過去編 紅音の思い出3
過去編 紅音の思い出3
1976年7月
1
それは偶然だった。
私、篠川紅音は部活に所属してないため、普段は授業とホームルームが終わったらすぐに帰宅している。
ただ、今日はテスト勉強に必要なノートを机の中に置き忘れてしまったため、そのノートを取りに教室に戻っただけだ。
だから、本当に偶然だったのだ。
「ねー、篠川の奴さぁ、鬱陶しくない?」
そんなクラスメイトの甲高い声を、ドアの向こうから聞く羽目になったのは。
声の主が誰かはわからない。
でも声の感じからして女子だということはわかり、それに続く幾つかの『そうそう』『私も同じこと思ってた』という同意の声も女子のものだった。
「……」
私は溜め息を吐きたい気分になりながら、ドアの取っ手にかけていた手を離す。
私はスライド式のドアに背中を付けて寄り掛かりながら、続きの言葉を聞く。
曰く、私は周りを見下していて。
曰く、私は男に媚びていて。
曰く、私は居るだけで空気が悪くなるそうだ。
……呆れてものも言えないとは、このことだろう。
心の中でさえ怒る気になれない。
大体、私は人とあまり話さないのだから周りを見下しようがないし、本当に男に媚びているのならクラスメイトに対してもっと愛想良くする……というか、彼氏ぐらい作ろうとするだろう。
最後のに関しては、『そんなの私が知るか』っていう話だ。
……心の内でつい反論してしまってる辺り、自覚が無いだけで多少怒りを覚えているのかもしれない。
そんなことを考えてる最中も教室では私への陰口が続いている。
私は呆れながら、ドアから背中を離す。
最初は揉め事を避けたくて、陰口が終わるまで待とうかとも思ったが、二分でもう面倒に感じた。
だから、教室にとっとと入って、忘れ物を回収して早く帰ろう。
『もしかしたら揉めるかもしれないが、そんなこと知ったことか』と、若干ささくれ立った気分で、教室に入ろうと体をドアの方に向ける。
そして、ドアを開けようと取っ手に手を伸ばす。
正に、その瞬間だった。
「ねぇ、月原もそう思わない?」
取っ手に向かって伸ばしていた手が、氷のように固まった。
……今は、放課後になってからもう一時間以上経っており、教室に居るのは先程から声が聞こえた女子数人だけだと、私はそう思っていた。
そこに月原一騎がいるなんて、考えもしなかった。
――入学してからのこの三ヶ月、私は何度も月原と会話をした。
『昨日のテレビは何を観たのか』、とか。
『登校途中の道端で見かけた犬が可愛かった』、とか。
『直前に受けた授業の小テストが難しくて嫌だった』、とか。
そんな、重要な内容ではない他愛のないお喋りを、何度もしてきた。
元来私はあまり話す方じゃなかったけど、月原に釣られて私もつい話していて、つい笑ってしまっていた。
恥ずかしいからあまり自覚したくなかったが、この三ヶ月の間で『もしかしたら、自分は隣のクラスメイトと仲良いのかな』と思うようになっていた。
でも、それは勘違いだろうなとも考えていた。
私から見てまともに話せる相手が月原ぐらいしか居ないからそう思うだけで、色んな人といつも笑い合ってる月原からすれば『面倒な奴』ぐらいに思われてるかもと、そんな風に考えていた。
彼が私に話しかけてくるのはみんなに好かれる人気者らしい親切心で、それ以上の意味は無いんだろうと、そう本気で考えていたのだ。
そして今、教室では私の陰口で盛り上がっている。
つまり、今の教室の中はいわゆる『そういう場』と化していた。
――『そういう場』で、クラスの人気者が居た場合、その者は一体どうするだろうか。
――みんなの気持ちを汲み取って、クラスという場所でみんなから好かれる言動を取っていた彼は、今この場で一体どう返事をするのか。
「……っ」
心臓の音が、胸の所からうるさく響く。
吐息の音が、口の所からうるさく響く。
なにもかもがうるさくて、さっきまで気にしてすらいなかった蝉の鳴き声さえ、大きな音となって頭の中で煩く響く。
……さっきまでは、『ちょっと苛立ってる』程度だったのに、今の私は自分でも信じられないぐらい動揺している。
なぜか逃げ出したい衝動に駆られたが、私の足は前にも後ろにも動かない。
そんな私を見る者は誰もおらず、だから躊躇うことなく、窓ガラスすらついてない真っ白なドアの向こうから、純粋な『答え』が突きつけられる。
教室内に居る彼の口から放たれるその『答え』は、
「――はぁ?」
これ以上ないほど、純粋な、『怒り』だった。
「あのさ。黙って聞いてりゃあ、さっきからお前ら、何言ってんの?」
知ってる声だ。
この三ヶ月で、何度も何度も聞いた声だ。
だけどその声色は、知り合ってから今までの間で初めてのものだった。
「陰でアイツに対して、くだらなくてテキトーなこと言ってんじゃねぇよ。それだけでも十分苛つくってんのに、俺に同意を求めてくるとか、ふざけてんのか?」
彼のこんな乱暴な口調、初めて聞いた。
いつもにこやかに笑ってる彼とは、あまりにもかけ離れている。
「な、なに、本気になってんだよ。こんなのちょっとした冗談じゃん」
普段とは明らかに違う彼に驚いたのか、女子の動揺混じりながらも明るく振る舞っている声が聞こえる。
声と言葉を明るくすることで、少しでも場の流れを軽くしてこの場から切り抜けようとしているのだろう。
しかし、
「冗談だとしたら、すごくつまらない。お前、センス無いよ」
彼はそれに取り合わなかった。
「……っ!月原、つまらないのはお前じゃん。そんなに篠川を庇うのって、お前、篠川のこと好きなの!?」
小学生レベルのくだらない返し。
それに対して、彼は、
「だったら、何?」
「……え?」
「俺が篠川のことを好きだったとして、それがお前に関係あんの?お前が……お前らが、くだらない陰口を叩いていたことと、何か関係あるの?ふざけんな」
「……ッ!」
中の様子を見れない。
だけど、女子達の絶句した様子は、ドアの外にまで伝わってきた。
「……月原、お前、いつもは楽しい奴なのに、なんでこんなことでキレてんの?頭どうかしてんじゃない?」
「なんでって、そんなの当たり前のことだろ」
女子の声が動揺から責めるものに変わる。
しかし、彼の声には、それ以上の憤りが込められていた。
「友達が馬鹿にされたんだ。怒るに決まってるだろうが」
……。
……私はドアに背を向けて、天井を見上げる。
『私への陰口に賛同するのではないか』と、一瞬でも彼を疑ってしまった自分を恥じながら、天を仰ぐ。
でも、その羞恥と自己嫌悪以上に、私が感じていたのは――
「……月原、お前、今日のことは絶対に忘れないからな。覚えてろよ」
「好きにしろ。ただ、俺はお前のことなんて一秒だって覚えてたくねぇけどな」
「……っ!あっそ!」
顔もわからない女子の、忌々しそうな声が廊下にまで響く。
「つまんない。もう行こ!」
その言葉聞いて私は、出てきた人達とぶつからないよう、ドアから数歩距離を取る。
その直後、勢いよくドアが開けられた。
「あっ」
目の前にいる女子は、驚きで目を見開いている。
憎々しげに顔を歪めると、取り巻き二人を連れて無言で立ち去った。
私はそれを横目で見ながら、『クラスメイトなのは薄っすら覚えてるけど、顔見ても名前思い出せなかったな』なんてどうでもいいことを考えていた。
「……」
私は、目の前の開いたドアの向こう側に足を踏み入れて、ある一点をジッと見つめる。
見慣れた彼の、見慣れない表情を見つめる。
いつも笑ってる彼に、こんな一面があるとは思わなかった。
夕日に照らされ、いつもとは違う真剣な表情を浮かべる彼の横顔から、何故か私は目を離せなかった。
「なぁ、お前、まだ俺に用が……」
彼は――月原は、教室に入った私をさっきの女子が戻ってきたのかと勘違いしたのか、苛立ち混じりの声を上げかける。
だが、月原が自分の顔を私の方に向けたのと同時に、彼の動きの全てが止まった。
「――え?」
月原は呆然とした顔を浮かべる。
私がここに居るなんて、思いもしなかったんだろう。
驚いてる月原の顔は、さっきまでの真剣な顔とは真反対な間抜けさで、本人には申し訳ないと思いつつも、つい笑ってしまった。
そんな私を見て何を思ったのか、月原は頭を抱えながら机に突っ伏した。
「……あの、さっきの話、聞いてた?」
月原は額を机に当てながら、質問を投げかけてくる。
だから私は、素直に答えることにする。
「月原が何を言いたいかはわからないが、少なくとも月原が『はぁ?あのさ。さっきから、お前ら、何言ってるの?』って言った所からはちゃんと聞いてた」
ガン!っと、月原の額が机に当たる音が響く。
顔は伏せてるから今の月原の表情はわからないが、耳はかなり赤くなっていた。
そして、
「恥っっっっず………」
机の上から、今にも消え入りそうな声が聴こえてきた。
それがなんだかおかしくて、遂に私は耐え切れず、
「ふふ」
と、少しだけ声に出して笑ってしまった。
……とうとう机の上の月原は何も反応することなく、体を固めてしまっている。
なんだか申し訳なくなってきたので、私は話題を少し変えることにする。
「そういえば、『さっきの話を聞いていたか』って質問だが、それを『どこから聞いていたか』に置き換えるのなら、正確には丁度アイツらが私の陰口を言い始めてたときからだ。忘れ物を取りに来たら、私の陰口の言い合いになっていたから、少し驚いたぞ」
「……」
月原は突っ伏すのをやめて顔を上げる。
なぜか持ち上げられたその顔には、複雑な表情が浮かんでいた。
「……悪い」
「え?」
今、なんで月原は謝ったんだ?
私は今までのやり取りを振り返ってみるが、月原に謝られる心当たりが一つも思いつかない。
『私の聞き間違いだったのだろうか』と、そんなことまで思ってしまう。
そんな事を考えている中、答えはすぐ本人によってもたらされた。
「……自分の陰口なんか聞くと、気分悪くなるよな。お前が居ないと思ってたから、最初は揉めたくなくて、アイツらをすぐには止めなかった。だから、ごめん」
「……」
私は目を見開く。
そんなの、全然謝るようなことじゃない。
むしろ。
「止めなくて、当たり前だ。月原は我慢できる大人な奴なのは、私も知ってるからな。少し嫌な思いした程度で怒ってたらしょうがないから、最初は我慢してたってことなんだろ。だから、気にしないでくれ」
……本当は『気にしないでくれ』と偉そうなことを言える立場ではないと思ったけれど、月原は本気で罪悪感を覚えてそうだったから、敢えて明るくそう言った。
「そう言ってもらえると、助かる……」
「でも、最終的には怒っていたな。お前は大人な奴なのに」
私は月原の方に近付いて、月原の隣の席……つまり私の席に座る。
そして、私は月原のすぐ近くで言葉を紡ぐ。
あの廊下で感じていた、自己嫌悪や羞恥よりも強いこの感情を。
真っ直ぐ目を合わせて、はっきりと告げる。
「庇ってくれて、私のことで怒ってくれて、すごく嬉しかった。ありがとう」
……いつもの私だったら、こんなこと恥ずかしくて絶対に口には出せないだろう。
それでも、月原の怒りが――本物の感情が、嬉しかったから。
そんな彼の感情に、私も本物の感情で応えたくなったのだ。
「……!」
私のその感情を受けた月原は言葉を詰まらせて、顔を思いっきり紅潮させる。
頬だけでなく、耳までかなり赤くなってる。
……まさか、月原がここまで照れるとは思ってなかった。
私もなんだか気恥ずかしくなり、顔の辺りが熱くなっていくのを感じる。
でも、ここで目を逸らしたらなんか負けな気がするので、私は月原から視線を外さない。
「あのさ」
そんなよくわからない睨めっこ状態になってる中、月原は顔を赤くしたまま言葉を発する。
「ん?」
「いきなり話が変わって悪いんだけど、お前のことさ、これからは下の名前で呼んでもいいか?」
「……なぜだ?」
私は考え無しに、思ったことをそのまま口に出してしまう。
「なぜ?なぜ、なぜ……あー、ほら、篠川の名字って四文字じゃん?下の文字は三文字だから、その方が呼びやすいかなって」
「たった一文字だぞ」
「まぁ、そうなんだけどさ。……ダメか?」
「……いや、そんなことない。別にダメじゃないぞ」
私の声が、なぜか小さくなる。
そんな私の言葉を聞いて月原は、
「そっか。ダメじゃないんだ」
嬉しそうな、いつもの見慣れた笑みを浮かべていた。
……
「ただ、その代わり、と言うのは何だが、私もお前のことを下の名前で呼んでいいか?ほら、お前も下の名前の方が短いしな」
……私は一体何を言っているんだろう。
気付いたら私は、月原が言っていたのと同じことを口にしていた。
「下の名前で全然良いよ。しの……紅音の好きな呼び方で呼んでくれ」
「……ああ。では、好きなように呼ばせてもらうぞ、一騎」
月原、ではなく、一騎に下の名前で呼ばれるのはどこか新鮮で、少し返答が遅れてしまった。
そんな私の言葉を受けた一騎は、私と違っていつも通りに笑みを保ったまま鞄を片手で持って立ち上がり、
「なぁ紅音、これから一緒に帰らないか?もう帰るところなんだろ?」
「ああ、別に良いぞ。ただ、ちょっとだけ待ってくれ」
私は机の中に置き忘れていたノートを鞄の中にしまって、鞄を持って立ち上がる。
「もういいぞ」
「そっか。じゃあ、帰ろっか」
「ああ」
私は一騎の後ろに続く形で教室のドアを通り抜け、二人で教室を後にする。
『そういえば、一緒に帰るのはこれで初めてだったな』なんてことを考えながら、私は一騎の隣に並んだ。
――煩かった蝉の鳴き声は、いつの間にかもう止んでいた。
2
「そういえば、一騎はこんな時間まで何してたんだ?」
夕焼けで赤くなった道路を二人並んで歩いてる中、私はそう一騎に問いかけた。
「ん?ああ、部活に行ってて、こんな時間になった」
「?部活にしては早くないか?さっき、昇降口から出た時、グラウンドの方から掛け声みたいなのが聞こえてたぞ」
確か、野球部とかの人達が走り込みをやっていたはずだ。
「運動部はそうかもだけど、俺のとこは文化系だから、運動部よりは上がり早いよ。しかも部員が三人しか居ないから、時間とかかなり適当だし」
「そんなものなのか。私は部活に所属したことないから、遅くまで走ってる運動部のイメージで部活はどれも遅くまでやるものかと思ってた。……確か、一騎が所属してたのって、将棋部だったよな?」
以前聞いた話だと、中学まではサッカー部だったらしいのだが、色々規則厳しくて嫌だったので、高校では文化系にしたとのことだった。
もしかしたら『規則が厳しくて嫌』云々には、時間的拘束の意味合いもあったのかもしれない。
「ああ。んでその将棋部で今日は部長と二局オセロやって、一勝一敗で帰ることにしたって感じ」
「……将棋部なのにオセロやってるのはツッコミどころか?」
「ツッコミどころだと俺は思ってる。というか部活見学したとき、先輩達が堂々と囲碁やってたから、俺ついツッコんじゃったよ」
一騎はクスクスと、思い出し笑いを上げる。
「まぁ、そんな緩いところだから入ったんだけど。その手のゲーム好きだったし、気楽に参加できるのが良いなって」
「ふぅん……。よくわからないが、なんだか楽しそうだな」
「実際楽しいよ。ただ、一つだけ困ったことがあるけど」
そこで一騎は遠い目をするものだから、私は首を傾げる。
「何か、悩みでもあるのか?」
「悩みってほどじゃないんだけど、俺以外の部員は先輩二人で、入部して一ヶ月後ぐらいに知ったんだけど、その二人って付き合ってるんだよ」
「あー……」
三人しか居ない部活で、一組の先輩カップルと一緒に部活動を行う。
……少し考えただけでも、私なら居心地悪く感じてしまうだろう。
「先輩達優しいから、大丈夫なんだけど、『あれ、これって、俺が邪魔になってる?』って思っちゃって、先に帰っちゃうんだよな。そもそも、将棋部で奇数だと一人余るし」
「なるほど、確かにな」
一人余るということは、一騎は先輩カップルが対局してるのを観ているか、先輩カップルの片方と対局しながらもう片方に観られるということになるのか。
……私だったら、すぐ幽霊部員になってしまいそうだ。
「ま、なんだかんだで先輩二人と遊んでるのは楽しいし、部室隠れて覗いて二人の様子見た時も将棋とかオセロ打ってるだけだから、俺が居ても大丈夫だって信じてる。とはいえ、一人余りなのには変わらないし、だからさー……」
そこでいきなり一騎はセリフ途切れさせるから、私は首を捻る。
「?どうした?」
「あー、いや……お、あそこにいる犬、可愛いな」
……ちょっと急な話題転換だと思ったが、別に先の話を続けたいわけではないので、私は一騎の話に乗ることにする。
というか、一騎の目がかなり輝いてる辺り、話題を変えたかった以上に今現れた犬が本気で気になったのだろう。
この前も道端の野犬の話を楽しそうにしてたし、一騎は犬が好きなのかもしれない。
そんなことを考えながら、彼が顔を向けてる方向に視線をやると、白い毛に茶色の毛が混ざった柴犬が荒く息を吐きながらつぶらな瞳でこちらをジッと見ていた。
「あの犬は私も見たことがある。たまにこの辺で見かけるけど、確かに可愛いよな。人懐っこいし」
私はスカートが道路に擦らないよう押さえながらしゃがみ込み、犬の方に向けて手招きする。
すると、犬はパタパタと尻尾を振って私の元まで走ってきた。
「よしよし」
近付いてきた犬の顎をカリカリと掻くと、その犬は気持ち良さそうに目を細めた。
そのあとそのまま私は、犬の頭を優しく撫でる。
「最近、こういう野犬って減ってきたよな。……あ、そういえば、一騎が前に言ってた犬ってこの犬だったりするのか?」
「……」
「?」
いきなり無言になった一騎を不思議に思い、私は犬から視線を外し一騎を見上げる。
すると、何故か一騎は数秒前の明るい表情から一転、なんとも言えない微妙な顔で犬を見ていた。
「どうした?」
私はストレートに尋ねる。
すると、なんだか悲しそうな声で、
「……その犬、人にそんな懐くことあるんだ……」
と呟くものだから、過去に何が起きたのかなんだか察しがついてしまう。
(まぁ、噛まれたか逃げられでもしたんだろうな)
私は犬の耳を軽く掻きながら、
「お前も触ってみたらどうだ?私のようにすれば、多分大丈夫だぞ」
「そうかな?」
今の一騎の表情は、『また逃げられたりしないか不安な気持ちもあるけど、触りたい気持ちもすごくある』ってことがありありと伝わってくるものだった。
「何か、気をつけなきゃならないこととかある?」
「うーん……。あまり思い付かないが、敢えて言うとするなら、触るときになるべく力を入れない方が良いかな。『これぐらいで大丈夫だろう』と思っても意外と力が強くなっちゃうことがあるから、それより更に力を抜けば、問題なく触って可愛いがれると思うぞ」
「そう?……じゃあ、紅音の言う通りにやってみる」
一騎も私と同じにように屈み、恐る恐るといった感じに手を伸ばす。
一騎の手が、毛が靡く犬の背中に触れ、そして優しく動く。
「おお……」
一騎の口から、新大陸を発見した探検家のような声が発せられる。
瞬く間で夢中になってる一騎が犬と触れ合いやすくなるよう、私は少し横にズレる。
その直後一騎は犬の頭を撫でながら、
「おお、おお………」
なんか唸り声ようなものを上げていた。
心の底から楽しんでるようだった。
「俺、こんな風に犬に触れたの初めてだよ……。いつも近付いただけで逃げられるし……」
……触れないだけじゃなくて、近付くことすらできなかったのか。
犬割と好きそうなのに、可哀想な奴……。
「あ」
一騎に撫でられていた犬は急に体をふるふると震わせると、そのまま勢いよくどこかに向かって走って行った。
……まぁ、野良だし、そんなもんだろう。
私はちょっぴりがっかりしていたが、初めて犬を愛でれたらしい一騎は満足したようで、
「めちゃくちゃ良かった……。毛の肌触りが癒されるし、つぶらな瞳が可愛いしで、本当良かった……」
一騎は体を屈めたまま頭を垂れ、そんなことをしみじみと呟く。
「それは、良かったな」
私はそう言いながら立ち上がり、未だに屈んでいる一騎に反射的に手を伸ばそうとして……すぐに引っ込めた。
……いくらなんでも、馴れ馴れし過ぎるだろう。
一騎がこっちを向いてなくて良かった。
「あ、そういえば」
一騎はそんな私に気付かず、一人でゆっくりと立ち上がる。
そしてそのまま、私達二人は特に示し合わすこともなくゆっくりと歩き出す。
「さっきの犬知ってるってことは、もしかして紅音の家ってこの辺だったりすんの?」
「ああ、そうだぞ。お前の家から歩いて数分ぐらいしか離れてない」
「なるほど。どおりで、さっきから帰り道が結構な距離で被ってたわけだ。登校時間が違うから知らなかった」
「まぁ、私もお前の家に行くまでは知らなかったな」
「そういやお前、プリント届けに俺ん家に来てくれたんだよな……。あれ、なんか急に恥ずかしくなってきた。あん時、俺ボーっとしてたし、なんか変なこと言ってたりしてないよな……?」
「さぁ、どうだろうな?」
プリントを届けた際、一騎は具合が悪そうであったとはいえ、別にそんな変なことを言ってなかったような気がしたが、恥ずかしがる一騎がちょっと可愛かったので、つい私は揶揄うようなことを口にしてしまう。
そんなことを話してる間に、私達は交差点に辿り着く。
「あ、私はこっちだ」
私は右側の方を指で差す。
一騎の家への道は、確かこのまま真っ直ぐだったはずだ。
「そうなんだ。……暗くなる前に、家に辿り着けそうか?」
学校を出たときからもう三十分以上経っており、夕日はほとんど落ちかけていた。
「ここから二、三分で着くから大丈夫。心配してくれて、ありがとう」
「そっか。なら、良かった」
そう言って、一騎は一歩前に踏み出し、
「今日は紅音と一緒に帰れて楽しかった。じゃあ、また明日な」
こっちに向けて大きく手を振った。
だから、私も、
「ああ、また明日」
小さく手を振って、一騎とは別の方向に歩き出した。
「……『一緒に帰れて楽しかった』、か」
私は一人で歩きながら、さっきの一騎の言葉を反芻する。
『誰かと一緒に帰る』。
よく耳にする『それ』は、私にはよくわからない感覚だった。
用があるなら学校に残るし、用が無ければ一人で家に帰る。
放課後に誰かと喋って、誰かと一緒に帰るなんて、自分には縁のないことだと思っていた。
なのに、今日は放課後の教室で一騎と喋り、そしてそのまま一騎と一緒に帰った。
初めて体験するその時間は、決して悪くないものだった。
だから、先の一騎の言葉に対する私の返事はこうだった。
「私も楽しかったよ、一騎」
それに、あの時庇ってもらえて、嬉しかった。
そんな言葉と想いはどこにも届かず、私は一人ゆっくりと家に向かって足を進めた。