第六章 修羅
第六章 修羅
2034年4月
その様は、地獄としか言いようがなかった。
1
月原紅音と雲林院葉月がバディを組んで、二週間が経った。
この二人だけのチームは、カリフォルニア州のエンジェルス国有林に根付く『鵺の巣』の攻略のために結成された。
とはいえ、いきなり『鵺の巣』に行くことはなく、まずは通常の街中に現れた鵺を倒していた。
新人に近い葉月はそれを自分の試用期間だと考えており、実際それは間違っていなかった。
その期間の中で葉月は紅音の期待以上の力を示し、紅音は『葉月ならば、スポットに連れて行っても問題ない』と判断を下す。
そして、その初となる侵攻作戦の実行日は、明日に迫っていた。
「――鵺の巣に行く際の注意事項は以上になる。なにか質問は?」
ARSS U.S.A.本部にある小さい部屋。
そこで、紅音はホワイトボードを背に葉月にそう尋ねた。
「えっと……大丈夫です」
葉月は先程言われたことを思い返しながら、大きく頷く。
紅音から葉月に伝えた注意事項は主に二つ。
一つは、スポット侵攻に必要な装備についての細々とした注意。
もう一つは、『スポットにいる鵺に、葉月は手を出すな』というものだった。
――鵺の巣『スポット』。
それが、紅音と葉月が明日向かうべき場所の通称だった。
スポットとは、鵺が出現した1944年に、時を同じくして生まれた、黒い霧が晴れない七つの地帯のことだ。
通常影胞子が作る黒い霧は突発的に現れ、数十分経てば消えるのだが、スポットという場所ではなぜか黒い霧が永遠に消えないのだ。
そのため、影胞子の怪物である鵺はスポットを好み、そこには少なくとも数千の鵺が生息しているとされている。
どのスポットも数百平方キロメートルの広さを誇り、そこは鵺以外の生命体の存在を一切許さない魔の領域であるのだが、スポットから鵺が出てくることは滅多にない。
『なら立ち入り禁止にして放っておけばいい』という意見もARSS内で上がることもあるが、スポットの一番の問題は徐々に範囲を拡大していくことだ。
そのため、スポットがいつか人の街を、果ては国をも飲み込み、そこにいる全ての生物を鵺に変える、あるいは鵺に殺されることは確定的。
ゆえに、スポットを放置することは問題の先送りにしかならず、いつかは必ずスポットを消滅させなければならない。
その肝心のスポットを消滅させる方法は、スポットと共にこの世に現れ、そして中心に居続ける鵺、通称『始まりの鵺』を殺すこと。
それは、一つ目のスポットが消滅した時に判明したことだ。
現在は七つの内三つが消滅しており、残り四つの内……いや、消滅したのを含めて、スポットの中でも最大級のスポットと呼ばれているのがカリフォルニア州のエンジェルス国有林に有るスポットだった。
『最大級』と呼ばれるようになった理由は、五十年ほど前、『絶対に攻略できる』と判断された上級を複数人組み込んだ二千人の旅団が一日にして全滅したからだ。
詳細な原因は不明。
ただ生き残った僅か数人の証言によると、侵入して二時間後に、数え切れないほどの鵺に襲われたとのことだ。
……鵺の巣に入る以上、鵺に襲われるのは当然考慮に入れており、むしろ他のスポット攻略時の詳細な記録がある以上、完璧な形での予測を立てていた。
しかし、蓋を開けてみれば、想定の何十倍にも膨れ上がった鵺の大群に襲われることとなった。
結果、ARSSに残されたのは『二千人近いアーベントの死』と『カリフォルニアのスポットに居る鵺は他のスポットに比べて質も量も異常なことになっている』というどうしようもない現実だけだった。
そのため、カリフォルニア州のスポットは、ARSSの所属と言えど全面立ち入り禁止となっている。
ただ一人、月原紅音を除いて。
(……そこに、明日私も付いて行くんだ)
カリフォルニアのスポットに紅音以外の人物が行くのは、実に五十年ぶりのことだそうだ。
そう考えると、身が引き締まる思いだった。
前日の準備にだって、手を抜いてなんていられない。
……準備といえば。
「紅音さんの分の装備品の準備はいいんですか?」
現在、葉月の装備……マスクやゴーグル、手袋などなどが机の上に広げられており、先程紅音に教えてもらいながら葉月が自分の手で点検と準備をしていた。
しかし、紅音の装備らしきものは、何一つこの場に置いていなかった。
「ああ、私の分は必要無い。……葉月に渡したそれらは、スポットに立ち込める濃い影胞子から身を守るためのものだ。いくらアーベントでも、スポットの濃い影胞子の霧を浴び続けたら鵺になる可能性がある。故に、葉月には念のために持ってもらうだけで、実際には使わない可能性も高い。……私も最初の頃はマスクだけは持ち歩いていたが、結局一度も付けることはなくてな、もう今では保険の意味ですら必要無くなった」
「なるほどです」
葉月は納得したように頷く。
それを見た紅音は、
「では、明日のブリーフィングは以上とする。あとの時間はそうだな……適当に時間を潰しといてくれ。ただ、もし訓練するとしたら、ほどほどにな」
「はい!」
葉月の固有能力『生命奔流』は、肉体の疲労は無制限に回復させるが、怪我や精神的疲労まではカバーしない。
それを考慮した上での紅音の言葉だったが、葉月にキチンと伝わったようだった。
「あ、紅音さん、そろそろお昼ご飯、食べたりしませんか?最近、評判のパスタ専門店の話を聞いたんです!」
「ああ、いいぞ。行こう」
「やった、では早く行きましょう!」
葉月が机に広げていた装備を手早くリュックに仕舞うと、それを背負い足早に部屋から出て行った。
それを見ながら紅音は、
(……考えてみると、L.A.に住んでいる私が葉月に店の案内されるのは変な話だな)
最初は紅音が葉月に店を教えていたのに、いつの間にか逆のパターンの方が増えていた。
『流石、食べ歩きを趣味に掲げてるだけはあるな』と、妙な感心を抱きながら後輩の後ろ姿を追う。
そのまま廊下に出ると、葉月は扉のすぐ側で立ち止まっていた。
「……何かあったんでしょうか?」
葉月はある方向を見つめながら少しだけ首を傾げている。
紅音は葉月の視線を追うと、その先には掲示板とそこに群がる人集りがあった。
「……」
紅音はそちらに意識を向け、数十メートル離れた掲示板に書かれた文を素早く読む。
そこに書かれていた内容とは、
「……殉職者が出たようだ。名はエバ=ジョンソン。もう、三十年はこの本部に勤めている中級アーベントだ」
「……」
葉月は小さく息を呑んで……そして、ゆっくりと吐き出した。
殉職者。
あまり……いや、極力聞きたくない言葉だ。
だけど、ARSS所属のアーベントとして鵺と戦っている以上、殉職者はどうしても出てしまう。
葉月の知り合いの中から殉職者が出たことはないが、葉月が日本本部に勤めていた一年の間でも、二回ほど殉職者の知らせが掲示板に載っていたのを覚えている。
「……知り合いだったんですか?」
葉月は紅音の顔を見上げながらそう問いかける。
なんとなく、さっきの紅音の言葉が、知人のことを語るような口振りに感じたからだ。
「……知り合い、とは呼べなかっただろうな。一度だけ声を交わした程度の仲だ」
紅音を見上げる葉月に対し、白い女は変わらず掲示板の方を見つめながら口を動かす。
「だが、たったそれだけの関係でも、三十年以上同じ場所に勤めていたんだ。例え、お互いの『仕事』が違うもので、関わりなどほとんど無かったとしても、エバ=ジョンソンという人間が穏やかで良い奴だってことぐらいは、知っていたよ」
紅音は『知り合いではない』と言いつつ、寂しげな声色でそう語る。
「……」
「……」
葉月は紅音の言葉に返事ができなくて、結果二人は無言になる。
そして、葉月は、知り合いではなくとも、同じARSSのアーベントとして、三十年も戦い続けた同僚に短く黙祷を捧げた。
恐らく、それは隣に立つ白い先輩も。
2
ロサンゼルスの路地裏にて、とある女アーベントが軽やかな足取りで歩いていた。
彼女はアーベントと言っても、ARSSに所属しているわけではない。
『札付き』。
法の外に自ら身を置いた犯罪者アーベントだ。
そんな物騒な肩書きを持つ彼女は、短く整えた灰色の髪を揺らしながら、鼻歌混じりに歩いていた。
見るからに上機嫌な彼女は、足を止めずにポケットから携帯端末を取り出すと、そのまま耳に当てた。
どこかからか、電話がかかってきたようだ。
「よう、旦那。このキーラ姐さんに何の用だい?」
『……やってくれたな、貴様』
電話の向こうから、名乗りも挨拶も無しに、怨念が込められた言葉を吐きかけられる。
「やってくれたって、もしかして随分前にちゃちな札付きをぶっ殺したこと?それとも、ちょっと前にARSSの狗をぶち殺したこと?いやー、あれらは仕方なかったんだって。たまたま仕事現場に鉢合わせしちゃってさー」
『つい先日貴様が殺したARSSのアーベントは、中級だ。仮に下級でも殺したら問題になるというのに、ARSSアーベントの中で上位0.5%に位置する中級を殺すなど、無駄な注目を集めるだけだ』
「ありゃ、アイツ、中級だったの?あたしから見りゃ下級も中級も雑魚だから、わからんかったわ」
『貴様が強いのは知っている。だが、余計なリスクを負うな。……そもそも、俺は今回の仕事自体反対だったんだ。本来、この街は俺達のテリトリー外だ、リスクが大き過ぎる』
「いーや、これは必要なリスクだよ、旦那。商談まとめんのに三週間近くかかったとはいえ、最終的には億を越える取引になったんだよ?なら、やるしかねーだろ。アメリカンドリーム様々ってヤツだ」
『それで俺達が死んだら意味がないだろうが』
「それも重々わかってますって。だから、明日商品を調達して、そのまま金ヅルどもに届ける。それでこの街とオサラバさ」
『ならいい。ただし、余計な欲はかくな。この街に居る上級は最下位でありながら、どこか得体の知れないところがある。最大限気をつけろ』
「わかってるって。じゃあねー」
女は――キーラ=アソチャコフは、そう言うと、返事を待たず一方的に電話を切った。
(……上級と言っても、十二人中十二位なんだろ。なら、そこまで恐れるほどじゃないと思うけどなぁ)
キーラは携帯端末はポケットにしまいながら、考え事をするために立ち止まって壁に寄りかかる。
(小さい失敗だろうが確かに面倒だから、接触しないよう注意するとしても、どうせ失敗するならこの前の雑魚じゃなくて、『復讐姫』みたいな変わり種が良いね。階級こそ中級程度とはいえ、実力の方は一番下の上級よりはマシかもしれないしね)
黒いジャケットのポケットから煙草とライターを取り出すと、煙草の先に火を付け口に咥える。
(つっても、ビジネス的には会わない方が吉なんだよなぁ)
顔を上に向けながら、フーッと勢いよく煙を吐き出す。
(ビジネス的には遭遇しないのが一番、遊び的には『復讐姫』に会敵するのが一番ってところか。どっちに転んでもあたしにはラッキーだ)
……煙草を吸っているこの女は、月原紅音が上級の最下位と同等以上と見積りながら、月原紅音と戦って敗ける可能性はほとんど考えていないようだった。
その自信は根拠の無いものではない。
彼女はとある上級アーベントと知り合いであるため、上級の実力をある程度知っていたからだ。
(この街の本部長は、『アイツ』より序列が低い。つまり、U.S.A.本部のARSSの狗は『アイツ』より弱いってことでしょ。なら、ギリギリはあり得ても、負けはない)
半分ほどの長さになった煙草を床に落とすと、それをぐりぐりとブーツで踏み潰す。
「あーあ。あたしの前に現れてくんねぇかな、復讐姫」
煙草を吸い終えると、キーラ=アソチャコフ――ARSSから『鉄鋼』と呼ばれているSランク『札付き』は、堂々とした足取りでその場を後にする。
ARSSのアーベントに見つかるわけないと、言わんばかりに。
3
「葉月、準備はできているか?」
「はい!」
太陽が煌々と輝く早朝に、月原紅音と雲林院葉月はARSS U.S.A.本部の前に集合していた。
集合した目的は、
「では、これからスポットに移動し、スポット侵攻作戦の第一回目を開始する。昨日も伝えたが、今回の期間滞在期間は一日から二日と短期間だ。……新しく質問あったりするか?」
「ありません」
「そうか。……心の準備の方は?」
「そちらも万端です!」
「良い返事だ。では、車に乗ってくれ。三十分もすれば着く」
「はい!」
二人して、U.S.A.本部の入り口近くに駐車されてあった赤いスポーツカーに近付き、そのま紅音は運転席、葉月は助手席に乗り込む。
そして紅音は流れるようにエンジンをかけて、
「では、出発するぞ」
アクセルペダルを、強く踏み込んだ。
(うわー、緊張するなぁ)
葉月は助手席から流れる景色を眺めながら、そんなことを考える。
そして、頭の中で自分がしなければならないこと、またしてはいけないことを復唱する。
(私がやるのは『生命奔流』で紅音さんの補助をすること。やっちゃダメなのは、私がスポット内の鵺を倒すこと)
とは言っても、元々葉月ができることできないことを考えると、自然とそうなるだろう。
葉月はここ何週間で強くなり、街中に出現する鵺には勝てるようになったが、それはあくまで産まれたばかりの鵺だからだ。
葉月では、スポットで生息し成長した鵺には太刀打ちできないだろう。
……大雑把な基準だが、街中に出現する鵺程度なら軽々しく殺せるほどの実力を持つ中級アーベントでも、二十年生き成長した所謂『二十年級』の鵺には苦戦するとされており、上級にしたって一対一だと四十年級の鵺が限界だとされている。
そんな怪物達が、スポットにはゴロゴロ居ると言われているのだ。
しかも、上級が苦戦する四十年級どころか、もっと上のだってスポットには何体も居る。
そんな鵺達を、街中の鵺が精一杯の葉月にどうこうできるわけがなかった。
(今の私にできるのは、生きて紅音さんのサポートすること。それに集中する)
葉月はこの二週間で、最低限足を引っ張らない程度の力を手に入れたつもりだ。
だから、死なずに紅音を固有能力で支えるのが自分の役割だと、再認識する。
(……よし、がんばろう)
葉月がそう思い直して、なんとなく運転席に座る紅音の方に目を向けると、
人の形をした『死』が、そこにあった。
「……ッ!!」
葉月の息が止まる。
視線の先に居るのは、もう見慣れた先輩の月原紅音だ。
日を照り返す白い髪も、人間離れした美貌も、いつもと同じ。
それどころか表情や姿勢さえも、いつもと変わらない。
ただ、それでも伝わってしまうほど、彼女の身体……いや魂から、憎悪と殺意が溢れ出ていた。
『一匹残さず必ず殺す』。
その意思と感情が、空間を伝って葉月に流れ込んでくる。
「……っ!」
葉月は口を押さえる。
そうでもしないと、叫び声を上げてしまいそうだった。
『人を殺す視線』とはこういうのを言うのだと、強引にわからされた。
……月原紅音の殺意の対象は、自分ではない。
そんなことは重々わかっている。
それでもなお震え上がってしまうほど、今の紅音の様子は異様だった。
(……いや、違うかな)
今の紅音が異常なのではない。
今の紅音こそが、正常なのだ。
――この二週間と少しの間、葉月は紅音と関わって、噂の印象とは全然違う人だなと思っていた。
怖い噂とは違って優しい人だなと、そう思っていた。
でも、違った。
彼女の本質は、そんな生易しいものではなかった。
怖い噂は――復讐姫の呼び名は、彼女の本質を示していたのだと、納得せざるを得なかった。
スポットには強力な鵺が何体も居る。
それこそ、上級ですら苦戦するようなのがだ。
実際五十年前、そのスポットに二千人の旅団で攻め込んだとき、上級が複数居たにも関わらず、全滅した。
そんな死地に、月原紅音は何度も何度も単身で攻め込み、何体も何体も鵺を斬り殺していた。
そんな生活を、彼女は五十年間続けていた。
だから、今の月原紅音こそ、正常で日常の姿。
スポットに居る鵺を――正確には夫を殺した鵺を憎悪しこの手で殺戮することこそが、彼女の日常。
一匹では終わらない。
スポットに居るどの鵺が夫を殺したのかわからない以上、全て殲滅する必要がある。
だから、彼女は五十年前からずっとスポットに攻め続けた。
もう殺した鵺の合計は十万に上っている。
本来、スポットには数千しか居ないと言われてるにも関わらずだ。
あまりにも途方なく、終わりなど到底見通せない。
しかし、彼女は止まらない。
スポットに――夫の最期の場所に、鵺がいる限り永遠に。
どこかの誰かが、彼女を指して『終わらせる者』と呼んだ。
だけど、彼女の本質は、どうしようもないほど、『復讐者』だった。
4
「……はぁ」
ARSS U.S.A.本部の本部長執務室。
そこの主、リリア=ウォーカーは溜息を吐きながらコーヒーカップを口元に運んでいた。
普段の彼女だったら、どんな時にも余裕な姿勢を崩さず、観る者に安心感与える微笑みを浮かべているのだが、今この部屋にはリリア一人しか居ない。
そして何より、今さっき入手した情報があまりにも良くなかったため、端正な顔を顰めながら溜息を吐いたのだった。
その溜息の理由は視線の先のディスプレイ。
そこには、ロサンゼルス市警から上がってきたある報告書が表示されていた。
「……」
ここから導き出される『解答』は、本当に良くない。
その『解答』の内容は、『鉄鋼』の目的について。
まだ確定と呼べるほどではないが、ほぼほぼ間違いないだろう。
『鉄鋼』の目的がわかったということは、『鉄鋼』の移動先も予測できるという意味でもあり、既にゾフィア=ラッセル達『対鉄鋼チーム』には連絡してある。
とはいえ、ある程度犠牲者が発生してしまうことは回避できないだろう。
……。
「……ダメ、か」
リリアはもう一つある連絡先に電話をかけていたのだが、繋がらなかった。
あの場所は電波が入らないのだから、当然と言えば当然だ。
(なら、こっちから接触はできない。あそこから出てくるまで待つしかない)
……事前に『解答』を伝えておきたかったのだが、こうなっては仕方がないだろう。
ならばせめて、こちらでできることはやっておくべきだ。
「準備、進めとく必要があるわね」
さっきまでディスプレイの中心に表示させていた報告書を端に寄せる。
――その報告書に記載されていたのは、ここ一ヶ月に発生した行方不明者リストだった。
5
黒い霧が数百平方キロメートルにも及ぶ森林地帯。
カリフォルニア州のエンジェル国有林に根付く鵺の巣。
戦車だろうが戦闘機だろうが、現代兵器程度軽々しく捻り潰すことができる化け物が跋扈する超が付く危険区域。
そんな怪物達の生息地に自ら踏み込む者は、狂気に冒されているとしか言いようがないだろう。
「……っ!」
雲林院葉月はここスポットに来て、固まることしかできなかった。
というより、そうするしかなかった。
鵺は動いてるモノから襲いかかる傾向にあり、スポットの鵺に狙われたりしたら一溜まりもない葉月としては動かない選択肢しかなく、実際先輩からもそう指示を受けていた。
つまり、必然的に鵺と戦うのは、月原紅音一人となる。
……こう言うと、状況的に仕方なくそうなったかのように聞こえるが、決してそんなことはない。
そもそも、葉月という後輩ができるまでの五十年間、紅音は一人で戦い続けている。
つまり、紅音が一人でスポットの鵺と戦うことは通常のことであり、それに何より、一人きりで戦うことこそが彼女の希望だった。
これは英雄の聖戦ではなく、復讐者の仇討ちなのだから。
「……」
現在、全身を黒い衣装で包ませ、両の手に血の刀を持つ月原紅音は、数十……いや数百に及ぶ鵺に囲まれていた。
堂々とした足取りで、彼らの縄張りに入ったのだから当然だろう。
だから。
ある鵺は、虚空から炎の球を作り出し。
ある鵺は、空気の刃を放ち。
ある鵺は、水塊を振り下ろし。
ある鵺は、口から黒い光線を女に向かって吐き出した。
どの攻撃も、現代兵器だろうがアーベントだろうが一撃でこの世から消滅させるほどの威力を秘めている。
それらを四方八方から向けられた者は、死ぬしかない。
死ぬしかない、はずだった。
「……」
炎だろうが、風の刃だろうが、水塊だろうが、黒い光線だろうが。
月原紅音には一つも当たらない。
掠りさえもしない。
とは言っても、紅音は別に攻撃を意識的に躱しているわけではない。
ただ、攻撃を放たれた頃には、彼女がその場から移動していたというだけの話だ。
刀を基本武器としている紅音にとって、鵺との距離を詰めるのは当然のことだった。
「……」
まず、紅音は右手に持つ赤い血刀で炎を吐く虎のような鵺を縦に両断した。
その直後、空気の刃を作るカラスのような鵺に音を超える速さで近付くと、左の刀で胴を斬り払った。
その一瞬後には水塊を操る蟷螂のような鵺を左右の刀で四つに分断し、黒い光線を吐く竜のような鵺を八つに切り裂いた。
どの鵺も綺麗に法臓が切断されており、四体の鵺は跡形もなく消滅する。
炎を吐く鵺を二つに割ってから四体の鵺が消滅するまで、実に三秒の出来事。
一体につき一秒もかかっていない。
無論、紅音がそれだけで動きを止めるわけがなく、無言かつ無表情のまま、次の瞬間には別の鵺に斬りかかって行った。
紅音を囲っていた鵺達も、飛び掛かってくる彼女に反応を示し、その場が炎に岩、氷に黒い閃光が飛び交う死地と化す。
しかし、復讐姫にはその全てが当たらず、鵺を片っ端から左右の手に握り締められた二本の刀で斬り刻んだ。
「……」
巨大なクマ型の鵺――以前葉月が倒した鵺よりも数倍は大きい――が紅音に向かって軽トラほどはある大きな鉤爪を振り下ろすが、紅音はその腕を根本から切り飛ばし、返す刀でクマ型の鵺を斜めに切断した。
それと同時に、後ろから隼のようは鵺が迫っていたが、紅音はそちらに視線を向けることなく刀を突き出し、その隼型の鵺は頭から尾まで一直線に貫かれることになった。
二本の刀を振り切ったのと同タイミングで、真上から、体を丸め表面は金属のように固めた直径数メートルの鵺が隕石のように降ってきていたが、紅音はその場で大きくジャンプすると、隕石と化していた鵺を思いっきり蹴り飛ばすことで、法臓ごと全身を粉々に砕いた。
(……すごい)
心の中で、葉月はそう呟かざるを得なかった。
紅音が強いことは、わかっていたつもりだった。
ただ、それが所詮『つもり』でしかなかったことを、否応なくわからされた。
『血躯操作』。
それが、紅音が持つ異能の名前であり、その能力の内容は『自身の身体を自在に操作し強化する』という、至ってポピュラーな身体強化系の能力だ。
そのポピュラーな身体強化能力を、紅音は究極の域まで昇華させており、異能を全開した彼女の身体能力は全ての存在を軽々しく凌駕する。
『血躯操作』によって極限まで高められた身体能力で放たれる斬撃は、瞬く間に十メートルを超す怪物だろうが容赦なく両断した。
そんな紅音の一挙一動を新人の少女が目で追い続けることなどできるわけもなく、葉月の眼と頭には断片的な情報しか認識できていない。
しかし、断片的にしか認識できていなくても、目の前の光景の凄まじさは理解できていた。
(紅音さんを囲っている鵺のほとんどが、最低でもアーベントでいう中級クラスの力を持ってる。なのに、紅音さんは、それらを十把一絡げのように倒してる……)
紅音を囲っている鵺のほとんどは、十メートルを超える巨体だ。
なら当然法臓も高い位置に有り、紅音は跳ぶことによって地上数メートルの位置にある法臓に刃を通していた。
跳んだあとは落下するしかないところ、周囲の影胞子を操り空中に一時的な足場を作ることで、三次元的な動きを可能にしていた。
つまり、紅音は鵺に囲まれた死地を縦横無尽に駆け巡り、本来は生命に死を与える側であるはずの鵺を最短距離の神速で斬り殺せるということだ。
だから、その光景はまるで、血の嵐だった。
白く美しい閃光が煌めく度に、怪物達の血が噴き出し、閃光の全身に降り注ぐ。
本来鵺は死亡と共にこの世から存在が消滅する……つまり、返り血も消滅するはずなのだが、紅音の体に浴びた血が消滅するよりも早く次の鵺の血を浴びるため、彼女の全身は赤く黒く染まっていた。
その姿はまるで――
(……え!?)
月原紅音が、突如こちらに向かって来る。
勿論、反応して動くことなどできるわけがない。
目に捉えられただけでも奇跡だ。
その直後、
「……」
紅音は葉月の真隣で、葉月の後ろに居る鵺を刺し殺していた。
「……え?」
葉月が疑問の声を出していた時には紅音はもう少女から離れており、葉月を後ろから襲おうとしていた鵺は消滅していた。
……『動かなければ基本狙われることはないが、それでも絶対ではない』とブリーフィングで言われていたことを葉月は思い出す。
というよりも、
(私、今、助けてもらった?)
次の瞬間には、紅音はもう鵺の集団のところに戻っていた。
紅音はわざわざそこから離れて、葉月のすぐ側に迫っていた鵺を倒したのだ。
(……私の存在なんて、忘れられてると思っていた)
実際、紅音は先程葉月の後ろに居た鵺を倒した際、葉月の方に焦点を一度も合わせなかった。
助けてくれた以上、認識はしていただろうし、覚えていたのだろう。
それでも、葉月の真横で鵺を刺殺した紅音の姿は、ここ二週間で感じた優しい印象が全て嘘だったと感じるほど凄惨で――何より恐ろしかった。
「……ふぅ」
なるべく音を出してはいけないとはわかっていても、葉月はつい深く息を吐いてしまう。
紅音は今でも戦っている。
正確には、『殺している』と言った方が正しいか。
葉月の視線の先では、再び赤く黒い嵐が吹き荒れていた。
高層ビルだろうが軍艦だろうがどんな物でも破壊できそうな怪物達が、一人の女によって一方的に蹂躙されるその様は、地獄としか言いようがなかった。
その地獄を作り出した彼女は、怪物達の返り血で全身を赤く汚している。
しかし、彼女が有する白の輝きは、その汚れの中であってさえ……いや、血の汚れの中だからこそ、強く強く光を放っていた。
(……あ)
月原紅音のことが、怖い。
それが、葉月の偽らざる本音だ。
だけど、それ以上に、葉月は目の前に広がる景色を綺麗だと感じていた。
だからこそ、眼前の凄惨な景色を恐れていながらも、一度たりとも視線を背けなかったのだ。
『自分は今、彼女に見惚れている』。
そのことに、後輩の少女はようやく自覚した。
―― 一人の白く美しい女が、激しい憎悪と殺意を身に宿し、それを肉体の外に表現するかのごとく、神速でこの世あらざる化け物達を殺戮する。
その光景はまるで一枚の絵画のようで、いっそある種の神々しささえあった。
彼女は誰よりも強く、何物よりも恐ろしく、そして何よりも美しい。
死を送る神のような復讐姫。
それが、今の雲林院葉月が抱く月原紅音の印象だった。