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過去編 紅音の思い出4


過去編 紅音の思い出4



 1976年7月


 1


「ふぁぁ……」


 私――篠原紅音は、欠伸をしながら早朝の廊下を歩く。

 私は朝が弱く、大体毎日遅刻しているが、今日だけは早く登校していた。

 なぜなら、月原一騎の様子……正確には彼の周りの様子が気になったからだ。

 ……昨日一騎は、私の陰口を言っていた女子三人組から私を庇ってくれた。

 そのとき、その三人組の一人は一騎に対し、『覚えてろよ』という仕返しの宣言とも取れる発言をしていた。

 だから私は、一騎のことが心配でいつもより早く学校に来たのだ。

 ……正直、仮にいじめみたいなことが発生しても、一騎なら自分で何とかできると思う。

 だけど、いくら自分で対処できて抑えられたとしても、傷付く可能性は決して低くない。


「……」


 そんなことを考えていたら、眠気はもう完璧に覚めていて、そして目の前には教室のドアがあった。

 普段よりかなり早く来た私は、一番乗りのつもりで――つまりは無人の教室のドアを、音を立てながら勢いよく開ける。

 すると、なぜか居ないはずのクラスメイト達が一斉にこっちを見た。

 ……あれ?


(もう、クラスメイトの半分くらいが教室にいるのは気のせいだろうか?)


 ……いや、明らかに気のせいではない。

 どう見てもクラスメイトの半分以上が既に登校しており、そのほぼ全員が乱暴に開けられたドアの方を……つまりは私の方を見ていた。

 ……普段の私は、早くて時間ギリギリ遅くて一限目終わった後に登校するから知らなかったが、二十分ぐらい余裕持って登校するのは割と普通のことらしい。


「……」


 私は、私に向けられている全ての視線を無視して、自分の席の方を見る。

 正確には、その隣の席を。


(まだ、一騎は登校してないようだな)


 それに、机に花瓶や落書きとかもされてないようで、少しだけ安心する。

 あれって実害がそんなに無くても、気が滅入るから。

 ……。

 ……私は中学でのことを思い出しながら、自分の席に向かい、そのまま椅子に座る。

 そこでぼんやりと肘をつき、教室の様子を眺めていると、一人の女がこちらに向かって歩いてきた。

 その女は、昨日私の陰口を叩いていた三人ではない。

 確か、この女は……


「やぁ、篠川さん。おはよ」


 そんなことを考えてるうちに、向こうから話しかけられてしまった。

 ただ、丁度そのタイミングで、私は目の前の明るい女が誰だか思い出せていた。


「おはよう、山崎さん。何か用か?」


「あれ、私の名前、覚えてたんだ」


「……まぁ、『覚えてない』って思われても仕方ないが、何度か話した奴の名前ぐらい覚えてる」


 山崎ひかり。

 よく、教室の端で友達と明るく大きな声で談笑している少女。

 化学の実験や掃除の時とかで一緒になることがたまたまあって、それで記憶に残っていた。


「へー。篠川さん、他人に興味無さそうなさそうだなーって思ってたからさ、ちょっと意外」


 そう言いながら山崎さんは、空いている一騎の席に座る。


「ところでさ、篠川さん、川口の奴らと揉めたのって本当?」


「……川口?」


「ほら、あそこに固まっている三人組のボス」


 山崎さんが指を差した方向を見ると、こちらを見ていた三人組が慌てたように視線を外した。

 昨日、私の陰口を言っていた三人組だった。


「……ああ、彼女達か。彼女達には一方的に陰口を言われただけで、別に揉めたわけじゃない」


「ほう。それで、月原が篠川さんを庇ったというわけね。なるほどなるほど」


「……なんでそのことを知ってるんだ?」


「だって、あいつらが月原の悪口を振り撒こうとしてたから」


 もう山崎さんは指を差さないが、『あいつら』が誰のことを指してるのかは明らかだった。


「……振りまこうとしていた、ってことは実際は振り撒かなかったのか?」


「うん、私が止めた」


 山崎さんはにこやかに言う。

 その笑顔を見て私は、彼女が今座ってる席の本来の持ち主と何度か親しげに喋っていたのを思い出していた。


「今日たまたま朝早く来たら、なんかもう月原に関してめちゃくちゃなことを色んな人に言ってんの。明らかな作り話なのを」


「……」


 私は『一体どんなのだったんだ?』って一瞬尋ねたくなったが、結局私の口は閉じたままだった。

『言われた』という事実だけで怒りが湧いてくるのに、具体的なことを聞いたら、どうなってしまうか自分でもわからない。

 それに、『止めた』とのことだから、対処する必要はないということだ。

 なら、わざわざ聞く必要性は無いだろう。

 怒りは、変わらず腹の底で渦巻いていたが。

 ……昨日の一騎も、こんな気持ちだったのだろうか。

 そんなことを考えてる内に、目の前の山崎さんは、


「まぁ、だから私が止めたんだけど。アイツら、前から嫌いだったしね」


『一騎に対する嫌がらせは潰した』ということを、カラカラと笑いながら言った。

 ……考えてみれば、私が心配しなくても、一騎には多くの味方が居るのだ。

 ただ、その『味方』が、場の流れで『味方じゃなくなる』可能性もあったのだが、少なくとも目の前の山崎さんは違ったらしい。

 言葉通り、あの三人組が嫌いだからって理由からかもしれないが、それでも山崎さんが一騎の味方であるのは確かだった。


「って言っても、アイツらも篠川さんの……ってか、面倒だからさ、さん付けやめてもいい?アンタもさん付けやめていいからさ」


「ああ、いいぞ」


 実は、私も面倒だと思っていたところだったから助かった。


「良かった。じゃあ話を戻すけど、川口達も篠川の悪口はほとんど言ってなかったよ。中学でのアンタの武勇伝を知っていたから、アンタを直接敵に回すのは怖かったんだろうけど」


「……」


 私は眉を顰める。

『中学での武勇伝』と言われるような話に一つだけ心当たりがあったが、『それ』はあまり思い出したい話ではなかった。


「で、あの噂、どこまで本当なの?」


 しかし、私の表情に気付いてるのか気付いていないのか、山崎さん……いや山崎は、野次馬精神を隠さずに聞いてくる。


「……どこまでって聞かれてもわからない。そういう噂は本人に隠れてするもんだろ?どういう内容か言ってもらわないと、判断がつかないぞ」


「んー、それもそっか。じゃあ、言うと、篠川に絡んでいた数人を問答無用にボコボコにして全員病院送りにしたっていうのは本当?」


「……」


 私は閉口する。

 なんだ、それは。私は暴君か。

 全くの事実無根というわけではないから、余計にタチが悪い。


「……先に手を出してきたのは向こうで、やられたことをやり返しただけだ。それに、病院送りじゃなくて精々保健室送りだ」


「それでも十分すごいっての」


 山崎は愉快そうに笑う。


「じゃあ、そんな篠川に頼みなんだけど、私達と手を組まない?」


「……手を組む?」


 私は首を傾げる。


「そ。ほら、私達には共通の敵がいるでしょ?」


「……」


「うわっ、全力で面倒臭そうな顔だ」


「実際、面倒だからな。私や私の知り合いに火の粉が降りかかるなら、それを振り払うための努力はするが、わざわざコトを構えたいわけじゃない。……アイツらが一騎に嫌がらせする気を無くしてるなら、とりあえずそれでいい」


「……」


 山崎は目を丸くする。

 そんなに意外なことを言ったつもりはないが……。


「……さっきから思ってたんだけどさ、篠川って結構喋るんだね」


「そうか?」


 どう考えても、一騎や目の前の山崎本人に比べたら口数は少ない方のはずだ。


「だって、入学した当初の篠川って話しかけても『ああ』か『違う』のイエスノーの返事ぐらいしか返ってこなかったよ?正直、こんな言葉のキャッチボールできるなんて思っていなかった」


 ……言われてみれば、確かにそうだ。

 入学当初、友達を欲しいと思えなかった私は、必要最低限の返事で済ませようとしていたはずだ。

 そんな人間だったはずなのに、いつの間にか私はクラスメイトに対してキチンとした会話するような人間になっていたらしい。


「んー……川口とかに関係なくさ、友達にならない?篠川結構面白そうだし」


「……ああ、それならいいぞ。よろしく」


 私はそう言いながら、手を山崎に向かって差し出す。

 山崎は軽く目を見開いて私の手を見つめるとニパっと笑い、


「こちらこそ、よろしく」


 私の手を取った。




「それにしてもさ」


「?」


 握手した直後、山崎はニヤニヤ笑い浮かべ始めるものだから、私は首を傾げる。

 だが、その疑問はすぐに解消された。


「やっぱり篠川が変わったのって、アイツの影響だったりすんの?」


「……アイツって、誰のことだ?」


 誰のことを指してるのかわかっているのに、私は目を逸らしながら誤魔化そうとする。


「勿論、月原のことだよ。わかってるくせに」


 しかし、私の誤魔化しは無駄だったようだ。

 ……一騎曰く、私は顔によく出るタイプらしいので、自覚は無かったがもしかしたら嘘の類が苦手なのかもしれない。


「まぁ、学校で篠川に話しかけてたのは月原ぐらいだから、篠川を変えるような影響与えんのは月原の可能性が高いだろうなー、ってぐらい想像できるよ。でしょ?」


「……」


 ……正直。

 自分でも、そうなんだろうなと思う。

 彼の優しさと明るさに触れて、私の中の何かが変わっていくのは、薄っすらとだが自覚しているところだった。

 だけど、素直にそれを認めるのは、何故か妙に癪だった。


「その沈黙は肯定と受け取った。それでアイツの一体どこが――」


「俺の席で何やってんだ、お前」


 今登校してきた男子生徒が――というか一騎が、ニヤニヤ笑ってた山崎の頭を軽くはたく。

 山崎はわざとらしく頭を押さえて、


「痛ったいなぁ……暴力反対!悪魔!」


「全然強く叩いてないだろ……」


 一騎が呆れたような表情を浮かべる。


「あ、紅音、おはよう。今日は珍しく早いんだな」


 呆れた顔から一転、一騎は笑いながら挨拶してくる。


「おはよう、一騎。……今日はたまたま早く起きてな、それでだ」


「そっか。……確か、遅刻って何度か重ねると欠席扱いになるらしいし、たまには今日みたいな日があった方が良いのかもな」


 軽く頷きながらそう言った直後、一騎は私に向けていた視線を山崎に戻す。


「それで、結局、お前は何やってたんだ?……まさか、紅音をお前のよくわからない派閥争いに巻き込もうとしてたんじゃないよな?」


「そ、そんなこと、ないよ?」


 山崎の目はものすごい勢いで泳いでいる。

 彼女も嘘が苦手なタイプらしかった。


「図星かよ……」


 一騎は僅かに顔を顰める。


「今はもう違うよ、私達友達だよね???」


 山崎は縋るような目を私に向ける。


「ああ、そうだな。私と山崎は友達だ。さっきなったばかりだがな」


 私はいつもの調子で山崎の言葉を肯定する。


「あ、そうなんだ。いつの間に……ってか今か」


 そんな私を見て一騎は、顔の表情を緩めて笑みを浮かべる。

 そしてそのまま山崎の方へチラリと視線を向け、


「って言っても山崎、お前、悪い奴じゃないし、悪質な嘘をつくような人間でもないから、本気で紅音のこと友達だと思ってるんだろうけど、『いざという時は紅音に助けてもらおう』ぐらいの打算は頭の中にあるんだろ?」


「そっ、そんなことないよ?」


「ほら、やっぱり。……こんな奴だから、紅音も気をつけろよ?根っからの悪い人間じゃないけどさ」


「ああ、わかった。気をつける」


「あの、篠川も素直に頷かないで??」


「ただ、私も山崎が悪い人じゃないっていうのはなんとなくわかる。一騎を庇ったみたいだしな」


「俺を庇った?」


 一騎は訝しげな目を山崎に向ける。

 向けられた山崎は『流れがこっちに来た!』とばかりに勝ち誇った表情を浮かべ、


「そうだよ!川口達がアンタのことでめちゃくちゃな悪評を流そうとしたの、私が止めてやったんだからね、バーカ!ま、元々あんな奴らの言うこと、まともに受け取る人なんかそんな居なかっただろうけど」


「へぇ……」


 一騎はつまらなそう……というか、自分のことにも関わらず、心底どうでも良さそうだった。

 ただ、何かに思い至ったかのように目を僅かに見開いて、


「そいつら、紅音のことは何か言ってたか?」


「ほとんど何も言ってなかったよ。少なくとも、嵌めようとかそんな感じじゃなさそうだった」


「そっか、あくまで狙いは俺だけか……。じゃあ、どうでもいい……って言うのはお前に失礼か。面倒かけたな、ありがとう。今度なんか奢ろうか?」


「あ、じゃあ食堂で昼飯奢ってちょうだい」


「了解。ってか、そろそろ自分の席に戻れ。あとちょっとでホームルームが始まるぞ」


「もうそんな時間?……篠川、また後でねー」


 そう言って山崎は、小走りで自分の席に戻って行った。

 直後、一騎はさっきまで山崎が座っていた椅子に座る。


「ふぁぁ……ねむ」


 一騎はノビをしながら、欠伸をする。 

 そんな眠そうな一騎に向かって私は、さっきから気になっていたことを尋ねる。


「そういえば、一騎って山崎と仲良いのか?なんだか親しげだったが」


「俺と山崎が親しい……?……まぁ、確かに仲悪いってことはないな。なんだかんだ小学校の頃からの付き合いだし」


「ふーん……。通りで仲良さそうだったわけだ」


 私は無表情で頷く。

 そんな私を見た一騎は何故かちょっと困惑したように、


「いや、確かに真面目な話、山崎とは仲良いか悪いか聞かれたら、仲良いって方になるんだろうが、その言い方だとちょっと語弊が……」


「でも仲良いんだろ?私への対応とは随分違ったぞ」


 頭を叩いたり、悪態を付き合ったり、随分と距離が近そうで、少し羨ましく感じた。

 とは言っても勿論、頭をはたかれたいわけでもなければ、悪態をつき合いたいわけでもない。

 それに、一騎がよく向けてくれる明るい笑顔、嫌いじゃないし。

 ……あれ。

 結局、私は一騎にどうして欲しいんだろう。

 自分のことなのに、よくわからなかった。


「そりゃ確かに違うけど、それはなんていうか、むしろ逆っていうか……」


 そして、何故か一騎はしどろもどろしていた。

 ……。

 なんとも言えない微妙な空気の中、


「おーい、ホームルーム始めるぞー」


 教室のドアを勢いよく開けながら、担任が教室に踏み込んできた。


「ああ、もう来たか」


 一騎はそう言って、私の方に向けていた顔を前に向ける。

 だから私も、顔を担任の方に向けた。

 その直後、


「あ」


 一騎は何かに気付いたかのように、ボソリとそう呟く。

 そして、私の方に再び顔を向けて、


「なぁ、もしかして、紅音が今日朝早く学校に来たのって……」


「おい、月原、静かにしろー。しばくぞ」


「……はーい」


 前の方から担任に注意されて、一騎はしょげくれた表情を浮かべながら前を向く。


「じゃあ、出席取るぞ。……全員居るな、じゃあ、次連絡事項ー」


 ホームルームがどんどん進行していく中、隣の一騎は『いや、流石にそれは自意識過剰か……』と呟いていた。

 ……一騎が元々何を聞こうとしていたのか、私にはわからない。

 でも、それは多分、『はい』で答えられるものだったと私は思う。

 だけど、そんなこと一騎には伝えない。

 それこそ、私の恥ずかしい自意識過剰かもしれないから。



 2


 7月23日。

 今日は、一学期最後の日。

 成績表も渡され、あとはもう帰るだけになったその時。


「なぁ、紅音。今日、一緒に帰らないか?」


 隣の席の男からそう声をかけられた。


「ああ、いいぞ」


 私は鞄を肩にかけながら、いつも通りそう返事をする。

 ……三週間前、初めて一騎と一緒に帰った日以来、週に一、二度程度の頻度で一騎と一緒に帰っていた。


「よかった。じゃあ、帰ろうか」


「ああ」


 だから今日も、私は一騎と並んで家路についた。



 ……。

 …………。

 ………………おかしい。

 一騎の様子が、おかしい。

 私と一騎は今、太陽が明るく照らしている道を無言で歩いている。

 無言なこと自体は、問題ない。

 一騎とは隣の席同士……つまりは毎日のように一緒に居るのだし、帰り道を一緒に無言で歩くことは以前にもあった。

 そして、そういう時間もなんだか穏やかに感じて、嫌いではなかった。

 だが、それにしても、今日の一騎は無口過ぎる。

 普段の半分も口を開いていない。

 いつもあれだけ話しかけてくれてるのに、理由は不明だがこんなにも口数少なくなるのは少し寂しい。

 明日から、一ヶ月以上会えなくなるというのに。

 ……。

 ……高校に入学してから今日まで毎日のように喋っていたのに、それも今日でお終い。

 ただ、『お終い』と言ったところで、一ヶ月ちょっと後には、また同じような日常が再開されるだろう。

 そんなことはちゃんとわかっているのに、胸にある寂寥感はどうしても拭えなかった。


「……」


 私は隣で歩く一騎の横顔を、見上げるようにチラリと覗き見る。

 私の視線の先にいる彼は、無表情で真っ直ぐ道路の先を見ていた。

 そこは、私と一騎の家路が分かれる交差点だった。

 ……。


(何か、言わなきゃ)


 何か、言わなければ。

 なぜか、そんな気がする。

 でも、何を言えばいいのかがわからなくて、私は口を開いてはすぐに閉じてしまう。


「ん?」


 そんな私を不思議に思ったのか、一騎は無表情から柔らかい笑みに表情を変えながら、私の方に顔を向ける。


「紅音、どうかしたか?」


「……いや、なんでもない」


 折角向こうから尋ねてくれたのに、こんな答えしか言えない自分に苛立ちが募る。


「?そっか」


 一騎は少し不思議そうな顔を浮かべたあと、結局顔を前に向け、私も同じく顔を前に向ける。

 そんなこんなしてる内に、私と一騎は分かれ道の交差点にたどり着いていた。

 ……。


「明日から夏休みだけど、その間、元気でいろよ?」


 一騎は足を止めて、私に向かってそう言う。

 だから、私も、


「ああ、そのつもりだ。だから、一騎も、元気でな」


「おう」


 一騎はいつも通り明るく笑う。

 その笑顔につられて、私もいつも通りに笑う。

 そして、


「じゃあ、またな。紅音」


 一騎は私に向かって手を振る。


「ああ。またな、一騎」


 手を振る一騎に対し、私は小さく手を挙げることで応えた。

 そうやって、私達は別々の道に分かれた。



 ……。

 …………。

 私はふと、上を見上げる。

 視線の先に広がるのは、綺麗な青空だった。

 その空を見ながら私は、


「明日から、何しようかな」


 そんなことを一人呟いて、残りの帰り道を一人で歩いた。





 1976年8月


 3


 夏休みが始まって、三週間が経った。

 その間、私は色んなことをして過ごした。

 母親と小旅行に出掛けたり、夏休みの宿題を始めとした勉強をしたり、最近中々読めず溜まっていた本をたくさん読むことができた。

 中々楽しい日々だったと言える。


「……」


 今は平日の午後で、母親は仕事に出掛けている。

 だから、私は一人でテレビをぼんやりと観ている。

 ……良い夏休みを過ごせていると、私は本気で思っている。

 母さんとの伊豆旅行は楽しかったし。

 でも、何かが足りないと、そうも思ってしまう。


「……」


 私はリビングの隅にある黒い電話機をジッと見つめる。

 これが最近の私が無意識でよくやってしまう仕草で、その様子を見た母から『よくわからないけど、そんなに悩んむぐらいだったらさっさと電話かけちまえばいいのに、何やってんだか』って豪快に笑いながら言われた。

 ……母さんは人の心が読めるくせに、デリカシーが足りないと思う。

 そんなことできないから、困ってるのに。


「……はぁ」


 私は小さくため息を吐く。

 自分がこんな寂しがり屋だったなんて、知らなかった。

 ……夏休みに友達と遊びに行くなんて小学生の時までで、中学生の頃はもう一人で過ごすようになっていた。(母は昔から仕事で家を空けることが多かった)

 そして、去年まではその時間に不満なんて無かった。

 なのに、今は一人でいることに虚しさのようなものを感じてしまう。

 変わった理由は明らかに、あの男のせいだった。

 要は、全部、あの男が悪い。


「……」


 私は学校のプリントを保管してるクリアファイルを取り出し、そこから電話連絡網を引きく。

 ……なんかもう、悩むのが面倒臭くなったのだ。

 自分に意気地が無いことを彼に八つ当たりしたところで、心は晴れない……というよりむしろフラストーレーションは加速するばかり。

 一人っきりでぐるぐる悩んでも、虚無感が増えていくだけ。

 なら、自分の心に従って、やりたいと思ったことをそのままやればいいだろう。

 要は、ただのやけくそだった。


「……」


 連絡網から彼の番号を見つけ、そこに電話をかけようと黒い電話機に手を伸ばす。

 ――あれ、そういえば、何を話すのかすら決めてないような――。

 そんな今更過ぎる思考にようやく辿り着き、私の手は受話器に触れる寸前で止まる。

 丁度、その時だった。


 ジリリリリ!


 と、目の前の電話機からけたましい音が鳴り響き、私はビクッと肩を震わせる。

 偶然、どこか――どうせ布団の営業とかその類だろう――から電話がかかってきたようだ。

 私は肩透かしな気分になりながら、目の前の受話器を取る。


「……はい。篠川ですが」


 私は若干投げやりな口調で電話に出る。

 それに対して向こうは、


『……えっと、月原一騎という者です。そちらに紅音さんはいらっしゃいますでしょうか?』


 緊張した声で、自身の名前を名乗った。

 ……。

 ……というか、今、なんて名乗った?


「え、一騎?」


 私は驚きのあまり、声が少し高くなる。


『……あ、なんだ、紅音か。電話だと声がちょっと変わるから、紅音のお母さんかと思った。あー、緊張して損した』


 電話の向こうから聞こえる声は、直前までは硬いものだったのに、今はもう笑い混じりになっていた。


『あ、それで電話の要件なんだけど、紅音って、今度の土曜日の夜、暇だったりする?近くの毎年やってる花火大会に一緒に行きたいと思ったんだけど、どう?』


 言われた私は、カレンダーに目を向ける。

 ……ああ、そういえば、もうそんな時期か。

 去年は家で受験勉強に勤しみながら、窓からぼんやりと花火を見たのを思い出した。

 だけど、今年は。


「予定は特にない。行けるぞ」


『そっか、良かったぁ……。……じゃ、待ち合わせは近くの神社の入り口でいい?あそこ、花火大会の当日は縁日やってるし。それと、待ち合わせ時間は7時で大丈夫?』


「そこで待ち合わせでいいぞ。時間もそれで問題ない」


『よかった。じゃあ、当日はよろしく。バイバイ』


「……あ、ああ。バイバイ」


 唐突な別れの挨拶に驚きながらも同じく別れの挨拶を返したら、そのままブチッと通話が切られた。

 受話器を耳から離し、ツーツーとなるそれをジッと見つめる。

 ……言いたいことを言うだけ言って終わらせるとか、嵐みたいな奴だなぁ。

 それはそれとして。


「今度の土曜日かぁ……」


 私は独り言を呟きながら、リビングから自室に移動する。

 そして、そのままベッドに、仰向けに倒れた。

 ……。

 ……眠いし、このまま昼寝しよう、うん。

 私は部屋で一人、静かに目を閉じる。

 そう、今この家には私一人しか居ない。

 だから、目を瞑ってしまえば、私の今の表情を見れる人は、私含めて誰一人存在しなかった。



 4


 花火大会当日。

 私は外行きの服に着替えて、日が落ちかけて暗くなった道を一人で歩く。

 私の家から神社までかかる時間は五分で、今は六時五十分。

 五分前には着く計算だ。

 だから慌てずにゆっくり歩きながら、ある事についてぼんやりと考える。

 そのある事とは、


(他に誰が来るんだろう)


 一騎にそのことを聞くのを、すっかり忘れていた。

 ……最初電話を受け取った時には二人っきりだと思い込んでいたのだが、よくよく思い返してみると、一騎はそんなこと一言も言ってなかった。

 だから、一騎は私と違って友達が多いことを考えるに、友達複数人を誘って、その内の一人に私も居たと考えるのが一番自然だ。

 ……正直、私はあんまり人と話せるよう方じゃないから、そのグループの中で上手くやれるか少し不安だったりする。

 でも、その不安以上に、これから友達と一緒に外で遊ぶって楽しみの方が大きかった。


「……」


 まだ花火大会が始まるどころか合流すらしてないのに、笑みが溢れそうになってしまう。

 私はその少し浮かれ気分のまま、電灯に照らされた神社の入り口にたどり着く。

 もう縁日は始まっていて、太鼓や音楽が聞こえてくる。

 その音の中、私は腕に嵌めた腕時計を見る。

 六時五五分。予想通りだ。

 約束の時間よりは五分早いから、一騎はまだ来てな――


「紅音、久し振り。もう来てたのか」


 そんな事を考えていると、後ろから声をかけられた。

 振り返ると、この数ヶ月間で見慣れた、人の良さそうな少年の顔がそこにあった。

 ただ、服装は勿論ながら見慣れた学ランではない。

 紺色のシャツに黒いジーンズという、シンプルな格好だった。

 私はその姿がなんだか珍しくてジッと見つめてしまいそうになるが、それだと相手に失礼なので、先の一騎の言葉に返事をする。


「久し振り、一騎。丁度今来たところだ。……それにしても、一騎、お前早いな。先にいるとは思ってなかった」


「紅音より早いと言っても俺もついさっき来たところ。というか、俺としては紅音が時間より前に来てくれたことにびっくりしてる。学校ではいつも遅刻してるから、遅れてくるかもしれないなー、とか思ってた」


 一騎はクスクスと笑いながらそんなことを言う。失礼な奴め。


「……学校で遅刻してるのは寝坊だし、それに人との約束で遅刻したりなんかしない」


「そっか。ありがとう」


 私がちょっと拗ねたように言うと、何故か一騎は余計に笑いながらそう言った。

 だから私も、その笑顔に釣られてつい笑ってしまう。

 そして、私はそのまま、


「それで、他の人は?というか、そもそも誰が来るんだ?」


 気になっていたことを目の前の少年に尋ねた。

 すると一騎は一瞬きょとんとした後、申し訳なさそうな顔を浮かべて、


「……あー、ごめん。言ってなかったけど、俺と紅音の二人だけだよ。他の人は別に誘ってない。だけど、こんな近所のお祭りなんだし、クラスの連中も……山崎の奴とかも多分いると思うから、そいつらとも会えると思う。だから、まぁ許してくれ」


「……え」


 ……正直なところ、『もしかしたら』とは思っていた。

 でも本当に二人っきりだとは思えなくて、そんな可能性は無視していい程度だろうと、そう考えていた。

 だから、私は驚いて、心臓の鼓動が早くなってしまう。

 ……ただ、そんな私を見る一騎の目はどこか申し訳なさそうだ。

 そういえば、先程一騎は何故か謝っていたような気がする。

 ……もしたしたら一騎は、私が今何を考えて何を感じているかを、勘違いしているのかもしれない。

 でも、私が抱えるこの感情が何なのか、自分自身の中でも上手く言葉にできなくて、結局私は押し黙ってしまう。


「……んー、じゃあとりあえず、誰か探すか。そんな広い神社じゃないし、合流できるだろ」


 一騎はちょっと考えるようにしてから、そう言った。

 その顔は、私の気のせいかもしれないが、どこか残念がっているように見えた。

 ……一騎のことだ、私の『他の人は?』という発言で、『複数人の中の方が良いと篠川紅音は考えている』……と彼は思い、当初の予定を変えて私に気を遣ったのだろう。

 でも、本当のところは違う。

 だから。


「……あの、さ」


 ようやく私は、口を開いた。


「ん?何?」


 一騎はいつもの優しい笑顔で、尋ねてくれる。

 だから、


「私も、お前がさっき言った通り、私とお前の二人で遊びたい。……勿論、一騎の友達と会えたら、その友達と遊ぶのもいいけど、それまでは私はお前と二人で店を回って、一緒に花火を見たいと思ってる。……私は友達のお前に誘われたから来たんだ。だから、そうしたい」


 私の精一杯のわがままを、そのまま告げた。

 ……私自身が今抱えてるこの感情が何なのかはわからない。

 でも、感情はわからなくても、どうしたいのかはわかるから。

 一騎の優しさに甘えて、自身の希望を吐露した。


「……」


 私の言葉が意外だったのか、一騎は固まって無言になる。

 ……。


「ダメ、か?」


 私はもう一度、尋ねる。

 すると、一騎は、


「……全然、ダメじゃない。一緒に回ろっか」


 そう言って、楽しそうに笑った。

 ……良かった。

 笑ってくれて、良かった。

 私はすっかり安堵して、深く息を吐く。


「じゃあ、行こっか」


「ああ」


 一騎が神社の中を指でさし、私は頷く。

 そして、二人して歩き出す。

 その直後、


「あー、そういえばさ」


 一歩目で一騎がいきなり立ち止まって、私の方に振り返る。


「紅音の私服姿って初めて見たけど、私服姿も結構可愛いな。似合ってる」


 そう言われた私は、視線を下に落とす。

 私が来ている服は黒いTシャツの上に赤いチェックのシャツ、そして下は脛までの灰色のスカートという出立ちだった。

 外行きでよく着ていく服装で、結構気に入っている格好だった。


「……あ、ありがとう」


 実は容姿の類を褒められるのはあまり好きではないのだが、相手が一騎だと照れてしまう。

 ……というか、入学当初では、一騎にでさえ容姿のことを触れられたくなかったのに、今ではむしろ褒められて嬉しく感じている私がいて、自分でも驚いてしまう。


「いきなり立ち止まって悪かった。行こうぜ」


「……ああ」


 その一騎の言葉で私は我に返って、一騎の横に並ぶ。

 そして、私は一騎の方をチラリと見る。

 視線の先の一騎は涼しい顔だった。


(……ああいうこと、サラリと言えるの羨ましいな)


 私も初めて見る一騎の私服姿を見て思うところあったのに、『それ』を口にするなんて私には到底できないことだった。

 だから私は無言のまま、そんな彼と一緒に、祭りの喧騒に向かって最初の一歩を踏み出した。



 5


「んー……紅音って、何かやりたいものってあったりする?」


 太鼓やラジカセの音楽が響く中、一騎はこちらの顔を覗き込みながら尋ねてくる。


「……今のところは特に無いかな。適当に回って決めたい。一騎は?」


「俺はそうだなぁ……あ、あそこの射的をちょっとやりたい。いいか?」


「いいぞ」


 私と一騎は、射的の屋台の列に並ぶ。


「そういえば、私、射的ってこれが初めてだ」


「あ、そうなんだ。たまにやると楽しいもんだよ、射的って。的に上手く当たるかどうかとか、当たっても倒れるか倒れないかでワクワクする」


「ふぅん……。一騎はよく射的とかやるのか?」


「俺も随分と久しぶりだよ。縁日に来る度にやってるけど、そもそもこの縁日自体しばらく来てなかったし。……紅音って、この花火大会、よく来てたりした?」


「いや、私も小さい頃に何度か来てそれっきりだ」


 ……考えてみると、この神社は私の家から五分程度の場所ということは、一騎の家からもそんなに遠くないってことになる。

 なら、もしかしたら、小さい頃この縁日で一騎とすれ違ったことがあるかもしれない。

 そんな二人が今、一緒にその縁日の屋台を並んでいる。

 それがなんとも言えない奇妙な縁のように感じて、不思議な気分になった。


「あ、前の人、居なくなったな」


 そんなこと喋っているうちに、順番が回ってきたようだ。


「全然難しいものじゃないけど、一応俺の方が経験あるし、手本として俺から先にやって、紅音はその後でいい?」


「それでいいぞ。私は近くから見てる」


 私はそう言って、一騎の手元を覗けるよう、台の前に立つ一騎に更に一歩近付く。


「……これは、カッコ悪いところは見せられないなー」


 一騎は冗談めかしながらそう言うと、屋台の人に『あ、二人分お願いします』と言いながら料金を渡し、コルク銃を手に取る。


「やり方だけど、まずこんな感じに銃身の横のレバーを引いて」


 一騎はコルク銃のストック部分を目の前の台の上に載っけて、ガシャって音を立てながらレバーをグリップの方向に引く。


「次にコルクを銃口に差し込んで」


 言葉通り、一騎は台の上に転がっているコルクをグリグリとコルク銃の先に嵌め込む。


「あとは、的に狙いをつけて引き鉄を引くだけ」


 一騎はコルク銃を構えて、その銃口を一杯並んでいる的の一つに向ける。


「……」


『引き鉄を引くだけ』と言っていた割には、すぐに引き鉄を引こうとはせず、木でできた的の上部に狙いを定める。

 ……狙いを決めようとする一騎の表情は真剣そのもので、『そういえば、一騎は学校の体育でも手を抜かないタイプだったな』なんてことを思い出しながら彼の顔を見ていたその時。

 バシュ。

 低く鈍い音が、銃口から響く。

 的の方に目を向けると、木の的はグラグラと揺れており、私はコルクが発射される肝心な場面を見損ねたようだった。


「あー、倒れないかー」


 一騎は笑いながら残念そうな声を出して、こちらに振り向く。


「ま、やり方は大体こんな感じ。わかった?」


「やり方は大体わかったが、玉が飛んでくところは見てなかった」


「おい」


 一騎は苦笑いを浮かべる。


「でも、まー、外したところだったし、いっか。あと二回あるし」


 一騎はコルク銃のレバーに手を当て、少し考えるようにすると、今度は台の上には置かず抱えたまま手の力だけでレバー引く。

 そして、流れるようにコルクを詰めて、銃口を先程と同じ的に向ける。

 今度も一回目と同じように数秒かけて的に狙いを定め、引き鉄を引く。

 するとコルクは勢いよく飛び、そして上手く的に当たる。

 当たった衝撃で的はグラグラと揺れているが、恐らくだが先程と同じく倒れないだろう。

 それを一騎も察したのか、まだ的は揺れているにも関わらず、コルクを撃つまでの流れを素早く行い、そして的が揺れている内にもう一度コルクを当てる。

 そうすると、的の揺れの勢いが増して、そのまま後ろに倒れた。


「よし、やった」


 一騎は明るい笑みを浮かべながら、軽くガッツポーズを取る。

 ……本当、楽しそうに笑う奴だよな。

 見ているこっちも、なんだか楽しい気分になってくる。


「ほら、次、紅音」


 一騎がコルク銃を渡してくるので、私は受け取る。

 初めてのコルク銃なので、なんとなくマジマジと見てしまいそうになるが、後ろがつっかえている。

 私は先程の一騎の見様見真似で、コルク銃のレバーを引っ張る。

 ……思ったより力が必要でビックリしたが、問題なくレバーを引き切る。

 そしてコルクを銃口に詰め、目の前の台に上体を載せながら、銃口を適当な大きさの的に向ける。


「……」


 少し考えて、視線を的の方から台の上にあるコルクに移し、それを一つ指と指の間に挟みながら、コルク銃を再び構え直す。

 そして数秒かけて的に狙いを定めると、引き鉄を引く。

 タン、とコルクと的がぶつかった音が響いたときには、私はもう第二射の準備に入っていた。

 指の間に挟んであったコルクを銃口に詰め、レバーを手前に引き、銃口を的に構える。

 それらの動作を一瞬……は言い過ぎだとしても、二秒以内で完了させる。

 そしてさっきと全く同じ位置から、流れるように引き鉄を引き、一発目のコルクで揺れ動いている的にもう一度当てる。

 すると、揺れ動いていた的は勢いよく後ろに倒れた。


「……よし」


 一騎に言った通り射的は初めてだが、上手く行くと結構嬉しいものだった。

 心の中でガッツポーズを取る。


「おー、紅音すごいな。初めてって言ってたのに、手際がめっちゃ良くてカッコよかった。映画のスナイパーみたい」


 隣に立つ一騎は軽く目を見開き、本気で感心しているかのような声を上げる。


「手にあるのは本物とは程遠いオモチャの銃だけどな」


 私は照れ隠し気味に適当にそう言って、持っていたコルク銃を台の上に置く。


「二人とも上手いねー。はい、景品」


 店員は平坦な声を出しながら、私と一騎に一つずつ何かを持たせる。

 言われるがまま景品を受け取った私達は、次の人の邪魔にならないよう、その場から数歩離れる。

 私は手の中にある景品に視線を落とす。

 そこにあったのは、数センチほどの黒い剣型のストラップだった。


「……なんだこれ」


 思ったよりもショボい……というか、これって男子小学生向けのアイテムでは?

 私が一騎の方に目を向けると、一騎もまた微妙な顔で自分の手の中を見つめていた。

 一騎の手の中にあるのは、赤い星と赤い月の二つが括られているストラップだった。


「……俺、小学生の頃も景品ショボいと思ってたけど、またかなりショボくなってるなぁ。しかもこれ、多分女の子向けのヤツだし」


 一騎は苦笑いを浮かべる。


「あ、紅音のはどんなのだった?」


「私のはこれだ」


 手の中にある黒い剣を見せる。


「うわ、これはまた……。せめて、俺のと紅音のが逆だったら、対象年齢はともかくとして性別の方は合ってたのに……。あ、そうだ。紅音、俺のと景品交換しない?そうすれば一応使えないこともないかもしれない」


「ん?あぁ、確かにそうかもな」


 一騎のその提案に私は頷き、彼に黒い剣のストラップを差し向ける。


「あと、これ」


 私は先程の射的の代金もついでに渡す。


「……あぁ、さっきの代金か」


 一騎はそう呟きながら、ストラップと百円硬貨を受け取る。


「じゃあ、ほい」


 一騎は私の方に赤い星と月のストラップを向ける。

 私は一騎に向かって手を差し出すと、一騎はそこにストラップを落とした。

 カチャリと音を立てて、ストラップが私の手の中に収まる。

 私は手を自分の胸元まで引き寄せて、手の中にあるストラップをジッと見つめる。

 ……これって、一騎からの貰い物ってことになるのかな。

 そんな事を考える。

 ……貰い物になったところで、どうということではない。

 ただ、そう考えると、なんとなくこの子供っぽいデザインのストラップが、結構可愛いもののように見えてくるから不思議だ。

 それに、赤い星と月ってなんか綺麗だし。

 私はそのストラップをスカートのポケットに仕舞いながら、顔を上げて一騎の方を見る。

 すると、一騎も先程の私と同じように手の中にあるストラップを見つめていた。


「それ、意外と気に入ったか?」


 私は一騎の顔を覗き込むようにしながら、揶揄うように問い掛ける。


「……さぁ、どうだろうな」


 一騎は照れたように小さく笑いながら、ストラップをズボンのポケットの中に突っ込むように入れる。

 そして、


「じゃあ、次のとこに回ろっか」


 一騎はいつも通り明るく、そう言った。

 だから、私は、


「うん」


 とだけ返して、小さく頷いた。





 あれから、色々回った。

 くじ引きや型抜きみたいな運試しもしたし、二人で焼きそばを食べたりもした。

 ちなみにどれも外れで、なんなら焼きそばもあんまり美味しくなかったが、祭りの喧騒の中だと――、正確には二人だと、なんとなく楽しい気分になれた。

 それと、金魚すくいも一緒にやった。

 私は小さい頃金魚すくいが結構得意で、今回も一杯取れた(ただ家では飼えないので店に返した)のだが、これまた意外なことに一騎はかなり苦手なようで、金魚を掬う半紙のアレ(名前は忘れた)を二枚もらっていたにも関わらず、どちらも一掬いで破いてしまっていた。

『うっそー……』としょげている一騎が可愛らしくておかしかったのが印象的だった。

 そして、金魚すくいは終わった今、私と一騎はわたあめの列に並んでいる。

 私が久しぶりに食べたくなって提案したのだ。


「そういや俺、初めて食べるよ、わたあめ」


 一騎は隣でボソリと呟く。


「そうなのか。……私は小さい頃、この祭りに来た時は毎回食べてたな」


「へー……。わたあめって、美味しいの?」


「美味しいというより面白い。まぁ、とりあえず食べてみろ」


 そんなこと言い合ってるうちに順番が回ってきて、私と一騎は金を払ってわたあめを受け取る。


「……どれ」


 一騎が白いわたあめを一口齧る。

 ……。


「ふわふわしてるのに、一瞬で口に溶けるのなこれ、ってかめっちゃ甘い」


 一騎は一気に感想を捲し立てる。


「確かに紅音が言った通り、美味しいかどうかというより面白いって感じ」


「だろ?」


 そう言って、私も自分のわたあめを小さく齧る。

 口の中に広がる味は、小さい頃に食べた物と全く同じで、蕩けるような濃い甘さだった。

 小さい私はこの甘さが好きで、そして久しぶりに食べた今、現在の私もこの甘みの塊が好きなようだった。


「ってか、味の方も甘くて美味しいな。甘さしかないけど、こう言う単純な甘さってのも俺は結構好き」


「私もだ」


 私は一騎の言葉に頷き、私達はわたあめを食べながら電飾に照らされた地面を歩く。

 ……さて、次はどこに行くんだろう?

 それとも、そろそろ花火の時間だから、場所確保をした方がいいのかな。

『どうしよっか』と、一騎に尋ねようとした正にその瞬間だった。


「あれ、一騎じゃん、数週間ぶり……って隣は篠川さん!?」


 目の前に知らない男子が現れた。

 いや、知らなくはない。

 名前は覚えていないが、確かクラスメイトだったはずだ。


「おー、木村どうした」


 一騎はわたあめを齧ることをやめずに、言葉を発する。

 ちなみに私も一騎の横でもぐもぐとわたあめを食べ続けていた。


「ちょっとこっち来い!」


「おい、待てって」


 木村と呼ばれたクラスメイトは一騎を腕を掴み連れて行こうとする中、一騎は私の方に振り向いて、


「あー、紅音、悪いんだけど、ちょっと待ってもらってもいいか?すぐに話終わらせる」


「わかった。待ってる」


 私はわたあめを口に咥えながら頷く。


「悪い、すぐ戻るから」


 一騎は申し訳なさそうにそう言って、木村というクラスメイトに連れて行かれた。

 ……連れて行かれたと言っても、二十メートルも離れてない距離で、全然視界の範囲内ではあるのだが。


(なぁ、一騎、お前、なんで篠川と一緒にいるんだ?)


(そりゃあ、俺が紅音を誘ったからだよ。ってかさっきのお前、めっちゃ挙動不審だったぞ)


 一騎と木村という男子の声がここまで聞こえてくる。

 ……二人とも、祭りの喧騒で私まで声が届いてないものと思っていそうだったが、幸か不幸か私は耳が良かった。

 結果的にとはいえ盗み聞きになってるのは申し訳ないので意識を二人から逸らそうとするが、私の名前が出ている……というか、話題の中心になっていそうな雰囲気があったため、どうしても意識がそちらに向いてしまう。


(だって、一騎お前、目の前に現れたのがあの絵に描いたような孤高黒髪美人こと篠川だぜ?緊張しない方がおかしい、というかいつも自然に接してる一騎の方がおかしい)


(……黒髪美人はともかくとして、孤高にはちょっと違和感あるぞ。一緒に居て楽しい奴だよ、紅音って)


(一騎、前もなんかのときにそれ言ってたけど、全然わからん。篠川って人を寄せ付けない感じがすごいし、それにあの噂があるからさ、大体の人は近付き辛いと思う)


(……あぁ、あの噂か。本人を目の前にしてんんだから、噂も何もないだろうに)


(……一騎、もしかしてちょっと怒ってる?)


(怒ってない。ただ、その噂話で紅音に偏見が持たれてるんだとしたら、気分はあまりよくない。正直、やめて欲しい)


(りょーかい。じゃ話を戻すと、お前、よく篠川誘えたな。入学したばかりのころ、篠川のあの雰囲気突破して篠川を遊びに誘った奴ってことごとく撃沈したらしいのに)


(……友達でもない奴に誘われたから断ったってだけじゃないか?割とそういう奴いると思うぞ、俺も基本そうだし)


(……まぁ言われると確かにそっか。ということはつまり、一騎はもう篠川と仲良いから誘えたと。なるほど)


(仲良いって……)


(実際、篠川が誘いに乗るのって、お前以外特に思いつかないしなー)


(……本当のとこはともかくとして、そう言われるとなんだかむず痒いな……。ってか、そういえば一つ思い出したんだけど、木村、お前今年の祭りにはピエロの格好して参加するって言ってなかったっけ?若干楽しみにしてたのに)


(楽しみにしてたのマジで?それは悪いけど、上手く材料集まんなかったんだよ、来年がんばるわ)


(おー、がんばれ。俺は横で観てる)


(来年の俺の勇姿を見ててくれ。それでお前と篠川の話に戻したいんだけど、いいか?)


(……なんでそんなに紅音との話をしたがるんだ、お前)


(俺はゴシップネタが大好きだからだ!!)


(あー、そうかい)


(それで実際どうなのよ、お前と篠川の現在の仲は)


(……お前が期待してる答えは無いぞ。だって、紅音は別に俺のことを――)


「あ、篠川、来てたんだ、久しぶりー」


 後ろから聞き覚えのある声がしたので、私は意識を一騎達の方からそちらに切り替え、そして振り返る。

 振り返った先に居たのは、声の主であるクラスメイトの山崎ひかりだった。


「あぁ、山崎、久しぶり。……山崎は一人なのか?」


 私はわたあめの最後の一口を齧りながら周りをザッと見渡すが、山崎は誰も連れてないようだった。


「あっちの方に居るんだけど、今は篠川見かけたから、抜けてきただけ。……ってか、篠川ってこういう行事に興味無いと思って誘わなかったんだけど、それは失敗だったみたいだわ。……それで、篠川は一人?それとも連れが居たりするの?」


「ああ。あそこに居る一騎と一緒に来た」


 私は少し離れた一騎の方を指差す。


「あ、月原と一緒だったんだ。……それで、隣に居んのは木村か?連れの女放って何してんだか、あいつ」


 山崎は呆れなような目を一騎達に向ける。


「で、どっちから誘ったの?やっぱり、月原の方?」


「ああ、そうだ。一騎に誘われて、それで来た」


「へぇ……。月原の奴も中々やるなぁ……」


 山崎はニヤニヤと笑いながら感心したような声を上げる。

 その直後、


「あれ、山崎か」


 いつの間にかすぐ側に来ていた一騎が意外そうな声を出していた。


「うわっ、ビックリした。いつの間に来てたの、アンタ」


「紅音が誰か知らん奴に絡まれてると思ったから慌てて来たんだよ。まぁ、実際はお前だったから良かったけど。……もしかして、話の邪魔したか?」


「大丈夫、ほぼほぼ私が一方的に絡んでただけだから」


 山崎は笑い飛ばすようにそう言って、視線を一騎の隣に立つ木村に向ける。


「ってか、木村、なんで普通の洋服着てんの?アンタが今日の祭りでピエロの格好して踊るの、そこそこ楽しみにしてたんだけど」


「え、俺のピエロがここにも需要が……?来年に期待しててくれ」


「来年も来れたらね。……んじゃ、ちょっとだけだけど久し振りに篠川と話せたし、もう待たせてる人達のとこに戻るわ」


 山崎はこちらに顔を向けたまま数歩下がる。


「篠川、じゃあねー。あとついでに月原と、ついでのついでに木村もー」


 木村の『自分の扱い酷くない!?』という叫びを無視して、山崎は元気よく手を振りながら小走りで走って行った。


「じゃ、一騎、俺もそろそろ家族のとこに戻るわ。バイビ」


 私は手を振って山崎を見送っていると、木村は一騎にそう言って、かなり勢いの乗った駆け足で去っていった。


「……そういや、木村の奴、兄弟多かったもんなぁ……」


 一騎は隣でしみじみと呟いていたが、ハッと気付いたように腕時計を見る。


「……もう花火まで時間が10分しかないな。花火がよく見える場所に移動したいんだけど、いい?」


「全然構わないぞ」


「よかった。じゃあ、俺についてきて。良い場所に案内する」




 歩いて5分。

 私達は神社近くの公園……の近くの野原に来ていた。


「ここ、結構穴場なんだよ。全く人が来ないってことはないけど、大体毎年空いてる」


 そう言って一騎は近くのフェンスに寄りかかるから、私もそんな一騎に倣ってフェンスに背中から寄りかかる。


「紅音はさ」


 一騎がフェンスに寄りかかったまま、私の方に顔を向けてくる。


「この夏休み、何して過ごしてた?」


「んー……。大体、読書と勉強だな。それと、母と伊豆に旅行してきた」


 一騎が顔をこちらに向けてくるから、私の方も顔を一騎の方に向ける。


「……へぇ。伊豆って行ったことないけど、楽しかった?」


「ああ。温泉も気持ち良かったし、海も綺麗で……。うん、楽しかったな」


「そっか。それは、良かったな」


「うん」


 私は旅行の時を思い出しながら、素直に頷く。

 ……あ。


「そういえば、饅頭のお土産買ってきたのに、持ってくるの忘れてた」


「え、俺に?」


「そうだ、一騎にだ。……日持ちは確か長かったはずだから、夏休み明けの学校で渡す」


「本当?ありがとう。楽しみにしてる」


 一騎はそう言って実に楽しそうに笑う。

 その一騎の笑顔を見た私は何故か恥ずかしくなって別の話題を探すが、幸いなことにそれはすぐに見つかった。


「……そういえば、一騎はこの夏休み、何して過ごしていたんだ?」


「俺?」


 一騎は首を捻って考えるような仕草を取る。

 その数秒後、


「……何もなかったよ。精々、勉強と筋トレと読書ぐらいで、旅行とかそういうイベントみたいなのは無かった」


 一騎は視線を私から外して、星々が輝く夜空を見上げる。


「要はまぁ……退屈な夏休みだったな」


「……そうか」


 私の声も、一騎に合わせて小さくなる。

 でも、一騎の台詞にはまだ続きがあった。


「だからさ。今日、紅音と遊べたのが、すごく楽しかった」


 一騎は独り言のようにボソリと呟く。

 実際、独り言だったのかもしれない。

 だって、彼の目は空に向けられていて、そして何より、彼の顔が無表情だったからだ。



 ヒュ〜〜。



 遠くから、空気を切るような笛の音が聞こえる。

 直後。



 ドドッン!!



 何かが破裂する音が空から響いた。

 だから私は、隣の一騎と同じく、空を見上げる。

 その夜空には、いくつもの大きな火の花が咲いていた。


「俺の都合で、紅音を誘った。俺の都合で、紅音を連れ回した。勝手だったなって思ってる」


 一騎の独り言はまだ続く。


「でも、紅音と一緒に居られて、楽しかった。お前には悪いけど、楽しかった」


「……悪くなんてないさ」


 いくつも輝いている花火の下で、私も隣の男のようにポツリと呟く。


「一騎は悪くなんてない」


 これは、独り言だ。

 隣に立つ彼がしていたような、一人で呟く想いの言葉。


「だって、嬉しかったから。誘ってもらえて、嬉しかったから。だから、一騎が悪いことなんて決してない」


 独り言だからこそ、私は想いのまま呟く。

 本心を、呟ける。



「一騎、ありがとう。一騎のおかげで、今日は本当に楽しかったよ」



 ピカッと。

 空に大量の花火が上がって、その火による光は夜空を埋め尽くす。

 その色とりどりな光の下で、私達は。


「……そっか。紅音も楽しかったか」


「うん」


「そっか。良かった」


 彼は囁くように、柔らかい声色でそう呟く。

 そして、最後にこう言った。


「紅音、ありがとう」


 ……。

 ……なんとなく、私は空から目を離して、隣で空を見ているはずの一騎の方に顔を向ける。

 すると、何故か一騎も私の方を見ていた。

 こちらを見ている一騎の顔は、先程までの無表情ではなく、優しい笑顔だった。

 だが、私に『それ』を見られたことに驚いてか、一騎は一瞬目を丸くした後、笑みの種類を照れたもの変えて、再び顔を空の方に向けた。

 だから私も、彼と同じように夜空を見上げた。



 もうどちらも独り言を呟くことはない。

 私達は、無言で夜空を彩る花火を見つめ続けた。





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