過去編 紅音の思い出5
過去編 紅音の思い出5
1976年9月
1
今日は九月一日。
夏休み明けの一日目、始業式の日だった。
「ねむい……」
私は欠伸混じりにそう呟きながら、学校の廊下を歩いていた。
……昨日までだったら、ベッドの中でぐっすりと眠っている時間なのだが、始業の日に遅刻するのは良くないだろうと思い、ちゃんとHR開始前に来たのだ。
(ちゃんとというか、本来はそれが当たり前なんだけどな)
私は自分の思考にツッコミを入れる。
そんな風にボンヤリとしながら足を進めると、自分の教室のドアに辿り着いた。
「……よし」
私はなんとなく気合いを入れてドアを開けて、教室にするりと入る。
そしてそのまま私は教室の端に向かって真っ直ぐ進み、自分の席に座る。
その直後、
「紅音、おはよう。お祭り振り」
友達と談笑していた隣の席の男に、そう声を掛けられた。
だから、私はそちらの方に目を向ける。
その視線の先には、隣の席の男――月原一騎が、いつも通りの明るい笑顔を浮かべていた。
だから私も、
「ああ。久し振り、一騎」
同じように、挨拶を返した。
一騎は一瞬笑みを少し強めると、視線を友達(確か名前は木村だったか)の方に戻して、会話を再開させていた。
そんな一騎を横目に、私は何の気も無しに顔を窓の外に向ける。
……。
……今日私が時間通りに登校したのは、始業式があるからだ。
でも、それとは別に、もう一つだけ理由がある。
ちょっとだけ……本当にちょっとだけ、今日という日が楽しみだったのだ。
今日からまた、学校生活が始まる。
それが、何故か楽しみだったのだ。
(……何故か、か)
理由なんて、本当はわかっている。
さっき挨拶の言葉を交わした時点で、もう嫌というほどわかってる。
でも、どうしても認めることができなくて、私は机に肘を付けながら口元を手で押さえる。
窓の方を向いている私の口なんか、誰にも見られないなんてことはわかってる。
それでも、口元を隠さずにはいられなかった。
1976年10月
2
夏休みを明けてから一ヶ月……つまり、入学してから半年が経った。
半年前の入学当初、教室の端で窓の外を独りで眺めていた頃から何も変わってない――なんてことは、決してなかった。
まず、隣の席の男と仲良くなった。
何かキッカケがあったような気もするし、何も無かったような気もする。
とにかく、学校生活を過ごしていく中で、隣の男子と段々と仲良くなっていった。
そして、ついこの前まで、私と話す相手なんてその月原一騎ぐらいしかいなかったのに、今では山崎ひかりを始め幾人かのクラスメイトと友達になった。
入学当初は友達なんてほぼゼロ人だったにも関わらずだ。
なんでなんだろうと少し考えてみると、以前山崎ひかりが『篠川は前より喋るようになった』って言っていたことを思い出した。
言われるまでそんな自覚は無かった。
でも、一度自覚してみたら、確かにそうだった。
現に今、
「一騎。今日、一緒に帰れるか?」
「ああ、いいよ。一緒に帰ろっか」
私は一騎に、帰りの誘いをした。
入学当初の私では考えられないことだ。
なのに今は、一騎が嬉しそうに小さく笑ったのを見て、私まで嬉しい気持ちになる程になっていた。
『帰り道を一緒に歩く』。
ただ、それだけのことなのに。
「あ、悪い。ちょっと待ってて」
一騎は机の上に載っている筆箱やらノートやらを鞄の中に仕舞う。
その時、チャラリと、筆箱に付けられた黒い短剣型のストラップが音を鳴らした。
「待たせて悪い。じゃ、帰ろっか」
「うん」
一騎が鞄を肩に掛けるのに合わせて、私も自身の鞄を持つ。
そして、私は鞄に付けている赤い星のストラップを揺らしながら、彼と横並びに歩き出した。
夕日が落ちかけた、帰り道にて。
二人で色々な世間話をしながら歩いている最中に、
「紅音って、『アーベント』って知っているか?」
一騎がいきなりそんなことを言い出した。
それに対し私は、
「勿論、知っている。ただ、私の知り合いでアーベントは居ないな」
「そうなんだよなー。俺の知り合いにも居ないし、この学校にも居ないんだと。そんなに多くないのかな?」
「まぁ、世界で二十万人程度らしいからな。数としては多いだろうが、割合としてはそこまで多くないだろ」
「それもそっか」
一騎はウンウンと頷く。
「ただ、俺、知り合いにアーベントは居ないけど、アーベントを見たことはあるんだよな。しかも、仕事してる最中の」
「……一騎、もしかして『霧』に巻き込まれたことあるのか?」
「ああ、一度だけ。あの時はビックリしたなぁ……」
一騎はなんでもないことのように語る。
「お前、無事で良かったな……」
今目の前に元気な一騎本人が居るのにもかかわらず、私は安堵の息を吐く。
『霧』に触れてる時間が長いと怪物『鵺』になってしまうし、運良く鵺化しなくても鵺化した化け物に襲われてしまうことだってあり得る。
霧に触れることによって能力者『アーベント』になることもあるのだそうだが、それは1%を遥かに下回る極低確率だ。
無事で良かったと、本気でそう思う。
「生で見たアーベントはすごかったよ。なんか炎を出して怪物と戦ってたんだけど、まるでテレビ番組のヒーローみたいだった」
一騎は目を輝かせて、その時のことを語る。
だから、私は、
「一騎、お前、もしかして将来アーベントになりたいのか?」
「ああ」
即答だった。
そもそも、アーベントになれる『適性』があるかどうかもわからないのに。
「……聞いといてアレだが、アーベントは望んでなるものじゃないだろう。職業としての『アーベント』は、異能者としての『アーベント』に残された数少ない道の一つのはずだ」
「でも、願うのはいいだろ?超能力ってのに少しだけ憧れる。紅音はそうじゃないの?」
「……まぁ、多少はあるかも」
背中に翼でも生えて、空を飛べたら楽しそうだなと思わなくもない。
だけど、それだけだ。
実際にその力を得て怪物と戦いたいかと聞かれたら、そんなことはない。
怪物『鵺』と戦う彼らは立派だと思うけど、私は望んでなりたいとは思わなかった。
だが、一騎は、
「やっぱちょっとは憧れるだろ?だから、俺はアーベントになって、鵺から人を守るヒーローになりたい」
「……そうか」
「そして、人を守って助けて、死にたい」
「……」
「死ぬ時って、人生という物語の終わりだろ。だから、その物語の最期に人を怪物から守るのって、最高にカッコいいんじゃないかって俺は思う。だから、そんなアーベントになりたいって俺は思うよ」
「……」
「……あの、紅音?」
私が無表情になったのをみて、一騎の笑顔が少しだけ固まる。
夢を語る少年の笑みが、僅かに硬くなる。
「……あ、俺の話つまらなかったか。いきなり語り出して悪か――」
「違う。そうじゃない」
私は一騎の話を遮る。
失礼だとわかっていたけど、私はそうした。
どうしても、言っておきたいことがあったからだ。
「月原一騎」
私は足を止めて、言葉を放つ。
「恥ずかしいからこういうことは本当なら言いたくないが、敢えて今言う。私は、お前のことを大事な友達だと思ってる。お前が私のことをどう思ってるかは知らないが」
一騎も私に合わせて立ち止まり、驚いたような表情を浮かべて私の方に顔を向ける。
「ちょっと待て。俺もお前のことを大事な……友達だと思ってるぞ。だから、そんな言い方しないで欲しい」
「じゃあ、なんで笑いながら言った」
「え?」
一騎は目を見開き、僅かに首を傾げる。
本気でわからないようだ。
だから私は、目をしっかりと合わせて、はっきりと告げる。
「友達が、例え人助けする上のことだとしても、『殺されて死にたい』って意味のことを楽しそうに話しているのを見て、気分が悪くならないわけないだろうが」
今、私が抱いたこの気持ちを、ちゃんと伝わるようにと。
「別に人助けに憧れるのは、まだ良いんだ。アーベントじゃなくても、警察官や消防士とか。立派で人に誇れる仕事だと私は思う」
それは本当だ。
もし、『人助けをしたい』ってだけなら、良いことなんだろうと、素直にそう思えるだろう。
例えそれが命懸けのものだとしても、心配しつつも良いことだと思えるだろう。
だけど、
「でも、死ぬこと前提でやるのはダメだろうが。自分の死に方を求めて、殺され方を望むのは、ダメだろうが……」
私は声を荒げはしなかっけれど、静かに怒ってた。
自身の死に方に『殉死』や『戦死』を求める一騎に怒ってて、悲しくて……そして、心配だった。
……一騎が話していたのは、単なる世間話の与太話だ。
だから、これは私の勝手な過剰反応。
そんなことはわかってる。
でも、一騎の先の言葉は、何故か一騎の本心のように聞こえだのだ。
……。
私は一騎の瞳から目を逸らす。
「余計なお世話だった。すまない。でも、私の前でそういうことは言わないで欲しい」
一騎の顔も見ずに、私は一方的にそう言い放った。
「……」
「……」
一騎は何も言わない。
私も、もう何も言わない。
私達二人の間に、重い沈黙が生まれる。
「……」
私は逸らした視線を一騎の方に向け直す。
その視線の先で一騎は――、目を泳がせ、その瞳には、僅かだが確かに涙が浮かんでいた。
「え」
私の口から驚きの声が漏れる。
雫は落ちていない。
でも、目の前の少年の瞳は、いつもより確実に濡れていた。
「いや、これは、違う。違うんだ……」
一騎は自身の顔の前に手をかざして、私の視線から顔を隠す。
「ごめん、数秒待って」
「……ああ」
私は状況をあまり飲み込めていなかったが、言われた通り数秒待つ。
その間に手の向こう側から、深呼吸する音が聞こえてくる。
そして、
「あのさ」
「なんだ」
一騎は手を下ろして、私と再び目を合わせる。
その瞳はまだ濡れていたけど、もう目は泳いでおらず、何より視線はしっかりと固定されていた。
そして、
「さっきは、変なこと言ってごめん。もうあんなことは二度と言わない。約束する」
一騎は、涙目のまま、いつもの明るい笑みを浮かべた。
私はその一騎の笑顔を見て、小さく安堵する。
理性の方では『適当に私に合わせてくれただけかも』と考えたけど、感情の方では、一騎が本気で言ってくれてると感じれたから。
……彼の笑顔で信じれてしまった辺り、私は案外チョロいのかもしれない。
そんな、益体もない事を考えながら私も目の前の男に釣られて笑みを浮かべる。
「それなら、良かった。助かる」
私はそう言いながら、鞄を持ち直す。
「立ち止まらせて悪かった。行こっか」
「ああ、そうだな」
私達は、再び足を揃えて歩き出す。
そこからは、いつも通りの、お喋りしながら歩く二人っきりの帰り道だった。
――彼が先の話題を口にすることは、もう二度と無かった。