過去編 紅音の思い出2
過去編 紅音の思い出2
1976年6月
1
高校に入学してから二ヶ月経ったある日。
私、篠川紅音が窓からぼんやりと外を見ていたところに、隣の席の男が話しかけてきた。
そんな、最早日常となってきたその光景の中で、月原一騎が口にした内容は、
「そういえば、篠川、今日遅刻してたけど、朝の木村の奴見たか?アイツ、白粉で登校して来てめっちゃくちゃ面白かったぞ。そっこーで先生にキレられて落とされてたけど」
「いや、そんな芸人みたいなクラスメイトは見てないな」
というか、そんな変わり者がクラスに居るのか。
周りのことをあまりよく見てないから知らなかったが、目の前の月原一騎を含めてうちのクラスには変人が多いのかもしれない。
……もしかしたら、クラスから浮いて無言で窓際に座っている私もその類にカウントされるかもしれないが、気付かなかったことにする。
ただ、そんなことよりも、
「月原、お前どこか調子が悪いのか?いつもより少し元気が無い気がするが」
目の前のクラスメイトの様子が気になった。
……別に、月原の言動におかしなところがあったわけではない。
クラスの人達の手助けをしたり、授業の合間に隣の席の私に話しかけたりと、いつも通りのお人好しの月原だ。
それなのに、なぜか少し空元気なように私は感じた。
「……」
月原は私の言葉に目を見開いて固まる。
月原が黙ってこっちを見つめるものだから、私も月原の方を見つめてしまう。
……もしかして。
「違うなら、違うでいいんだぞ」
「あ、いやそうじゃなくて、言い当てられててたのをビックリしてただけ。……なんでわかった?そんなわかりやすかったか?」
「いや、わかりやすくは全然なかったぞ。ただ、理由か。そうだな……」
私は顎に手を当てて考える。
考えてみると、答えは割とすぐ見つかった。
「目だ」
「……目がどうかしたか?」
「ほら、お前も前に言っていただろ。『目は口ほどものを言う』って。月原も目が大きいから、なんとなくそこから感情が伝わりやすい。それで、いつもより元気が無いと感じた。……で、お前、大丈夫なのか?体調が悪いなら、保健室行くか?」
「……いや」
月原は笑みを浮かべなら首を振る。
その笑顔は、不思議と今日の中で一番明るい笑顔な気がした。
「確かに少し体調悪い気がするけど、そこまでじゃない。ゆっくりしてれば大丈夫」
「だったら良いが……。今日はあまり無理はするなよ?今は大丈夫でも、更に悪くなることだってあるかもしれない」
「わかってる。心配してくれて、ありがとう」
そう言って、月原はニッコリと笑った。
……心無しか、月原はいつもの調子に戻ったような気がする。
だから、私も、
「……別に心配したわけじゃない。ただ、当然のことを言っただけだ」
「そっか。そうだとしても、ありがと」
「……」
私は、屈託の無い月原の笑顔と言葉にどう反応したらいいかわからず、無言で固まってしまう。
数秒経ち、なんとも言えない雰囲気になりかけたところで。
「ほら、授業始めるから、立ってる奴席につけー」
黒板の前に立つ教師が、手を叩きながらそんなことを言い出した。
「あ、そういや、次の英語の授業、小テストじゃん」
月原はため息混じりの声を出して、頭を垂れる。
少々オーバーなリアクションだが、月原が英語が苦手なのは知っていたし、表情を覗き見ると割と本気で嫌がってるのがわかる。
それにしても、小テスト程度でここまで嫌な顔するか?
そんな月原の様子がなんだかおかしくて、
「残念だったな」
私は小さく笑みを浮かべた。
2
月原が調子悪そうにしていた、その次の日。
月原の奴は、体調不良で学校を休んでいた。
「……」
クラスの喧騒の中で私は無言で隣の席を見る。
……昨日の時点で気付いていたのだから、何かしらやりようがあったかもしれないけど、どうしようもなかった気もする。
『お大事に』ぐらいは言っておきたい気持ちはあるが、そんなことわざわざ電話をしてまで言うほどの仲ではないし、第一迷惑だろう。
……というか、それにしても今日は普段より周りが騒がしい気がする。
いつもこんなにうるさかっただろうか?
そう心の中で首を傾げる。
今日クラスで変わったイベントなどは私が知る限りは特に無く、いつもと違うところは月原が休んだことぐらいだが、これは静かになる要因であってうるさくなる要因ではないはずだ。
考えても理由はわからなかったが、心無し周囲が騒々しいことには変わりない。普段一人きりだろうが気にしない私だけれども、流石にクラス中の人達がお喋りしてる中で一人黙っているのは居心地が――。
……あぁ、そうか。
周りがいつもよりうるさく感じるのは、みんなが雑談するような時間にはいつも、隣の席の男と話していたからか。
……別に、一人でいることは嫌いじゃない。
ただそれでも、周りが元気に騒いでいるときに一人で黙っているのは、何か置いていかれたような気分になる。
その感覚を、高校入学してからは久しく忘れていた。
だからか、今はその孤立感が高校入学以前よりも強く感じた。
そうなった理由は、間違いなく。
……。
「……お人好し」
窓の外を見ながら一人小さく呟く。
『こんな寂しい女、放っておけばいいのに』と思ったが、なぜかそれは独り言でさえ口にする気にはなれなかった。
3
「篠川、お前、月原と仲良かったよな?」
帰りのホームルームが終わった後、担任は私を教卓まで呼び付けると何故かそんなよくわからないことを言い出した。
「……まぁ」
正直、月原との仲は悪くは無いが特別良いわけではない……正確に言うと月原はクラスの誰ともよく喋り、その中に私もいるというだけだ。
だが、そんなこと、わざわざ口にすることでは無いのは明らかだったから、私は担任の言葉に曖昧に頷いた。
「じゃあ、今日配られたプリント数枚、月原の家に届けてくれないか?お前の家、月原ん家に近いし」
「……そうなんですか?」
登校時間も帰宅時間も被ってなかったから、知らなかった。
というか、月原とは小中は違う学校だったのだから、家は近くないはずだが……。
「知らないのか。まぁ、そんなこともあるかと思って地図も書いてきたけどな。ほい」
私は地図を受け取り、その地図をジッと見る。
……なるほど。
地図上で私と月原の家の距離は近く、歩いて数分程度の距離だが、家と家の間に丁度区の境がある。そのため、小中の学区が違っていたという話なんだろう。
というか、地図が作られてる辺り、私に拒否権は無いようだった。
「じゃあ、任せたぞ」
担任はそう言って、返事も聞かずに、私にプリントの束を渡してきた。
4
「……」
私は地図を見ながら路地を歩く。
ただ、見なくても大体の場所はわかっていた。
なぜなら、
「前から大きい家だと思っていたが、ここ、月原の家だったのか……」
地図に示されている目的地に辿り着いた私の目の前には、数十メートルの塀に囲われた大きな屋敷があった。
……念のため表札を確認してみると、確かに『月原』と書いてあり、ここが月原の家で間違いなさそうだ。
門にはインターホンがついてなかったので、扉を開けて玄関まで足を進める。
「それにしても本当広いな……」
門から玄関まで十メートル以上はありそうだ。
私は玄関まで辿り着くと、脇にあるインターホンを押した。
玄関の扉の向こうからチャイムの音が響き、私は庭を眺めながら月原の家族が出てくるのを待つ。
……。
三十秒ぐらい経った頃。
「はい、どちら様ですか?」
若い男の声……というか、聞き覚えのある声が扉の向こうから聞こえてきた。
だけど、家族なら彼と声が似ているだけの可能性だってある。だから私は、
「月原一騎君のクラスメイトの篠川紅音です。担任から頼まれて、プリントを持ってきました」
「え?篠川?」
バッと扉が開けられる。
扉の向こうには、制服じゃなくスウェット姿の月原が居た。
その姿を見て私は、
「お前、大丈夫か……?」
驚きながら、月原の真っ青な顔をジッと見つめた。
月原は私の言葉受けて『大丈夫』とでも言いたいかのように曖昧な笑顔を浮かべるが、いつもより覇気がないし、壁に手をつく月原の姿は立っていることすら辛そうだった。
明らかに、体調がかなり悪い。
てっきり、月原らしき声が扉の向こうから聞こえたから『ああ、玄関に出て来れるぐらいは回復したのか』と思っていたのだが、それは間違いだったようだ。
ただ、なんでそんな弱ってる月原が玄関まで来たのだろうか。
そう疑問に思った私はつい、
「……家族は?」
「居ない。俺一人」
月原はなんでもないことのように答える。
……今丁度、家族の人は外出しているということなのだろうか。
他にも嫌な想像がいくつか頭を掠めたが、そんな勝手な想像は月原に対して失礼だと思って、思考を無理矢理止める。
「あ、それがプリント?」
月原は私の手の中にあるプリントを指差す。
「あ、ああ。これだ」
「?ありがとう」
なぜか私は動揺しながら、月原にプリントを渡す。
彼はそんな私を少し訝しんだようだが、気のせいだと思ったのか、何も言わずにプリントの束を下駄箱の上に置いた。
その動きもどこか緩慢としていて、そんな所からも月原がいつもの調子とは程遠いことが見て取れた。
だから、私はつい、
「何か、して欲しいこととかあるか?」
「え?」
月原が素っ頓狂な声を上げる。
それを無視して私は、
「薬を買ってきて欲しいとか、飯の調達をして欲しいとか、看病とか、まぁそういうのだ。今のお前では、色々面倒だろう」
……私はそう口にしながらも、『余計なお世話だろうな』と思っていた。
ただ、それでも助けになれるのなら助けになりたいとも思った。
……月原はクラスの人気者で、クラスメイトから良く頼られている姿はしょっちゅう見る。
でも、月原が誰かを頼った姿は見た覚えがない。
私は勝手に、月原のことを『人を頼るのが苦手な人なのかな』と思っていた。
そんな月原だから、もしかしたら『助けて欲しい』とは言えずに無理しているのかもしれないと、そう思ってしまった。
だから、私は『何かして欲しいことあるか?』と尋ねた。
……想像が全て間違いで、私の見当違いだとしても、私が少し恥をかくだけだ。
ただ、それで不快に感じられたのだとしたら、申し訳ないと思う。
そんな私の、余計なお世話な申し出を受けた月原は、
「……はは」
なぜか、楽しそうに笑った。
そして、
「心配してくれて、ありがとう。でも、大丈夫。見た目ほど悪くないんだ。いつものことだし」
「……いつものお前は、そんなに青ざめてない」
「あぁ、言い方が正しくなかったな。俺、一年に一回ぐらいこういう体調の崩し方するんだよ。頭痛くて体全身がだるくなって、ちょっと気持ち悪くなる感じの。でも、毎年丸一日寝て次の日には治ってる。だから、本当に大丈夫」
「無理、してるわけじゃないのか?」
「マジで無理してるなら、篠川の好意を無碍になんてしないよ。正直に言うと、めちゃくちゃ嬉しかったし。でも、見た目ほど大したことないってことを経験上知ってるから、それなのになんかしてもらうのは罪悪感が強いってだけ」
「……そうか」
そこまで言われては、引くしかない。
それに、病人をずっと立たせっぱなしにするのは明らかに良くない。
「では、私は帰る。……体、ゆっくり休ませろよ」
そう言って、私は体の向きを変え帰ろうとしたその時、
「ああ、ゆっくり休む。だから、篠川。また明日な」
「……」
月原がそんなことを言うものだから、私は門に向かうとした足を止めて顔だけ僅かに振り返る。
そして、
「ああ。またな」
素っ気なく、でも確かにそう返事をした。
5
月原の家にプリントを届けた、その次の日の朝。
私はいつも通り寝坊で遅刻し、廊下を歩いていると、
「あ、篠川。おはよ」
元気に大きな書類の山を抱える月原と遭遇した。
昨日と違ってしっかりと二本の脚で立てれているし、顔色もかなり良い。
月原が言った通り、本当に一日で治ったようだった。
「おはよう。……もう具合は大丈夫か?」
「お陰様でもう大丈夫。今はもう元気だ。ってか、昨日はわざわざ家まで届けてくれてありがとな」
「別にあれぐらい大したことじゃない」
……確かにそんな大したことではないが、なんで私は素直に『どういたしまして』って言えないのだろうか。
というか、
「月原、その抱えている書類の山はなんだ?」
「ああ、これな。よくわからないんだけど、担任に職員室まで運ぶように頼まれたんだよ」
その月原の答えを聞いた私は、担任に対し『病み上がりにそんな頼み事するもんじゃないだろう』と心の中で愚痴る。
というか、あの担任、昨日の私にもそうだったが、生徒に対して気軽に物を頼み過ぎじゃないか?
そんなことを考えながら、私は手で持っていた学生鞄を肩に引っ掛けて、
「その書類、半分寄越せ。全部は難しいだろうが、半分くらいなら私も持つ」
「え?いいよ。篠川、学校に来たばかりだろ?」
「それを言うならお前は病み上がりだ。もし遠慮の類だったらしなくていい。昨日のお前を見たら、放っておけないからな」
「……そっか」
月原はどこか嬉しそうに笑って、
「じゃあ、遠慮するのやめる。篠川、悪いんだけど、少しだけ持ってくれない?正直、重くて辛い」
「見てるだけで重そうだなって思ってたんだ。任せろ」
私は月原の前に重なってる荷物の山から半分近く取ろうとする。
「あ、三分の一ぐらいでいいよ。俺、力あるし」
「安心しろ、私も力ならそこそこある」
そう言って私は結局半分奪い取る。
持ってみた結果、辛くは無かったが半分でもそこそこの重さだった。
この倍は正直キツいかもしれない。
「今までよく全部持てれていたなお前」
割と真面目に私は感心する。
「ギリギリだったけどな。だから、篠川が持ってくれて助かる。ありがとう」
月原は屈託なく明るい笑みを浮かべる。
私はその笑顔が眩しいと思いながら、
「……どういたしまして」
さっきは言えなかった言葉を、今度は素直に言えた。
二人で書類の山を分け、歩きながらにて。
「そういや、最近の俺、篠川にしょっちゅう礼を言ってるのなぁ……。なぁ、なんか困ってることってあるか?今度は俺が篠川の助けになりたい。勿論、今は無くて、あとで何か助けるってことでも良いけど」
「別にそんなこと気にしなくても良いんだが、困ってることか……。そうだな、今日の一限の授業のノート取れてないから、それを見せてもらえると助かる」
「その程度ならお安い御用で。教室に戻ったらすぐ渡す」
「ありがとう、助かる。……あ、考えてみると月原、お前昨日の授業のノート取れてないよな。今度、昨日の分のを見せようか?」
「めちゃくちゃ助かる、ありがとう。……って、また篠川に借り作ることになってるじゃん!どうすりゃ良いんだ、俺は!」
「意外と面倒くさいこと言い出すな、お前……。じゃあ、そうだな。これからもどうせ私は朝遅刻するだろうから、これから先一限のノートはずっと見せてくれ。それで良いか?」
「全然問題ない。よし、これでようやく借りを返せる」
「というより、そもそもの話として、貸し借りなんて気にするな。そんなつもりで私はお前と関わっているわけじゃない」
「……」
「いきなり黙って、どうした」
「いや、さっきの篠川の言い草だと、まるで俺と篠川が貸し借りを気にしないほどの仲だって言ってるようにも聞こえて、なんかちょっと嬉しくなってただけ」
「……っ!うるさい、お前、黙れ」
「篠川、顔、ちょっと赤くなってるぞ」
「うるさい、こっち見るな」
「……なぁ、篠川」
「うるさい。……なんだ、急に改まって」
「俺とお前、さっき篠川が言った程度の仲があるって思っていいんだよな?」
「……ああ。少なくとも、私はそう思ってる」
「そっか。じゃあ、俺もそう思うことにする。それでも、良いんだよな?」
うるさい、好きにしろ。