う。これは、何かの爆風だ。何かが爆発して、こうなったんだ。
──逃げなきゃ。
でも、体が思うように動かない。
あ、分かったぞ。製糸場が崩れた瓦礫の下敷きになっているんだ。
幸い、そこまで大きい瓦礫では無かったようで、大怪我という訳では無いようだ。直ぐに瓦礫から抜ける。
瓦礫の山から抜け、改めて周囲を見渡す。周囲は、私が押し潰されていたような瓦礫の山だらけだった。
大きく開いた天井から光が差している。よく晴れた空には、まるで茸の様な雲が出来ている。
──文子はどうなっただろうか。
「文子ぉ〜!!」
誰も居ない製糸場跡に、私の声が木霊する。予想はしていたが、案の定返事は無い。
それもその筈。
私は、自分の真横に落ちているブローチに見覚えがあった。血で汚れたそのブローチは、紛れも無い文子の物だ。それが示すのは......。
隣の瓦礫の山の下から、御下げの頭が見えていた。
それは、いつも見慣れた頭。もう見飽きた、友の頭──
「......文子?」
首から下は、さっきの私にのしかかっていた物よりも大きい瓦礫に押し潰れている。
その瓦礫の下からどくどくと流れ出る赤い血が、彼女の死を意味していた。
「......あぁ......、文子ぉ......!!」
私は、小さかった頃に父に殴られた時以来、久しぶりに泣いた。声にならない叫び声を上げて。
「ああああああああああああああああああああああ」
そう叫ぶ筈だった。しかし、何故かそれは声にならなかった。
別に、悲しみが引っ込んだとか、そういう訳では無い。本当に、人間辛い時は声が出ないんだなと思った。
そう思うのと同時に、私は忘れかけていた大切な事を思い出す。
どこで爆発が起こったのかは知らないが、私の家はどうなったのだろう。
ひさちゃんは既に登校した筈。そんなひさちゃんよりも、まずちよちゃんが心配である。
ひさちゃんが登校すれば、家には誰も居なくなる。
だからちよちゃんは隣の家に預けているのだが、ちよちゃんは隣の家に行けば見つかるのだろうか......?
文子みたいに、死んでなんか......いない筈。
私は、捻挫をした足で、ただがむしゃらに走った。
今思えば、あの時なぜ走れたのだろうか。
何処からか力が湧いてきたのだ。まるで、友の為に走ったメロスの様に。
......痛かった。
......辛かった。
......疲れた。
......面倒臭い。
......休みたい。
そんなネガティブな感情が、私を支配していく。
しかし、私はめげない。
ただ走る。例え息が荒くなり、肺が──足が──痛くなろうとも。
家に近づくにつれて、先程の爆発の被害が目に見えて分かる様になる。
何故かは知らないが、人、馬、牛、皆が川や用水路に顔を突っ込んで死んでいる。まだ生きているかもしれなかったが、彼らを助けている時間は無い。
しかも、余りに残酷過ぎて、目を逸らしたくなったので、私はその場を後にした。
そのすぐ後に、「うぉぉ......」とゾンビの様な声を出しながら這いずっている、推定60代の男性に会った。
「み、水ぅ......」
男性は私に、そう必死に訴え掛けて来たが、生憎私は水を持っていなかった。
「水なら、あっちに川がありますよ」
私がそう言うと、男性は「うぅっ......」と唸り声で返事をし、川の方へと這いずって行った。
本当に地獄を見ている様だ。
あの男性も、爆弾が落ちる前までは元気に生活していたのだろう。「今日も頑張るぞ!」という思いに満ち溢れ、1日を過ごしていたのだろう。それなのに......。
──やはり、戦争など間違っている。こんな事など、絶対にあってはならない。
遂に、私は家の近くの通りまでやって来た。
近所の家々の大半は、無惨に倒壊していた。しかし、私の家の近辺は奇跡的に原型を留めていた。
私は無我夢中で走った。
「──ちよちゃん!!」
隣の家の門を通り、私は叫んだ。
しかし、それに返ってきた答えは、私が想像していた答えとは合っているものの、残酷すぎた。
私が想像していた答えは2つ。
1つ目。
ちよちゃんは生きていて、隣の家で遠く離れた場所に避難しようとして──避難して──いる。
2つ目。
ちよちゃんは、もう......。
後者にだけはなって欲しくは無かった。しかし、やはり神は私に微笑む事はなかった。
「あぁ、明子ちゃん。落ち着いて聞いて欲しいのだけれど、ちよちゃん、ついさっき息を引き取ったのよぉ......」
お隣さんが、涙ながら告げる。
世界が音を立てて崩れ出す。
私がもっと早くこの場所に着いていれば......。
私が危機感を持っていなかったが為に......。
遂には、あんな男性なんてほっとけば良かったという結論にまで至った。
「うっ......、ううっ......」
まるで、私の体の奥深くから搾り出すようにして出た声が、妙に静まり返ったこの場所に寂しく響く。
「ちよちゃん......、目を開けてよぉ......!! いつもみたいに、私に笑って見せてよぉ............!!!」
現実はそう甘くない。いつもこうやって、人々に幻想を見せては壊す。これが、「生きる」という事の残酷さだ。
「ちよちゃぁぁぁぁぁあああああんっっ!!」
私は、声を上げて泣いた。今度はさっきとは違って、めいいっぱい叫んだ。
「ああああああああああああああああああああああ」
泣き疲れて、気持ちが落ち着いた。
お隣さんが、私を慰めてくれたのだ。
お隣さんは、添田千世子という。
お隣さんは1人暮らしだった。夫は戦争で出兵し、帰って来ない。
しかも、2人の間には子供が居なかった。だから、──隣の家の子供だが──ちよちゃんを我が子のように可愛がっていたという訳だ。
ちよちゃんと千世子さんは、「千代子」と「千世子」という同音の名前だった。だからなのかは知らないのだが、ちよちゃんは千世子さんによく懐いた。
千世子さんは昔ながらの遊びを得意としていて、よくお手玉やけん玉、おはじき、手遊び等で遊んだらしい。
千世子さんと遊んで帰って来たちよちゃんは、いつもニコニコしていた。
そして満面の笑みを浮かべながら、よく「ちよちゃんとあそんだんだ!」と言っていた。
まるで本物の親子みたいな2人のペアは、一生不滅だ。そう思ってもおかしくない程、私の母が出かけてから2人はしょっちゅう一緒にいた。
でも、もうそんなちよちゃんの笑顔も見る事はない。
私は、ちよちゃんの徐々に冷たくなっていく手を優しく握りながら、涙を流した。
声は出なかった。声も無く、ただただ泣いた。
爆弾が落ちたのは、私の家の少し離れた場所だった。割とそこからは近かったのだが、生憎私の家は無事だった。
しかし、その周辺の被害は甚大。暫くは避難所生活を余儀なくされるだろう。
気持ちを切り替えよう。
既に近辺には、日本兵たちが蔓延っている。
「ほらほらどいて〜」と言って死体を──まるでゴミを扱うかの様に──足で退け、担架で怪我人をテントへと運んでいる。
しかし、人助けをしているのだから、何も言えない。やっている事そのものは「正義」なのだから。
まぁ、私は家で寝るとするか。疲れたし、少し現実から目を背けたい。
翌日。爆発の後に黒い雨が降った。
私は自分の家の中にいたので、全く気づかなかったのだが、縁側でその様子を見ていた千世子さんに言われて初めて知った。
日本兵も「何だこの雨は!?」と言ってテントに避難していたらしい。
あの爆発は、ただの爆発では無かったのかもしれない。もしかしたら..................。
私はひさちゃん、そして母の安否が気になったので、日本兵の診療所に行ってみた。ついでに私自身の容態も診てもらおうと思ったからだ。
診療所の先生は、私には異常が無いと説明してくれた。足の痛みも、ただの捻挫だと分かり、怪我をしていた場所に軽く包帯を巻いて貰った。
もっと怪我の酷い人に私の分の包帯を巻いてあげなくて良いのか、と聞いてみたが、先生はこう答えた。
「君の言う重症患者だがね、正体不明の病に犯されている。だから、治療したところで無駄だね」
もう、こんなベテラン医ですら手の付けようが無いって事か。治療をしても──ましてや包帯を巻くだけじゃ、もう助からないのだろう。
ふと、私は恵まれてる方なんだなと思った。まだこうやって歩いて、ご飯を食べたりする事が出来るのだから......。
因みに、軍医さんに黒い雨について聞いてみた。
「あぁ、あの雨か。あれは絶対に浴びたら駄目だ。放射能にやられるぞ」
どうやら、あの雨は放射能に汚染された雨らしい。浴びるだけでも体に害があり、継続的に浴びればやがて皮膚が腐り、死に至るのだとか。
...
......
.........
そして、およそ1週間と少しが経過した。
その間には、様々な事があった。
まずは私の大ニュースから。
母の死亡が確認されたのだ。
母は、務めていた工場で割れた窓の硝子から人を庇い、硝子の破片が体に突き刺さって出血死したらしい。幸い、母が死ぬ直前に庇った同僚は生きていたそうだ。
その同僚の方は、私に感謝とお悔やみを言ってくれた。
とても優しく、良い方だった。母がこの人を守ったのも納得だった。
因みに、ひさちゃんの安否は不明なのだとか。
そして何より、日本の大ニュースが2つ。
1つ目は、長崎にも広島に投下されたのと同じ爆弾(原子爆弾と言うらしい)が投下されたらしい。
長崎でも、広島同様甚大な被害が出た。
広島に来ていた日本兵の少数も長崎に移り、現地でまた「正義」と自分たちを称して人々を助けているのだろう。
長崎の方々にも、お悔やみ申し上げます。早く家族と安心して暮らせるようになりますように。
そして2つ目。
2つの都市の原子爆弾投下をきっかけに、日本が連合国のポツダム宣言を呑み、戦闘停止したのだ。
そして、天皇様による玉音放送も行われ、この愚かな戦争に終止符が打たれたのだった。
ここまで来てようやく終戦か。どうせ日本のボロ負けなのだろうが、そんな事は私にとっては全くと言っていい程関係無い。
一体、ここに至るまでに何人の人たちが、その尊い命を落としただろうか。
「欲しがりません勝つまでは」とかふざけた事を言って、国民までをも自分たちの馬鹿げた争いに巻き込み、戦争に協力させた。しかも、こうやって原子爆弾が投下された都市の人々、そして戦争に駆り出された人々は、大勢の死傷者が出て、甚大な被害を受けた。
国はどう責任を取ってくれるのだろうか。当然、この戦争を通して亡くなられた人や、国全体に出た被害についてだ。
全く、国も馬鹿な事をやったもんだよ。こんな結果になるって分かってんのにさ。
まぁ、国にキレていても何も始まらない。まずは目先の事から終わらせるとしよう。
私はまず、島根県にいる親戚の家に居候をさせて貰えないか頼んでみる事にした。
しかし、今の広島は紙も、ペンも無い。移動手段も、徒歩のみ。
そんな状態で、どこかで紙を手に入れて、手紙を書いて送って、向こうの返事を待って......などという悠長な事をやっている暇はないので、まるで江戸時代にタイムスリップしたかの様な気分で、缶パンを懐に入れて歩き出す。
──目指せ、島根県!
民家に泊めて貰ったりもして、何とか島根県に着いた。それも、2泊3日かかって。缶パンしか食べていない人間って、こんなにも軟弱なんだな......。
島根の親戚は、ボロボロの服を来た私を見て、まずは家に入れてくれた。
戦時中だったら、全く考えられない状況だ。改めて、もうあの戦争が終わったのだと実感した。
風呂に入って、親戚から服を借りる。
そして、改めて親戚に居候のお願いをした。
親戚は優しかった。ご飯は少ないが、寝床や風呂、トイレの確保から何までを全部してくれた。本当に有難い以外の何物でもない。
私は額を地面に付けて土下座をしてまでして、親戚にお礼を述べたのだった。
そして、借りた部屋に入って、紙とペンを貰った。
知り合いたちに安否確認を含めた手紙を書くという目的もあるのだが、私にはそれ以外の目的もあった。
それは、この原子爆弾の惨劇を後世に引き継ぐ事だ。
──2度とこんな事はあってはならない。それを、これから世を支えていく若者に伝えていかなければ。
そういう使命感が、私の感情を埋めつくしたのだ。
ペンを手に取り、紙にどんどん文字を書いていく。
私は文才が無い。だからこそ、お金を貯めて文才のある人にでも、私の物語を継承していってもらおう。
...
......
…......
私はこうして、広島の原子爆弾という第二次世界大戦に起こった惨劇の語り手となった。
歳をとった今でも、日本中の小中学校を駆け回り、原子爆弾の恐ろしさと平和の大切さ──ありがたさ──を語っている。
そして、2度とあんな惨劇が起こらないようにと願いながら活動を続ける内に、とある小学校で公演をした時。
私は、獅孔(本名伏せる為にこうします)君と出会った。
ーーーーーー
(ここからは、佐々木明子さんご本人のお言葉です。嘘偽り無い言葉です)
※ただし、一部抜粋があります。ご了承ください
獅孔君は、小説家になるのが夢の子でした。
私は獅孔君から届いたお礼の手紙を見て驚いたんです。
獅孔君は、とても文才のある子でした。他の子とは格が違うと言いますか、こういう「文」を書く事に長けていると言いますか。
──獅孔君になら、私が書いたあの紙を託しても良いかも!!
獅孔君の文を見てそう思った私は、獅孔君の担任の先生を通じて、獅孔君に私が書いた「原子爆弾物語(仮)」を託しました。
彼が必ず、私から受け継いだこの物語を世間に届けてくれる事を願って。
因みに、これは先生から聞いた話なのですが、獅孔君は私の物語を受け取ってから目を通し、こう言ったらしいですよ。
「これ、手直し要らなくないですか?」
今回、ご協力頂いた佐々木(勝部)明子さん、本当にありがとうございました。
そして、安らかな眠りを。
明子さんは、僕にこの「原子爆弾物語(仮)」を託してから、およそ1ヶ月後に、原爆病でお亡くなりになられました。
明子さんの意思を継ぎ、この物語を完成させました。本当に嘘偽り無い、実話による物語を完成させる事が出来ました。
最後に。
佐々木(勝部)明子さん、本当にありがとうございました。
追伸
明子さん曰く、ひさちゃんは行方不明で、今も尚見つかってないそうです。