第一章 初めての後輩
第一章 初めての後輩
2034年4月
1
アメリカ合衆国カリフォルニア州のロサンゼルス市。
その郊外のとある一軒家にて。
白い女が一人、毛布に包まって気持ち良さそうに眠っていた。
「……」
白い女――月原紅音は、スポットでの鵺討伐から帰還すると、まずシャワーを浴びてから寝巻きに着替え、そのままベッドに直行して死んだように寝に入った。
それから十時間が経ち、現在は窓から朝日が差し込み、紅音の白い顔を僅かに照らす。
その早朝の光を煩わしいと感じたのか、紅音は眉間に小さく皺を寄せながら、髪と同色の睫毛を僅かに震わせる。
直後、紅音は自身にかけられた毛布をかなぐり捨てるかのようにベッドの横に落とした。
「……」
寝起きとは思えないほどキビキビとした動きでベッドから降り、寝巻きにしていたキャミソールとショートパンツの格好のまま冷蔵庫に足を向ける。
紅音は冷蔵庫のところまで辿り着くと、冷蔵庫の扉を乱暴に開け、大量に置いてあった飲料ゼリーの一つを不機嫌そうに手を取ると、三秒で飲み干す。
手にある容れ物のパックをこれまた乱暴にゴミ箱に叩き込もうとするが、何を思ってか直前で動きを止め、普通に落とすようにしてゴミ箱に捨てる。
その直後。
「……」
紅音は不機嫌そうな顔のまま、ショートパンツのポケットから短く震えた携帯端末を取り出す。
その画面に表示されたのは、
「……重要な事柄、か」
『重要な事柄につき直接話したいので、本部の私の部屋まで来てください』という短いメッセージだった。
その具体性の無いメッセージの送り主の名は、リリア=ウォーカー。
二十万を超す特殊能力者を管理する、十二人内の一人の名前だった。
2
世界警備機関、All Response Security System。通称ARSS。
それが、月原紅音が所属している鵺狩りのアーベント達を管理する組織の名前だった。
異形の怪物『鵺』。
そして、特殊能力者『アーベント』。
――『鵺』とは、約90年前の1944年に、世界に突如として現れた黒い霧、通称『影胞子』という未知のウィルスに感染し、怪物と化してしまった生物のことだ。
この『黒い霧』は突発的かつ偶発的に世界中に現れては消え、その『影胞子』に触れてしまった生物は、『霧』の濃さや接触時間にもよるが細胞も遺伝子も何もかもが別のものに変化し、原型とは全く異なる化け物となる。
その変異は肉体の一部である脳も例外ではなく、心も肉体も何もかもがかつてのものとは完璧な別物となってしまう。
だから、『鵺になる』ということはその人の消滅……つまり『死亡』を意味し、それだけで少なくとも数百万の人の命が失っただろう。
しかも、その怪物『鵺』は理性が無く、動くものは片っ端から襲いかかる。
その人的被害は『鵺化による死亡判定』よりも甚大で、『人類滅亡』という本来非現実なはずのワードを人々の頭によぎらせるには十分な損害だった。
だが、そんなものを人間が無抵抗に受け入れるわけがない。
その抵抗こそが、鵺の後を追う形で生まれた職業『アーベント』だ。
ただ、その名は職種の名前であるのと同時に、影胞子に関してとある特徴を持った一部の人達のことを指していた。
人類の、ひいては世界の敵である『鵺』は、影胞子が生物の細胞を変異させることで産まれる怪物。
それに対し『アーベント』は、影胞子にその身を侵されながら、本来なら崩れるはずの人としての形と自我を保れている特殊な人達のことだ。
とはいえ、『鵺』ほどではないが細胞の一部は変質しており、その影響で『アーベント』は人の常識を超えた能力……いわゆる念動力や発火能力を始めとした超能力を一つ使うことができ、その特殊能力故にアーベントは危険視されているが、人間離れしたその力をもって『鵺退治』に従事することでなんとか社会的地位を保てれている。
逆に言うと、『鵺退治』に参加しないアーベントの社会的な立場は無に等しく、まるで犯罪者かのように施設に収監される。
故に、『鵺退治』に従事すること……つまりはARSSの構成員になることは半強制的で、その数は二十万を超す。
……このような言い方すると、まるでアーベントは皆嫌々戦っているかのように聞こえるが、実際はそうでないことも多い。
仕事が危険であるがゆえに報奨金も高く、つまりは金銭欲で戦う者。
鵺に襲われる人々を守りたいと心から願う、つまりは正義感で戦う者。
鵺に大事な人を殺された憎悪、つまりは復讐心で戦う者。
そのような様々なアーベント――数にして二十万に上る――がARSSに所属しており、彼らを管理するARSSの本部は、世界各地の十二ヶ所に散らばっていた。
そして、今紅音は、その内の一つである『ARSS U.S.A.本部』に居た。
「……」
『仕事服』である赤いラインが入った真っ黒のワンピースのような衣装を身に纏った紅音は、ARSS U.S.A.本部の廊下を堂々とした足取りで歩く。
『仕事服』と言っても、ARSSの制服とは全く異なるデザインで、紅音が『鵺狩り』の時に着ると勝手に決めている服だった。
本人の異質な美貌と相まって、酷く目立つ見た目のはずなのだが、実際に廊下ですれ違う人の誰もがチラリと見るだけで、それ以上の反応は示さなかった。
紅音の見た目の年齢は二十代で止まっているとはいえ、もう五十年近くここを出入りしているのだ。
周りの人も、もう見慣れたということだろう。
それでも、新人にとっては紅音は目新しく珍しい存在であるため、そういう者は紅音に不躾な視線を向けるが、本人は全く気にしていない。
極稀に馴れ馴れしく軟派に話しかけてくる新人もいたが、そういうのは大概紅音に苛立ち混じりの赤い瞳を向けられた時点で、そさくさと退散を決め込んだ。
ただ、そんな軟派への対応とは関係無く紅音は基本的に誰とも連まず、ゆえにARSSでは孤立気味ではあるが、周りからどう思われていようと紅音の知ったことではない。
スポット内に居る鵺をこの手でどれだけ殺せるか。
それが、紅音の最優先事項だ。
「……」
紅音はARSS U.S.A.本部長……つまりはこの建物のトップの部屋に辿り着くと、ドアを数回ノックしから、躊躇無く扉を開く。
その先に居たのは、部屋の主だけ。
金髪を長く伸ばした美女――ARSS U.S.A.本部長のリリア=ウォーカーが、黒い革の椅子に座って微笑んでいた。
「紅音さん、わざわざ来てくれてありがとうございます。どうぞ、席にお掛けください」
リリアは自身の向かいのソファーに手を向けて、着席するように勧める。
その声に、返事を待たずに部屋に入ってきた紅音を咎めるような声色は一切混ざっていない。
リリアは、紅音が彼女の固有能力の性質上、部屋の外に居ても部屋の中の様子をほぼ完璧に把握できる人間だと知っていたからだ。
紅音は部屋の中の様子……つまりはリリアが一人で手持ち無沙汰に座っているのを知った上で入ってきたのだ。
それを理解しているリリアは、紅音を特に無礼とは思わなかった……というより、リリアの方から以前『私が一人のときは、わざわざ断り入れなくていいですよ』と言ってあるので、むしろノックしたことに対して『丁寧だな』と思ったぐらいだ。
もう十年越す付き合いの中で、この程度の気安さは二人の間に生まれている。
ただ紅音の方はリリアの対応に少し不満があるようで、
「……リリア。前も言ったが、私にその丁寧な言葉遣いはやめろ。お前は本部長、つまり私の上司なんだ。お前が中級の私にそんな態度をしていたら、周りに威厳を示せないだろ」
「私も前に言いましたが、私だって相手によってちゃんと喋り方を変えます。あなたが私よりここの歴が長いこともそうですが、アーベントの中でも飛び抜けたあなたの強さと貢献への敬意を口調で表してるだけです。というか、あなたが今の私の地位……上級になれてないのって、上級への昇格評定項目の一つである『部下育成』を全く行ってないからでしょう?なら、自然と言葉遣いも丁寧になるものです」
……紅音としては、自分が粗野な口調なのに、紅音より上の立場であるリリアが丁寧な言葉遣いなのは少し居心地悪かったが、だからといって自分の方が丁寧な口調に変えるのもなんだか今更だし、それはそれで面倒くさい。
それで結局毎回、紅音は粗野な、リリアは丁寧な口調で喋ることになる。
『口調がどうこうのやり取り、もはや慣例になりつつなってるな』と紅音は思いながら、リリアの先の言葉の返事をする。
「部下育成に全体への指揮権なんて、向いてもないし、興味も無い。それに、お前は人を動かすのが断然に上手いからな。私はお前以上の適任は居ないと思ってる」
「お褒めいただき光栄です。では、あの紅音さんがベタ褒めされた私からの提案……というか今回の本題なんですが、まずこちらの資料を見てください」
リリアは手元の携帯端末を操作し、紅音のポケットに入れてある携帯端末が震える。
紅音は携帯端末を取り出し、リリア送ってきたであろうファイルを開く。
そこに示されていたのは、
「……これは」
「どう思いますか?」
「どうと言われてもな……」
とある下級アーベントのパーソナルデータだった。
基本的なプロフィールから戦績や能力まで書いてある、中級以上なら自由に見れるものだ。
その内の一人をわざわざ紅音に見せたということは、
「……もしかして、こいつを私の下に着かせるとか、そういう話か?」
「ご明察です。彼女なら、あなたのご期待に添えるかと思います」
「……」
『通りで、メッセージで話の内容を細かく書かなかったわけだ』と、紅音は無表情の下で一人納得していた。
紅音に部下を着ける話は何度か上がっているが、どの話も蹴ってきた。
理由の一つは、生半可の腕前だと鵺が巣食うスポットでは死ぬしかないため、紅音の足手まといにしかならないこと。
もう一つの理由は、仮に強かったとしても紅音の復讐相手である鵺を誰にも譲るつもりがないこと。
その二つの理由ゆえに紅音は今まで一度も部下の話を受け入れたことがなく、そのためメッセージだけだと断られる可能性があると思い、目の前まで呼び出したのだろう。
「……」
紅音は目の前に表示させたパーソナルデータをジッと見つめる。
書かれている通りの『固有能力』なら、殺傷能力は低い……つまり、紅音の獲物を横取りすることは無い。
その上、サポートとしての意味なら、かなり有能な能力と言えるだろう。
問題の足手まといになるかどうかだが……それは実際に本人を見てみないとなんとも言えないが、今の紅音の実力なら、一人程度なら庇いながらでも問題無く鵺狩りができるだろう。
そう考えると、確かに悪く無い話だった。
「……最後に確認するが、お前が良いと判断したんだよな?」
「ええ、そうですよ」
「……そうか。なら、その話を受けてみるが……私は私のやりたいようにやる。その結果ダメそうだったら、他のとこに回してもらう。それが条件だ」
「はい、それで構いません。それでは、さっきメッセージで呼び出したので、廊下に来てると思いますよ」
「……ちょっと待て。確か、こいつ日本に住んでる日本人だったよな?」
紅音は手元にあるパーソナルデータをもう一度確認しながら、訝しげな声を出す。
そんな紅音に対しリリアは涼しい顔で、
「ええ。あなたの同郷の人ですよ」
「お前、私にこの話を提案する前からU.S.A.本部に呼び寄せてたのか……?私が断ってたらどうするつもりだったんだ?」
「あの子のパーソナルデータを提示しながら対面で説得すれば、紅音さんは応じてくれるはずだと信じていましたので。万が一断られたとしても、他のを任せる手配は済ませてましたし」
「……なるほどな」
少し行き当たりばったりのように紅音は感じたが、実際リリアの予測通りに物事は動いてるのだから、問題無いのだろう。
「では、紅音さん、廊下に出て初対面済ませてください」
リリアは扉の方に手を向ける。
「ここに招き入れないのか?」
「ただでさえかの有名な『復讐姫』との初対面で緊張しててもおかしくないのに、そこに本部長の私まで加わったら可哀想でしょう。優しくしてあげてくださいね?」
「……私にはどうしたって叶えたい目的がある。そのためなら、なんだってする。それを変えるつもりは無い」
「わかってます。その上で、よろしくお願いします」
「……」
紅音はもう返事をしなかった。
紅音は携帯端末をポケットにしまいながら無言で立ち上がり、ドアに向かって歩く。
ドアの前で立ち止まり一言、
「失礼した」
そう呟いて、退室した。
部屋の外に出た紅音は扉を閉めながら、体ごと視線を左に向ける。
その先にいたのは、セミロングの茶髪に虹色のカッチューシャを着けた、ブレザー姿の活発そうな少女。
その少女は紅音を見ると、緊張しているのか、体を僅かに硬くし、
「初めまして、私の名前は雲林院葉月です!!これからよろしくお願いします!!!!!!」
見た目通りに、元気よく大声で、溌剌に名乗りを上げた。
――これが、相棒となる後輩、雲林院葉月との出会いだった。
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雲林院葉月
リリア=ウォーカー