第五章 悪意の襲来
第五章 悪意の襲来
2034年4月
1
「紅音さん、トロピカルフルーツスペシャルサンドスプリングパージョンって知ってますか!?」
「トロピ……なんだって?」
「トロピカルフルーツスペシャルサンドスプリングパージョンです!」
雲林院葉月はニッコリと嬉しそうに笑いながら、隣で運転している先輩――月原紅音に長ったらしいサンドイッチの商品名を答える。
「今流行りのフルーツサンドで、予約が必須なほどの人気ぶりなんですよ!フルーツ盛りだくさんなんですって、仕事終わりで食べたら絶対に美味しいと思ってこの後本部に届くよう予約してるんですよ!何切れか注文してるんで、気が早いですが仕事終わったあとに紅音さんもお一つどうですか!?」
「……仕事終わりにありがたく頂こう。だからというわけではないが、これからの街中の鵺狩りで無理はするなよ?」
元気よく捲し立てる葉月の勢いに押されれつつも紅音は、ARSSの先輩として葉月に注意を促す。
「はい、わかってます!」
紅音の言葉に、葉月はニパっと明るい笑顔を浮かべる。
――二人は今、ロサンゼルス郊外に出現した(誕生した)鵺に対処するため、その該当の地区に紅音の運転で向かっている最中だった。
そして、今回は基本的に最初から最後まで葉月一人で対処することになっていた。
それはつまり、『紅音という先輩が、今の葉月なら通常の鵺ぐらい一人で倒せると認めた』という意味に他ならない。
故に、先程から葉月のテンションが少しばかり上がっているのだった。
「期待に応えられるよう頑張ります!」
というか、元気溌溂だった。
隣で運転する先輩はその後輩の様子を横目に見ながら、ふと以前のことを思い出して小さく笑う。
今二人は車で現場に向かっている……つまりはランプを点灯させて法定速度を振り切っていることを意味し、今現在は時速200キロを超えていた。
しかし、紅音と葉月がコンビを組んでからこれで四回目の『仕事』だ。
最初の一回目では助手席から悲鳴が聞こえてきたものだが、四回目にしてもう慣れてきたらしい。
なのに、今度は恐怖からではなくハイテンション故に騒いでいて、どう転んでも元気に騒ぐ葉月に対し『楽しい奴だな』だと思ったため、紅音は小さく笑みを浮かべたのだ。
「……?」
葉月は笑みを浮かべる紅音を不思議に思い小首を傾げる。
しかし、その直後何か閃いたように顔を明るくして、
「あ、紅音さんも仕事終わりのフルーツサンドが楽しみなんですね?わかります、私もそうですから!」
葉月は見当違いのことを口に出した。
紅音は一瞬目を丸くしたあと、
「……そうだな。確かに、楽しみだ」
紅音は後輩の言葉を否定せず、優しい口調でそう答えた。
2
ところで、ARSS U.S.A.本部には、雲林院葉月と同タイミングで日本本部から出向してきたアーベントがもう一人いる。
百鬼円。
日本では葉月とチームを組んでいたこともある下級の少女だ。
彼女も彼女で、葉月とは別の任務でU.S.A.本部に出向していた。
その任務の内容は、とある犯罪者アーベントの討伐。
アーベントは固有の特殊能力を持ってるが故に、犯罪者アーベントの扱いは鵺に対するものと大して変わらず、対処するのは警察ではなくARSSのアーベントとなっている。
『扱いが鵺に対するものと大して変わらない』ということは、『駆除』することすら許可されているということだ。
だが、そうは言っても相手は人間。
理性と知恵を持つ分鵺より厄介な上、鵺とは違って生物学上では同種にあたる相手だ。
能力的にも精神的にも、犯罪者アーベント……通称『札付き』討伐任務の適任者は決して多くない。
円という十五歳程度の若い少女は、そんな少ない適任者の一人だった。
「円ちゃーん。そっちに鵺が行ったよー」
「わかってます」
だとしても、ARSSのアーベントの主な任務が鵺狩りであることには変わらない。
百鬼円が現在所属しているチームはとある『札付き』を捕縛または討伐するために組まれたチームではあるが、円達のチームのすぐ側で鵺が現れたときには、そのまま円達が倒していた。
「……」
真っ直ぐこちらに突っ込んでくる、孔雀もどきの羽を付けた巨大ミミズのような鵺に対し、円は冷ややかな目を向ける。
直後、
「……お疲れさん」
円は日本語でそう呟きながら、穂先が五つに分かれた緑色の槍を力強く突き刺していた。
すると、
「はい、お終い」
目の前のミミズ型の鵺は内側から爆発し、欠片が辺り一面に散らばった。
『翠撃槍』。
刃から生まれる振動で敵を切り裂き、刃から放たれる衝撃波で刺した敵の内側から粉々にする強力な異能の槍である。
この特殊な槍を創造するのが円の固有能力――というわけではない。
いや、ある意味においてはそうなのだが、この異能の槍はあくまで『戦利品』の一つだった。
「それにしても円ちゃんの能力って本当すごいよねー。流石『共喰い』って言ったところかな」
「……褒め言葉として受け取っておきます」
百鬼円は丁寧で流暢な英語でそう返事した直後、手持ち無沙汰気味にクルクルと回していた異能の槍を空気に溶けるように消滅させた。
『共喰い』。
それは、百鬼円の能力とそれに付随する戦闘スタイルから付いた二つ名だった。
彼女の本当の固有能力は『死の弁償法』と言い、その内容は一言で言うと『不死』なのだが、他のアーベントによって致命傷を負わされた場合に限り致命傷を与えてきたアーベントから固有能力……『変身能力』『念動力』『武器創造』などを種類問わず奪い取れるという、アーベントに対して絶大な威力を誇る副次効果があった。
ただ致命傷からの回復時に、致命傷が大きければ大きいほど回復速度に遅れが出るため、試したことが無いのでわからない……というより試したくないが、一瞬で粉々になるような死に方をすれば本当の意味で死ぬ可能性も決して低くないだろう。
とはいえ、アーベントの能力の中では格別に強い部類に入る……もっと言うならトップクラスに入るのは間違いなく、『対アーベント』に秀でた能力ゆえに『札付き』討伐任務において円は最適な人材と言える。
そして、その任務の特殊性により一人で日本のあちこちに行くことが多かった円だが、ここU.S.A.本部では珍しく下級四人による通常のチーム編成を組まされていた。
(流石、大国のU.S.A.って言ったところやっちゃなぁ。自分以外にもこんなに集められるとは思わんかったわ)
円は心の中で、使い慣れた日本語で小さく呟く。
最も、任される任務の特殊性から全国各地を転々としていたこともあって、彼女の日本語は各地の方言がごちゃ混ぜになった奇怪なものであったが。
「……さっきのリーダーの言葉は褒め言葉以外何もないと僕は思うぞ、百鬼」
百鬼円は自分のことを『共喰い』と呼んだチームリーダーから目を離して、声がした方に視線を向ける。
声の主の名前はセオドア=ライト。
褐色の肌に中性的な雰囲気を纏わせた十五歳の少年で、固有能力に毒爪『結晶手疵』を持つ。
彼の毒は鵺にもアーベントにも有用で、鵺狩りと『札付き』討伐、どちらにおいてもかなりの実力者と言える。
だが、それゆえにプライドが高く、何かにつけては円に突っかかってくることが多かった。
「……『共喰い』の名は忌み名として呼ばれることもありまして、それでつい」
しかし、円は余裕の笑みを浮かべて肩を落としてみせるだけだ。
そんな自信に満ち溢れている態度の少女に、セオドアは苛つきと少しばかりの羨望を覚える。
そんな自身の内心を見透かされたくなくて、少年は円から顔を背ける。
直後、別の方向から、
「先程のトドメもそうですが、確かに百鬼さんはワタシ達下級の中でも飛び抜けて強いです。とは言っても、もう少しチームプレイした方が良いとワタシは思うのです」
金髪を三つ編みにした同僚の少女――レベッカ=ハートホールが先程の円をそう窘めた。
「一撃で殺せそうでしたから。だったらもう倒した方が良いですよね?」
「反省のポーズすら取らないですか、アナタは」
レベッカは暗い表情のままボソッと呟く。
表面上では不機嫌ではあるが、実際はそうではないことを百鬼円は知っていた。
デフォルトがこの表情らしく、初めて会った一週間以上前からずっとこんな感じだった。
と言っても威圧感があるとかは決してなく、むしろ十三歳程度の幼顔でやられても可愛らしいだけだ。
……初めてレベッカに会ったとき、円は心の中で『初等学校を卒業したばかりの少女に、「札付き」討伐――要は人殺し任務が務まるのだろうか?』と自身も十五であることを棚に上げて疑問に思っていたが、ここ一週間強の付き合いで問題は全くないことがわかった。
彼女には、武具の重さを変え破壊力を増させる固有能力『掌の愛』の威力と、それを振るうに足る強い精神性を持ち合わせている。
「ほらほら三人ともじゃれ合わないの。まだ仕事中ー」
おっとりとした声が三人に向けられる。
注意しているにも関わらず、どこか緩さが残っている喋り方をする少女の名はルビィ=エバンス。
赤く長い髪を後ろで結んでいる彼女の歳は十九……つまり円達のチームでは最年長であるため、自然とルビィが円達のリーダーになっていた。
実際、円から見て自分達は寄せ集めチームとしか思えないので、穏やかだがしっかり者のルビィがリーダーで良かったと思っていた。
……そんな彼女も、戦闘になると変形する炎『業の纏火』で敵を燃やし尽くす強力な異能者と化すのだから侮れない。
人は見かけによらないのお手本のようなリーダーだった。
そんなリーダーに対して円は、
「そうは言っても、複数の殺人の容疑がかけられている札付き……『鉄鋼』の影も形も見つかってないです。ここ一週間のあちこちで捜査しましたが、手掛かりはゼロでした。……忌々しいことに」
円は最後の一言をボソリと付け加える。
『人を殺すようなアーベントが今も平気で街を歩いているかもしれない』という事実が、これ以上なく『共喰い』の異名を持つ少女を苛つかせた。
「あ、そっちじゃなくて」
リーダーのルビィは、そんな円の様子には触れず、自身の携帯端末を操作する。
「なんかこの近くでもう一体鵺が現れてそれを倒さなきゃいけなくて……あ、もう既に他のチームが当たってるみたい」
「……そうですか。ちなみに、どこのチームなんです?」
円はそうルビィに尋ねるが、つい反射的に聞いてしまっただけで、実際の所どこのチームが動いているかなんて興味なかったし、それ以前に、U.S.A.本部に出向したばかりの円が知ってるアーベントの名前なんて極僅かだ。
その名前がピンポイントで出てくることなんてないだろう。
しかし、
「それがなんと、月原紅音さんと雲林院葉月ちゃんのデュエットのチームだってさー」
まさかのピンポイントど真ん中だった。
前者は有名ゆえに知っていて、後者の方はU.S.A.に来る以前に『鵺狩り』の方の任務で一時組んだことがある直接の知り合いだ。
円が驚きで目を見開きていると、隣りに立つ常に暗い表情を浮かべているレベッカが、
「え、葉月ちゃんが近くで仕事してるんですか?」
珍しくいつもより若干テンションを上げていた。
円がそんなレベッカを不思議に思っていると、
「……ああ、あのうるさい女か」
プライドが高い少年セオドアがボソリとそう呟いた。
それは、明らかに雲林院葉月という人間を知っている者の反応だった。
まだ葉月がこっちに来てから一週間と少ししか経っていないはずなのに。
(……交友関係広過ぎやろ)
以前から思っていたが、あの少女は知り合い及び友達を作るスピードが速過ぎる。
「そう、葉月ちゃんが仕事してるみたいなの。……みんなで見に行かない?もしかしたら、あの月原紅音さんの戦闘を見れるかもしれないし」
「……?ルビィは元々どこか別の州の支部じゃなくて、本部の所属ですよね?それでも月原紅音の戦闘を見た事が無いんですか?」
「うん。だって、見学しようと思っても、月原さんは一瞬で仕事を終わらせるから、向かって辿り着く頃にはすべてが終わってるからさー」
「なるほど」
しかし、それは月原紅音が独りで動いていたときの場合の話だ。
今回は雲林院葉月という相方が居る。
そして、数日前に円は彼女から直接『街に現れる鵺相手に実戦演習を行っている』という話を聞いていた。
恐らく今行われているのもその一環で、葉月の固有能力の特性を考えるに、最終的には月原紅音が止めを刺すのだろう。
……。
「少し、見てみたいですね」
「円ちゃんならそう言ってくれると思ってた。……セオドア君もそれでいい?」
「……まぁ、別に僕も見たくないわけじゃないしな。だからと言って積極的に見たいわけでもないが、みんなが行きたいんだったら付き合う」
「ありがと。じゃあ、車で数分ぐらいだし、早く乗ってー」
ルビィは明らかに行く気満々のレベッカには一々意思の確認を取らず、少し離れたところに置いてある赤いミニバンに鍵を向け解錠する。
そしてそのまま、円達は流れるようにその車に乗り込んだ。
3
『そういえば、紅音さんって法臓持ちの鵺でも一撃で倒してますけど、どうやって法臓の位置を特定してるんですか?』
今から数日前のお昼過ぎ、葉月は目の前に座ってカリフォルニアサーモンラーメンなるものを一緒に食べてくれている(葉月が強引に誘った)先輩にそう問いかけた。
『……ああ、それか』
紅音は小麦粉とサーモンの二種類の麺を咀嚼し飲み込むと、目の前の少女の疑問に答えるために口を開く。
『答えは勘だ。……と言っても、それは当てずっぽうって意味ではない』
そう言うと紅音は、テーブルの上に置いてある小さいコップを手に取って、勢いよく水を飲んだ。
中身を一瞬で飲み終わらせた紅音は、手に持つコップをトンと音を立てながらテーブルに置き、答えの続きを口にする。
『今まで鵺を倒してきた経験によって培った無意識の経験則……という意味での「勘」だ。それに、私は能力で五感がかなり鋭くしていることもあって、目の前の鵺の法臓の位置が自然と理解できる。勿論、一発では外す時もあるが、何発か斬撃を放てばなんとなくわかる』
『はへー……。すごいです』
葉月はただただ感心するばかりだ。
『でも、やっぱり経験って重要なんですね。一朝一夕では難しそうです』
『こればかりはそうだろうな。ただ、大体の傾向は教えられる。……葉月、法臓がある可能性が最も高い位置はどこだか知っているか?』
『体の中心点付近ですよね。そこ以外だったら完全なランダムだとアーベント成り立ての時に習いました』
『それで正解だ。だが、私の経験上、中心点以外だとしても完全なランダムじゃない』
『……そうなんですか?』
『ああ。サンプル記録が少ないし、範囲が広いからあまり知られてないかもしれないがな』
そう言いながら紅音は自らの胸元に手を持っていき、
『「体の中心点で交差した、正中線と垂直の横線」。その二つの線が、体の中心点の次に狙うべき場所だ』
まるで敬虔な信徒であるかのように、素早く十字を切った。
現在。
(とりあえず、体の中心点に法臓は無かった!)
葉月がU.S.A.本部に来てからの四回目の実戦。
影胞子の黒い霧が覆われた街の中、住民は全員避難しており、動くものを全てを破壊する怪物――鵺と対峙していた。
(でも、通じてる。私の攻撃がこの鵺に通じてる!)
ついこの前紅音から受けた訓練の成果がもう現れている。
目の前の鵺は、全身鱗に覆われた全長三メートルのクマ型で、強さは一回目の実戦でのゴリラ型と大差はない。
しかし、前までは鵺に拳を当てても表面を削るばかりだったのに対し、今は鵺の肉体を抉るまでの威力になっていた。
(次はどこを狙……来るッ!)
葉月は後ろに大きくジャンプする。
すると、葉月が先程まで立っていた所が爆発した。
(相手の鵺は『爆炎』の法臓持ちで、口から爆発する炎を吐く。威力はコンクリートを粉々できるぐらいあるけど、発動がかなり遅い、鵺の影胞子の『揺らぎ』を見るだけで簡単に避けるタイミングは掴める!)
葉月はそのまま、クマ型の鵺を中心に円を描くように駆ける。
鵺はそんな少女に向けて爆炎を放つが、
(だから、横に動けばほぼ確実に当たらない。後ろから爆発音が聞こえるのは怖いけど!)
だが、円を描くように走るだけでは鵺に攻撃は当たらない。
だから。
(……!ここ!)
鵺が体の向き変え不安定な体勢を取るのと同時に、葉月は直角に曲がると、一気に全速力まで加速させ、そのまま鵺に突撃する。
「……ッ!!」
その凄まじい勢いのまま、鵺の腹を足の裏で思いきり打ち込み、クマ型の鵺は二メートルほど吹き飛んだ。
「よし!」
葉月は軽くガッツポーズを浮かべる。
クマ型の鵺の腹には大きな穴が空いてる。
もしそこに法臓が有ったら、目の前の鱗だらけの熊もどきは消滅する。
しかし、
「違うかぁ……」
クマ型の鵺の腹の穴をみるみると塞ぎ、怒りの唸り声のようなものを漏らしている。
恐らく、いや確実に数秒後には『爆炎』が飛んでくるだろう。
(あんな遅い攻撃当たるわけない。でも、万が一ってこともあるし、ちょっとした小さいミスか何かの加減で当たっちゃったら、結構なダメージになりそう)
なら、その前に法臓を見つけて破壊しなければ。
とは言っても、体力のペース配分……は葉月には『生命奔流』によってスタミナは好きなだけ回復するので考えなくてもいいが、影胞子のエネルギー残量は考える必要がある。
そして、今は余裕だが、もし時間かければ少しキツくなるかもしれない。
だから、効率良く法臓を探さなければならない。
とりあえず中心点とそのやや下は外れだった。
なら、葉月が次に狙うべき場所は――。
4
「あれ、葉月ちゃんって結構動ける子だったんだ。能力が支援向きだからてっきりバックアップ専門かと思ってたー」
赤い髪のチームリーダー、ルビィ=エバンスは、少し離れたところから戦っている葉月を見て感心したようにそう呟いた。
横でそれを聞いていた百鬼円は特に返事をしなかったが、ルビィとほとんど同じ感想を抱いていた。
というよりむしろ、以前の葉月を知っている分、驚きはここに居る誰もよりも大きかった。
(……葉月の影胞子操作の筋は悪くない方やった。自分が教えたこともよく吸収してたしなぁ。だけど、飛び抜けて良いわけでもなかったはず。それがこんな急成長してるなんて驚きやわ)
円の視線の先に居る葉月はクマ型のの鵺の腹をぶち抜くと、鵺から距離を取った。
(もう下級の中ではトップクラス、下手したら中級の下の方程度には威力あるんちゃう?中々のもんやね)
だけど、決定打が足りない。
いくら影胞子操作能力が高くても、葉月の固有能力は攻撃系ではないからだ。
(ここから法臓の位置探して壊すのが大変。自分だったら一々探さなくても、あの程度の鵺ならとりあえず上半身消し飛ばして、そこに法臓が無かったら下半身を消し飛ばしてお終いなんだけど、葉月にできるのは拳か脚での突き、しかも身体強化系の固有能力じゃなくて、あくまでアーベント共通能力の影胞子操作で強化した拳。一発でそんなに吹き飛ばすのは、いくら葉月が成長したと言っても不可能)
ただ、そんなこと葉月本人が一番わかっているはずだ。
(葉月の影胞子操作能力は上がっても、影胞子の総量自体は大して変わってない。なら、エネルギーのガス欠を考えると効率良く法臓を探し当てなくちゃならんねぇ)
葉月は今、鵺と一メートルも離れていない超近距離で鵺の鉤爪を俊敏に躱している。
鵺の大きな口に目の焦点を合わせながら。
(だから、余裕があるうちに、難しい場所はさっさと調べておく必要がある)
クマ型の鵺の口周りに、火の粉のようなものがパチパチと生まれる。
直後、目の前の葉月に向かって爆炎が放たれる。
しかし、それは葉月が鉤爪を躱しながら待っていたものだった。
(早めに狙うべき最も危険かつ、最も難しい場所。それは)
葉月は三メートルの高さから爆炎が放たれるのと同時にその場で大きく踏み込む。
そして、爆炎が地上に到達する頃には、葉月はある場所に向かって跳んでいた。
その場所は。
三メートル越すクマ型の鵺の頭上。
『爆炎』の起点となり、下手したら超至近距離で吹き飛ばされるその場所へ、葉月は跳び上がっていた。
(そう、それが最適解。見たところあの鵺の法臓は連射性が低いから、攻撃を放った直後のタイミングで一番危険かつ一番難しい頭を狙うのがベター)
葉月はその場で鵺の頭を左手で掴み、逆立ちのような体勢を取る。
ジャンプした勢いが残っているため体勢は不安定だったが、一、二秒保てればそれでいい。
鵺の頭を殴り飛ばす時間が有れば、それでいい。
「……!」
クマ型の鵺が目の前の少女が消えたため動きを止めている中、その少女は鵺の頭上で右拳を握り締める。
そして、
「……ハァッ!!」
その拳を鵺の頭に向かって突き出し、その頭を吹き飛ばした。
葉月が左手で支えとしていたものが消し飛んだため、葉月はそのまま地面に落下する。
流れるように少女は地面を蹴り、油断なく鵺から距離を取り、鵺の様子を伺う。
その直後、
「……っやった!」
葉月の体からようやく緊張が抜ける。
なぜなら、目の前の鵺が綺麗さっぱり消滅したからだ。
先程のクマのような鵺の法臓は頭部にあったようだった。
だから、これで今回の戦闘はお終い。
葉月本人も見ていた円達も全員そう思った、丁度その瞬間だった。
(……は!?)
葉月の十メートルの後方の草むらから、直径一メートルはあるボールが飛び出してきた。
いや、あれはボールではない。
飛び出してきたのは――
(別の鵺やと!?この辺りの鵺はさっきのクマもどきで最後のはずやろ!?)
鵺ほどの影胞子の塊を、自分が見逃すわけがない。
ということはつまり、
(まだこの辺りは霧が晴れていない。つまり、コイツはほんの一秒前かそこらで誕生したばかりの鵺!)
現在この霧の中に、アーベントではない人間――つまりは影胞子に耐性が無く、簡単に鵺になってしまう人間は一人も居ない。
しかし、何も鵺になるのは人間だけではない。
同じ条件で一番鵺化しやすいのが人間というだけであって、犬や猫の哺乳類、果てには鳩やトカゲなどの鳥類・爬虫類も鵺となり得る……というより、避難誘導に従わない分、全体数で言うと人間以外の動物が鵺になるパターンの方が多い。
今ここに現れた鵺は、草むらに居た鼠か何かが鵺になったものだろう。
(葉月の奴は……ダメだ、気付いてない!)
葉月は後ろから迫り来るボール状の鵺に気付いていない。
今から呼びかけて葉月に逃げてもらう時間はない。
(間に合うか……!)
円はかつての任務の『戦利品』の一つである『掌から光弾を放つ能力』をボール状の鵺に向ける。
円の掌から光弾が放たれる、その直前。
直径一メートルのボール状の鵺は、綺麗に真っ二つに切断された。
「……!」
円が目を見開く中、真っ二つになった鵺は宙に溶けるように消滅する。
『法臓持ち』だったのかどうかすらわからないが、とにかく倒されたようだ。
円は待機中だった『光弾』を手の中で消滅させて、鵺が切断された場所――正確には、鵺を切断した人物に目を遣った。
その視線の先にいるのは、白い髪を煌めかせる赤眼の女。
月原紅音。
彼女は鵺を切断させた血の刀を虚空に溶けるように消滅させると、数メートル離れて呆然としている雲林院葉月に向けて歩みを進める。
「……葉月、危なかったな。怪我は無いよな?」
「あ、はい、おかげさまで。……今の、鵺でしたよね?一体どこから……」
「葉月がさっきの三メートルほどのクマ型の鵺を討伐した瞬間に誕生した鵺だ、気付かなくても無理はない。ただ、『霧』の中に居る時はああいうこともあるから、『霧』が晴れてない内は気を引き締めておけ」
紅音がそう言うのと同時に、街を覆っていた影胞子の霧が空気に溶けるように消滅した。
常に霧が消えない鵺の巣以外で突発的に発生した霧は、基本的には長くても一時間程度しか存在できない。
「……だから、今はもう気を緩ませて構わない。単独討伐、よくやったな葉月」
「……えっと、素直に喜んでいいんですよね?」
「ああ、勿論」
「じゃあ…………やった!!!!」
葉月は満面の笑みで拳を握り締め、大きくガッツポーズを取る。
紅音はそれを微笑ましげに眺めていた。
その二人のもとに、
「葉月ちゃんって結構戦えるんですね、ワタシ結構ビックリしました」
円達の『札付き』討伐チーム内において最年少の三つ編み金髪少女、レベッカ=ハートホールと、
「私も驚いたー。かっこよかったよ、お疲れ様ー」
おっとりしているチームリーダー、ルビィ=エバンスが駆け寄って行った。
「あれ、二人ともこの辺に居たの……っていうか、さっきの観てたの?恥ずかしいなー」
葉月は頬に手を当てながら、ついといった感じに照れ笑いを浮かべる。
「……葉月、この二人はお前の友達か?」
紅音が小首を傾げながら葉月に尋ねる。
「あ、はい!二人とも、私がこっちに来てすぐ仲良くなってくれた友達です!」
葉月はそう言いながら、まるで紹介するように二人に手を向ける。
「ルビィ=エバンスです」
「……レベッカ=ハートホール、です」
紅音の『噂』でも聞いたことあるのか、二人は体を硬くしながら名乗る。
それに対して紅音は、
「月原紅音だ」
とだけ返事をした。
……本当は、『葉月とこれからも仲良くしてくれ』と続けようと思ったのだが、それは余計なお世話だろうと思い、白い女は口を噤み、必要なことのみ言葉にする。
「葉月、彼女達と話していきたいだろ?私は先に車に戻っているから、話が終わったら来てくれ。……多分、私は寝ていると思うから、もしそうだったら遠慮なく起こしてくれて構わない」
「あ、はい!ありがとうございます!」
「礼には及ばない。休憩が必要だと思っていたところだしな」
そう言うと、紅音は三人の少女から距離取り、宣言通り車に戻って行った。
百鬼円はその光景を、葉月達から少し離れたところから一人眺めていた。
(『復讐姫』月原紅音。思ったよりフレンドリーなんやね)
円は意外感を覚えながら、なんとなく左隣に立つ同い年の少年セオドア=ライトに目を向ける。
そのセオドアはどこかとビデオ通話しているようで、
「……オリヴィア、僕だ、セオドア兄ちゃんだ。家で良い子にしてたか?……そうか、オリヴィアは偉いな、流石僕の自慢の妹だ。……ん?ああ、今ちょっと仕事の合間が、それで電話をかけた。……わかってる、今日もできる限りに早く帰るから、その後は一緒に遊べる。だから、それまで待っててくれ。な?」
普段のプライドの高い彼には似合わぬ、甘ったるい声を出していた。
(またか)
円は失笑のようなものを浮かべる。
セオドアには四歳になったばかりの幼い妹がいるらしく、時間を見つけては電話をかけていた。
妹に優しく甘く話しかけるその様子はチームメンバー全員が何度も見かけており、セオドアはチームの中で『クールそうに見えて家族想いなのは良いことだよね。シスコンだけど』という位置付けになっていた。
円は左隣のセオドアから視線を外し、右隣の方を見る。
そこには、紫色の髪を短く整えた大柄な女性が立っていた。
「こっちに来ていたんですね、ラッセルさん」
ゾフィア=ラッセル。
百鬼円が所属する下級の四人組の上司に当たる中級アーベントだ。
基本的にゾフィアは円達に指令を出し、彼女は円達と別方面から単独で『札付き』を追っているのだが、情報共有の意味を兼ねて定期的に合流しており、今もその時だった。
「ああ。お前達がここに来てることは位置情報でわかったから来たのだが、今は休憩中のようだな」
「ええ。ご覧の通り」
円は肩をすくめてみせる。
そんな円に対してゾフィア=ラッセルは、
「それで、お前達の方で収穫は?」
「残念ながら無しです。僅かな影胞子の残滓すら見つけられませんでした。ラッセルさんの方は?」
「私の方は少しあった。ロス市警に当たってみたら、通常の強盗殺人で処理されていた事件に『鉄鋼』が関わってる可能性が浮上した。その事件の詳細は……まぁ、あいつらの休憩が終わってからにするか」
「そうですね」
円は視線を他のメンバーに向ける。
ルビィとレベッカは葉月と世間話に花を咲かせており、セオドアは最愛の妹と楽しそうにビデオ通話していた。
「それで、どうだった?」
ゾフィアは隣に立つ円にそう問いかける。
「どうだった、とは?」
「お前達がここに来たのは、あそこに居る顔見知りに逢うためだけではなく、月原紅音の戦闘の見学だろう?その感想を聞いたのだ」
「……なるほど、そういうことですか」
円は視線を何も無い地面に――正確には、先程月原紅音が鵺を両断した場所に目を向ける。
「新しく思う所はあまり無いですね。本部で偶然見かけたときと、大して変わらないです」
そう、百鬼円は月原紅音を見るのはこれが初めてではない。
U.S.A.本部に出向して初日、円は遠目に紅音を見たのだ。
その時、円は。
人の形をした『怪物』が居ると、本気でそう思った。
あの時のことを思い出すと、今でも震えそうになる。
見た目は、白い髪を輝かせる美しい女だった。
だが、その女が誰もが認める人間離れした美貌の持ち主だったとはいえ、『人間離れ』という言葉はあくまで比喩表現であって実際の姿形は人間そのもの。
にも関わらず、彼女の体内に在る影胞子密度の異様な高さが、あまりにも非現実的だった。
――影胞子とは、生物を鵺に変化させる超常のウィルスであるのと同時に、アーベントの特殊能力のエネルギー源でもある。
アーベントはその影胞子を多かれ少なかれ体内に抱えており、一般的に多ければ多いほどアーベントとしての能力は強くなる。
そして、円の固有能力『死の弁償法』は相手の能力を奪い取る……つまり、『相手の影胞子の性質を失わせ、自身にコピーする』という仕様上、円は影胞子の察知能力に非常に長けていた。
だから、月原紅音という女が普通ではないことがわかった。
通常、アーベントの体内にある影胞子は身体中に霧のように揺らぎながら点在している。
だが、月原紅音は違う。
影胞子が霧のような不定形では無く、完璧な人型に圧し固められている。
その影胞子の形は視線の先にいる女の形と全く同じで、その完璧ぶりは『人型の影胞子に人の皮を被せた』と言われても信じてまうほどだった。
影胞子の怪物『鵺』でさえ多少は自身の影胞子を霧のように揺らしているというのに、彼女はアーベントとはいえあくまで人間であるにも関わらず、本来生まれるはずの多少の揺らぎすらも完璧に支配下に置いていた。
しかも、その影胞子の密度・濃度は数十メートル離れていてもを吐き気を催すほど濃いもの。
そんなことは、円のアーベント歴が決して長くないとはいえ、初めてのことだった。
「……」
……百鬼円は数分前、ここで起きた出来事を思い出す。
月原紅音は急に現れた鵺に対し、その場に居る誰よりも最速かつ的確に対応した。
それは確かに凄いことではあるが、彼女が持つ影胞子の量と操作精度を考えると当然の結果だろう。
だから、ゾフィアに『どうだった?』と聞かれた円は『新しく思うところはない』という答えになる。
その答えは聞いたゾフィアは、
「……そうか」
短くそう言うだけだった。
「……喉が渇いたから、何か買ってくる。百鬼は何かいるか?」
「……では、ブラックコーヒーを一つ」
「そうか、では買ってこよう。……私が戻ってくるまでには『休憩』終わらせとけよ?」
「了解しました」
その会話を最後に、ゾフィアは近くの喫茶店に向かって歩みを進めた。
円は一人、空を見上げて想いに耽る。
その思いの内容とは、
(あの時、初めて彼女を見た時の自分の感覚は間違ってなかった)
既にある程度予想していたことではあったが、実際の戦闘を見た今、認めざるを得ない。
月原紅音というアーベントは、明らかに自分より強いと。
(こんなん初めてやわぁ)
アーベントになってから初めて『殺せない』と思うアーベントと出会った。
……今まで円は、自分より強いと思えるアーベントと出会ったことがなかった。
それは位が上の相手でも例外ではなく、さっきまで一緒に居た中級のゾフィアに対しても『実戦を自分より多く積んでいる』ことに尊敬こそしても、『戦っても勝てない』などとは露ほども思っていなかった。
だから、心の中で、百鬼円は自身こそ最も強いアーベントだと考えていたのだ。
そう、本気で思っていたのだ。
月原紅音をその目で見るまでは。
(アーベントは影胞子を操るとはいえ、あれは行き過ぎ。普通、多少は霧のように揺らめくところを完璧に制御してるから、影胞子が彼女の体の中で完全な人型になってるってことなんやろ。あんだけの高濃度の影胞子を完璧に操るなんて化け物としか言いようがないけえ。そんな怪物から能力を……影胞子の特性を奪い取るのは……まぁ、無理やろうねえ)
自分では、勝てない。
そんな相手が存在するなんて考えもしなかった。
そのことに強い衝撃を受けた円は全身を震わせる。
その彼女の顔は、
(良いねぇ)
誕生日を迎えた子供のような、楽しそうな笑顔だった。
(今は勝てないやろうなぁ。でも、いつかは絶対あの域に辿り着いてみせる。そんな目標をここで見つけられた自分は幸運やねぇ。ははっ)
初めての武者震い。
初めての畏怖。
そんな感情を抱かせてくれた月原紅音に感謝して、円は一人獰猛に笑った。
後に、百鬼円は『目標』を見つけたことにより以前にも増して凄まじい速度で数多の戦功を挙げることになる。
そして、四年後には十九歳という異例の若さで上級に昇格し、ARSS日本本部長の座を手にすることになるのだが、それはまた別のお話。
5
「紅音さん、注文していたトロピカルフルーツスペシャルサンドスプリングパージョンが届いたんですけど、お一つどうですか!?」
雲林院葉月はニッコリと嬉しそうに笑いながら、目の前の先輩――月原紅音に長ったらしいサンドイッチを勧める。
今は紅音と組んでから四回目になる実戦が終わって、本部で事務手続きを済ませてから引き上がるかどうかというタイミングだった。
葉月は今のこの時間に合わせて宅配を頼んでおり、指定通りにフルーツサンドが目の前に届いたため、テンション高く舞い上がっているのだ。
「……それ、確か移動中に言ってたヤツだよな」
「はい、そうです!いやー、これ、本当に楽しみにしてたんですよ。この前こっちでできた友達から聞いた時すぐに食べたいと思ったけど、すぐ食べてしまったら文字通りなんか味気ない。なら、仕事で一番疲れた時に食べるのが一番美味しいだろう!そう思って注文してたんですけど、遅れないで良かった、良かった。あ、さっきも言った通り、紅音さんの分もあるのでどうぞ、一緒に食べましょう??」
「ああ、そういう約束だったしな。言葉に甘えて、ありがたく頂こう」
興奮のあまり早口になってる葉月に対し、紅音は引くことは無くいつも通りクールだった。
食べ物で興奮する葉月に、慣れ始めてきたのだろう。
そんな先輩と後輩はフリースペースに移動し、お茶の用意をする。
「いただきまーす」
葉月は席に着くな否や、箱からフルーツサンドを取り出して、大口でかぶり付く。
「では、一つもらうぞ」
紅音も箱からフルーツサンドを一つ取り出して、端の方を大きく齧る。
……これは。
「これ、美味しいですね!生クリームに大きくカットされたフルーツってやっぱり合いますよね!」
「ああ、そうだな」
紅音は満足そうに頷く。
マンゴーやら苺やらがふんだんに入れられており、それらの果実の食感と甘味が生クリームに包まれることでスイーツのような様相を呈していた。
「……最近食べていなかったから忘れかけていたが、こういう甘いスイーツ、私も結構好きだったことを思い出した。つまり、それぐらい美味しい」
「え、本当ですか?喜んでもらえて良かったです!」
「いや、こちらこそありがとう」
紅音と葉月はパクパクと、勢いよくフルーツサンドを食べる。
数十秒後には、二人の手からフルーツサンドは消えていた。
「……かなりのスピードで食べてしまった。飲み物もほとんど飲んでない」
「あ、私もです」
二人でほぼ同時にカップを持ち、紅茶を口の中に含ませる。
そんな時だった。
「ん?」
紅音のスカートのポケットが震える。
紅音はポケットの中に手を突っ込みと、ARSSから支給されている携帯端末を取り出し、耳に当てる。
「……ああ。……そうか、もう準備できたか。わかった、すぐに向かう」
紅音は電話を切って、携帯端末を仕舞うとそのまま立ち上がる。
「数分で済む用だが、今から資材部に行ってくる。葉月はそうだな……もう上がっていいぞ。休むなり学校のカリキュラムを消化するなり遊ぶなり好きに過ごしてくれ」
「わかりましたー」
葉月の返答を受けた紅音は、テーブルに置いてあったカップを持ち、残っていた紅茶を一気に飲み干す。
「ご馳走様。フルーツサンド、美味しかった」
紅音は早口にそう言って、そのまま足早にフリースペースを去って行った。
「……」
葉月は紅音が出ていった扉をジッと見つめながら、紅茶を啜る。
(いきなり暇になったなぁ)
そんなことをミルクたっぷり入れた紅茶をゆっくりと味わいながら考える。
……本当はオンラインでしなければいけない学校のカリキュラムとかアーベントの勉強とかやらなきゃいけないことは山のようにあったのだが、それは完全に無視していた。
今日、『実戦』が終わったあとは上がりになることを葉月は予想しており……というか、予想していたからこそスイーツを注文しており、それを食べながら、あの無愛想だけどよく話を聞いてくれる美人な先輩ともっとお喋りする予定だったのに、その予定は崩れてしまった。
本当なら、予定が空いたのなら、やらなきゃいけないアレやコレやをやるべきなのだろうが、楽しい予定が潰れた直後にそれらをやる気にはなれなかった。
(本でも見よっと)
葉月は紅茶片手に、本棚の目の前に移動する。
U.S.A.本部に来た初日に紅音から『仕事から娯楽まで色んな本がある』と言われて以来、葉月は時たまフリースペースの本棚で本を物色しており、今回もまた面白い小説でもないかと思ったのだ。
(英語の小説、あまり日本で手に取ることできないしね……。今度は何読もっかなぁ)
この前読んだSF小説の続刊か、全く別の流行りらしい恋愛小説か。
そんなことを紅茶飲みながらぼんやり考えていたときだった。
「お嬢さん失礼」
横からいきなり声をかけられた。
葉月は顔をそっちに向ける。
そこには、身長が百八十は優に超えているであろう若い男が立っていた。
その男はその細身の体をオリーブグリーンのスーツで包ませ、黒いメッシュの入った鮮やかな金髪をオールバックにしていた。
「少し、話がしたいんだけど、いいかな」
その金髪の男は、柔和な笑顔を浮かべて、優しげな声色を出す。
「……はい。問題ありません」
それに対し、葉月の態度は、普段の彼女を知る者からしたら信じられないほど硬いものだった。
葉月は紅茶が入っていたカップを、これ以上ないほど緩慢な動きでテーブルの上に置く。
「あぁ、そういえば、僕が誰だか申し遅れてたね」
黒いメッシュが入った金髪の男は、足で床を勢いよく踏み、カッと音を響かせる。
そして、
「僕はARSSロシア本部長で上級アーベント序列七位の『鏖殺卿』、アーダルベルト=シュルツだ。よろしく、雲林院葉月」
金髪の男――アーダルベルトは、己の地位と名前を高らかに告げた。
上級アーベント。
それは、ARSSに所属する二十万人のアーベントの中で、アーベントを管理する側のトップ十二人を指す言葉だった。
ならば、十二のARSS本部の一つであるロシア本部で本部長を務めるアーダルベルトを目の前にした下級の葉月が硬くなるのは当然と言えば当然ではあるのだが、葉月は自分より位が上の相手でも物怖じしない性格だ。
実際、U.S.A.本部の本部長の上級アーベントと会ったときも、多少の緊張こそすれ一挙手一投足の全てが硬くなったりはしなかった。
「そう、君の名前は知ってるんだよ、雲林院葉月。君はあの月原紅音のパートナーだからね、そこそこ有名になってるんだけど、知ってた?」
アーダルベルトは柔らかい笑顔を葉月に向ける。
しかし、その笑顔の中にある金色の瞳は、決して笑っていない。
その瞳に浮かぶ感情は無い。
機械のように無機質なその瞳は、葉月の全身をまるで検査するかのように眺めており、値踏みしていることを隠そうともしていなかった。
口調と激しく乖離した視線は不気味そのもので、その視線を向けられた葉月は吐き気を催すほどの恐怖に襲われていたのだ。
「とは言っても、元々は月原紅音の方に用があったんだけど……どこに居るか、知ってる?」
しかも、アーダルベルトは、自身が持つ影胞子を葉月に向かって多少ではあるがわざと放出し、自身が抱える影胞子の量が膨大であることをわかりやすく彼女に教えていた。
別に、大した意味は無い。
『下の者には実力差を知ってもらって怯えてもらった方が話がスムーズに運ぶ』。
それがこの男、アーダルベルト=シュルツのやり方だった。
「うーん……無言は困るんだけどなぁ。これじゃあ、何もわからない」
葉月は下を向いており、震えないようにするのに精一杯だ。
影胞子をわざと放出して、ある意味では『お前なんていつでも殺せる』ことを強引に理解させてくるこの男を前にして、恐怖を覚えないわけがなかった。
そして、アーダルベルトは目の前の葉月が明らかに怯えているにも関わらず、まるでそれが目に入ってないかの如く、表面上だけは優しい笑顔で自分の都合を淡々と告げる。
下っ端の下級アーベントがどう感じようとも、アーダルベルトにとってはどうでもいいことだからだ。
ただ、それでも、
「僕の質問に答えてもらいたいんだけど?」
無言でいられるのは単純に面倒だった。
いつもなら、アーダルベルトが質問した相手は震えながらベラベラと喋るのに、この少女は無言のままだ。
……それは、『月原紅音に用がある』と言ったアーダルベルトに対して葉月が取れた精一杯の抵抗だった。
こんな男の『用』なんて、明らかにまともではない。
だから、この男を先輩に会わせないよう、葉月は『何も言わない』ことで抵抗しているのだ。
アーダルベルトはそんな無言な葉月に対して『丁寧に』抗議するが、少し考えれば自分の態度そのものが葉月を警戒させ、それで質問に答えてもらえないということは簡単にわかるはずだ。
しかし、そんなことにすら『鏖殺卿』の称号を持つ男は気付かない。
「答えないっていうんなら、じゃあもう君でいいや」
どんな形であれ抵抗されようとも、関係が無いからだ。
どうしようと、弱者は強者に蹂躙され支配されるだけ。
何も、影胞子と態度で威圧感を作るだけが支配の方法じゃない。
もっと、直接的な方法だってある。
「君のあと、月原紅音に挨拶しよう」
アーダルベルトは葉月に向かって手を伸ばす。
どんな狂気が宿っているかわかったものではないその手を。
しかし、葉月は目の前の男が纏う影胞子の圧に当てられて動けな――。
(――でも、こんなんじゃ私は――)
あともう少しで男の手が少女の肩に届く。
正に、その時だった。
「……おい、お前」
葉月の視界が、煌めく『白』に埋め尽くされる。
葉月は目の前の景色がいきなり変わったことに一瞬驚くが、その『白』を正しく認識した瞬間、強張ってた少女の全身が緩んだ。
なぜなら、その『白』は、
「私の後輩に、何しようとしていた?」
葉月が最も信頼する人の色だったからだ。
月原紅音。
赤い差し色が入った黒い装束を身に纏うその白い女は、葉月とアーダルベルトの間に強引に入り、葉月に伸ばされていた男の手首を弾いていた。
「何って、ただ遊んでいただけだよ」
アーダルベルトは弾かれた手首をさすりながら数歩下がる。
「それより、君の態度こそ何?僕は上級だよ?少し特別だからといって、中級が逆らっていい相手じゃあない。『分別』を弁えて、敬意を持て」
「お前が上級だろうがなんだろうが、知ったことか」
……今、葉月には紅音の背中しか見えない。
それでも、紅音が今までにないほど怒っているのは明らかだった。
自分の、ために。
「私の後輩を傷つける奴に払う敬意などない。さっさと失せろ」
「……もう君の態度のことは諦めるよ。とは言っても、そんな部下想い……つまりは雑魚を気にしなきゃならないような軟弱な奴とは意外だったな。最強の復讐姫という話だったのに、評判倒れで残念だ」
「お前がどう思うが、私にはどうでもいい」
葉月の目の前で、紅音が堂々と立っている。
あんな不気味な男を前にしても、先輩は一切揺るがない。
それだけで、葉月の恐怖が雪解けのように消えていった。
「ただ、私が言いたいのは一つだけだ」
だから、葉月の心に凍るような恐怖は既に無く。
「私達の前から、消えろ」
あるのは、あたたかくて柔らかな安心感だけだった。
「……どうやら、評判の全部が違うってわけではないみたいだ」
アーダルベルトは呆れたようにわざとらしく肩を落とす。
「本当なら、君を勧誘したかったんだけど、それは無理そうだね。なら、出て行くとするよ」
「……」
もう、紅音は一言も発しなかった。
そんな彼女を見てアーダルベルトは忌々しそう目を細めた直後、踵を返して大股でこの場から去って行った。
「……」
紅音はフリースペースの扉からアーダルベルトが出て行っても、しばらく扉を見つめていた。
そして、数十秒経ってようやく紅音は扉から目を逸らした。
それは、金髪の男がこの建物から出たのと同じタイミングだった。
「……葉月」
紅音は素早く振り返って、下を向いてる葉月の顔を覗き込む。
「大丈夫、だったか……?」
……葉月の体に傷も異常も何も無いことは、固有能力『血躯操作』による超人的な感覚と認識能力でわかっていた。
でも、そういう問題ではないことも、異能とは関係なくわかっていた。
「……はい」
葉月の言葉は小さかったが、頷く動作ははっきりとしていた。
その動作が力強いもので、多少の強がりこそあっても、葉月の精神もある程度回復していることがはっきりとわかる動きだった。
「そうか」
紅音はそう呟く。
そのまま『良かった』と続けそうになったが、葉月が怖い目に合ったのは明らかだったから、その一言は口に出せなかった。
だから、別の言葉を口にすることにした。
「よくやったな、葉月」
「え?」
唐突に褒められた葉月は驚きで、いつもより高い声を出してしまう。
……今は、無様にも一歩も動けなかった自分が、かっこよく助けてくれた紅音にお礼を言うべき場面のはずだ。
それなのに、なぜ目の前の先輩は微笑みを浮かべて褒めてくれたのか、意味がわからなかった。
「……もしかして、気付いてないのか?」
紅音は思わずといった感じに苦笑する。
「さっき私は、葉月とあの不快な男の間を割って入った。その間隔は元々一メートル程度しかなかったはずだ。それで、今私と自分の立っている位置を見てみろ」
「……あれ?」
葉月は首を傾げる。
今紅音は、葉月から約一メートルの距離に立っている。
一メートルしかなかった葉月とアーダルベルトの間に割って入ったのなら、触れるほど近くなければおかしいはずなのに。
「あの不快な男は、明らかに悪意を込めて葉月に手を伸ばしていた。そして、私はその手が葉月に触れる前にあの男の手を弾こうと、葉月の前に割り込んだ。だけど、私が割り込む前に、お前はきちんと動けて躱せていた。その証拠が」
紅音は自身と葉月の間に人差し指を軽く振って、
「私とお前のこの距離だ。お前は怖い敵相手でもちゃんと動けていた。だから、よくやった」
「……」
……確かに、紅音の言う通り、自分は後ろに下がっていて、アーダルベルトの手から逃れようとしてたらしい。
でも、それは、
「……後ろに下がったのは怖かったからです。ただそれだけの、情けない臆病者なんです」
「怖いと思ったことの、どこが悪いんだ?」
「……え?」
「『自分より力量がある奴が自分に敵意を持っている』。そんな状況で恐怖を感じない方が問題だと私は思うぞ。恐怖を覚えなければ無防備に強敵に突っ込んで早死にするだけだからな。……大事なのは、恐怖が湧いたかどうかじゃなくて、湧いて出た恐怖にどう対処するかだ」
自身のことを『怯えて情けない』と語る葉月に、紅音は『そんなことはない』と、淡々と語る。
「恐怖を覚えても、それでも相手に立ち向かうのか。恐怖を覚えたから、逃げるのか。どちらを選ぶのかは本人と状況次第だが、とにかく一番やってはいけないことは何もせず足を止めることだ」
紅音は喋りながら、葉月に向かって近付く。
「立ち向かうのなら、一歩前に踏み出して万が一の勝機を必ず掴め。逃げるのなら、一歩下がって応援が来るまで時間を稼げ。……お前は足を止めずに、後者をキチンとできていたよ。だから、お前は立派だったってはっきりと言える」
葉月に近付いて、紅音は葉月の頭をポンポンと軽く手を置いた。
「……紅音さんなら、例え私が動けなくても、間に合ったんじゃないですか?」
紅音の動作は子供扱いそのもので、葉月はつい拗ねたような口調になってしまう。
紅音はそんな葉月に苦笑を浮かべながら手を引っ込める。
「確かに、そうだったろう。それでも、お前がちゃんと恐怖に対応できたことに変わりはない。それに、もしの話をするのなら、例え私がもう何秒か遅れたとしても、お前が一歩だけだが確実に稼いだ時間で、割り込めただろうな」
「……」
葉月は心の底から湧き上がった嬉しさで、本人の意思とは関係なく顔を僅かに赤くする。
頬を染めるほど喜んだのは、好きな先輩に褒められたから……というのもそうだが、それが主な理由ではない。
紅音が、自分に慰めの言葉を言ってくれた。
その行為自体が、つい先程自分を守ってくれたことも含めて、紅音が自分ことを大事に思ってくれていることが痛いほどわかるから、それで途轍もなく嬉しくなったのだ。
そんな葉月からはもう明らかに恐怖は消え去っており、紅音は内心安堵する。
なので、
「……ところで、葉月。話は変わるんだが、この後時間あるか?少し手伝ってもらいたいことがあるんだが」
「全然大丈夫です!何すればいいですか!?」
葉月はガバリと顔を上げ、噛み付くように返事をする。
紅音は葉月のその生き生きとした反応を見て鷹揚に頷き、視線を上げて少し離れた場所を見る。
「助かる。では、『アレ』を片付けるのを手伝って欲しい。……あの不快な男に気付いてから、なるべく早くお前の元に辿り着こうとして、なんというか、その、勢いをつけ過ぎてしまってな」
「……」
葉月は紅音の視線を追う。
そこには、砕けたテーブルと本棚の残骸が辺り一面に散らばっていた。
6
「リリア、入るぞ」
紅音はARSS U.S.A.本部長の居室に、返事を待たずに足を踏み込む。
その部屋の中で主のリリア=ウォーカーはソファに座っており、もう既に自身の分と紅音の分のコーヒーを淹れていた。
それを見た紅音は『時間はあるか?』など無駄な問答を挟まずに、いきなり本題を切り出す。
「あの男の目的は?」
「不明です。表向きには札付きアーベントの『鉄鋼』の捕縛を目的としての渡航とのことですが、恐らく嘘でしょう。そして、紅音さんと雲林院葉月に接触したのは、あくまでついでですね。今日以上に突っかかってくることはないでしょう。当然のことながら、この建物への出禁処置は施しましたが」
「……そうか」
紅音は苦虫を潰したような顔になる。
葉月の怯えた姿を、思い出したからだ。
「ただ、それだと余計意味がわからない。あんな敵対行動を取っておいて、それがあくまでついでだと?」
「ええ。紅音さん達を突いたのはあくまでついでです。本命は、『鉄鋼』の方でしょう」
……先程、リリアはアーダルベルトの表向きの理由である『「鉄鋼」の捕縛』は恐らく嘘だと言った。
にも関わらず、『本命が「鉄鋼」』ということは、アーダルベルトの狙いは『「鉄鋼」ではあるものの、それは捕縛ではない』ということだ。
「そもそも『鉄鋼』とは何だ?名前は最近聞くが、詳細を耳にしたことがない」
「『鉄鋼』というのは、強盗殺人をしたとある女札付きの通称です。こちらで把握したキッカケになったのは、彼女が私達が追っていた札付きをリーダーとしていた窃盗団を皆殺ししたらからです。その殺された札付きは中々強いアーベントだったため、それを殺した『鉄鋼』には暫定でSランク札付きに認定をして、彼女を捕縛及び討伐するために各地からアーベントを呼び集めました」
「……なるほど。それでその一件の強盗殺人以外で、ARSSの情報網に何か引っかかっているのか?」
「二週間近く経ちますが、一件も引っかかっていません。鵺出現を把握するための街中の監視カメラの一つにすら、です」
リリアは表情を動かすことなく、『影も形も全く追えてない』ということを告げる。
「そうか。……あとどれくらいで捕まえられそうだ?」
しかし、
「そうですね……あと一週間といったところでしょうか」
その絶望的な状況が、『答え』に繋がらないとも限らない。
『完璧なる解答』。
彼女の固有能力はどんな僅かな情報からでも解答を導き出す。
故に彼女はU.S.A.本部の本部長を務め、上級アーベント序列十二位『解導卿』の称号を欲しいがままにしているのだ。
「既に二週間経ってるのに更に一週間か。思ったよりかかるな」
「アーダルベルトをうまく読み解けれなくて。恐らくですが、精神疾患、多重人格、記憶喪失など、精神に何かしらの支障をきたしてます。そのせいで少し時間が」
「精神が複雑に入り組んでる奴からは『解答』が出しにくいんだったか。……そういえば、あの男の固有能力は何だ?」
「ARSSのクラウドデータベース『ネビュラリスト』には、『身体強化』と記載されてますね」
リリアは携帯端末に『アーダルベルト=シュルツ』のデータを表示させ、紅音に見せる。
紅音はそれを一瞥して、
「嘘だろうな」
「まぁ、嘘でしょうね」
二人揃って、迷うことなくそう断言した。
「固有能力は本人の願望、性格、心的外傷など、本人の精神性によって決まります。彼は、『身体強化』って柄じゃないでしょう。大方、固有能力申請の際には、影胞子操作による身体強化で誤魔化したんだと思います」
「私も実際アイツを見たが、アイツは強力なアーベントらしく平常時から身体強化をしていたが、あれは影胞子操作によるもので固有能力じゃない。固有能力の身体強化と影胞子操作での身体強化では、どちらも影胞子を基に肉体を強化してるとはいえ、影胞子の励起の仕方が違う」
……二人して『アーダルベルトの固有能力は身体強化ではないだろう』と言うが、もし本当にそうだとしたら、それは一つ恐ろしい事実を意味する。
なぜなら、基本的に固有能力による『身体強化』の方が、影胞子操作による身体強化より遥かに……少なくとも数倍は強いとされているからだ。
そのはずなのに、紅音とリリアの予想が正しければ、アーダルベルト=シュルツは影胞子操作の身体強化だけで上級に認められたということになる。
つまり、アーダルベルトはそれを実現できるほど多くの影胞子を抱え、その大量の影胞子を操る操作練度の持ち主ということになるのだ。
その恐ろしい事実に気付いているのかいないのか、『復讐姫』と『解導卿』の二人の顔は涼しいものだった。
「あの男の能力内容は不明だが……恐らく、対象に触れることで発動するタイプだろう」
そう言いながら紅音は、アーダルベルトが葉月に向かって手を伸ばしていたことを思い出していた。
……。
「……繰り返しになりますが、アーダルベルトが紅音さん達に接触したのはあくまでついでです。彼が更に貴方達に自ら近付くことはないでしょう」
「ああ、わかってる」
そう、アーダルベルトはついでに紅音に会おうとしていた。
葉月に関しては、更にそのついでだろう。
故に紅音は、葉月がロシア本部長に絡まれたことに責任を感じていた。
……その様子を葉月の前で見せなかったのは、堂々とした姿を葉月に見せることで、葉月に安堵して欲しかったからだ。
その目論見(?)が上手くいった……のかどうかはわからないが、最終的に葉月はいつもの元気な様子に戻ってくれて、本当に良かったと紅音は心の底から思っていた。
「とにかく、これらの件はこちらで対処しますので、紅音さんに手伝ってもらう可能性はゼロに近いです。なので、紅音さんは紅音さんの仕事に集中してください。……勿論、万が一のことはありますので、その時はいつも通り救援よろしくお願いします」
「そのつもりだ。だから、条件もいつも通り変わらない。私は私のやりたいようにやる」
紅音は『条件』と口にするが、その条件はたった一つだけ。
『スポット攻略の邪魔をしない』。
それが、月原紅音に救援を要請する際の唯一の条件だった。
「わかってます。念のためです」
「そうか」
紅音は立ち上がる。
そもそも、『条件』のことを考慮しなくても、今の段階で紅音に手伝えることはない。
紅音がいくら『血躯操作』で自身の思考能力高めて、解導卿リリア=ウォーカーの思考速度について行けても、彼女の本質は戦う者だ。
今は『政治』と『計略』の段階で、それは月原紅音の領域ではなく、リリア=ウォーカーの領域だ。
だから、紅音は、
「あとのことは、頼む」
「ええ、頼まれました」
最後にそう言葉を交わして、本部長の居室から立ち去った。
7
ARSS U.S.A.本部。
三階のフリースペースにてを
「葉月、あんた、何してんの?」
「あれ、円ちゃんだ。やっほー」
「えらく気の抜けた挨拶やなぁ……こっちまで釣られちゃうわ」
和服と洋服を足して二で割ったような謎の服装をしている少女――百鬼円は適当に笑いながら肩を落としてみせる。
「葉月、さっきまで大勢で掃除してみたいだけど、今日って別に大掃除の日ってわけじゃないんよね?」
「それがね……」
葉月はここで何が起こったのか、簡潔に語る。
「……ってことがあって、それで色々散らかしちゃったから、掃除してたの。最初は私と紅音さんの二人だけだったんだけど、近くに居た人達も手伝ってくれて、本当ありがたかったなー」
その内の何人かは『さっき君が男に迫られていたとき、助けれなくてごめん』みたいなことを言っていたのだが、葉月は『良い人達だなぁ』とただ思うばかりだった。
「へー……。アンタ、あんなのに絡まれて、運が悪かったねぇ」
「……?円ちゃん、ロシア本部長のこと知ってるの?」
「名前と顔を知ってるだけだったんだけど、ちょっと前にすれ違ったわ。その時こっちをジロジロ見て気持ち悪かったから、つい殺されてやろうかと思いかけたわぁ」
「うわぁ……」
あまりにも強気な円の発言に、葉月は苦笑を禁じ得ない。
「ま、結局面倒になりそうだからスルーしたんだけど……それにしても、アンタんとこの先輩、自分は怖いイメージを持ってたんだけど、良い人そうでよかったなぁ」
「紅音さんはクールなだけで、怖くなんて全然ないよ。優しくてかっこよくて、本当好き」
「めっちゃベタ褒めやん」
葉月の直接的な言葉を聞いて、百鬼円は楽しそうに笑う。
そして、
「そんなアンタの先輩と違って、さっきの男は本当大したこと無さそう。器の面もそうだけど、力量においてもね。……もしかしたら、奪い取る価値すら無かったかもしんないなぁ」
「力量も……?あの人、結構強そうだと思ったけど」
「自分もそう思ってたんよ。でも、葉月の話を聞く限り『アレ』に気付いてなかったみたいだし、そんなんじゃなぁ……」
「……ねぇ、」
『アレってなんのこと?』と、葉月は続けようとしたが、葉月の携帯端末にどこからか電話がかかってきた。
葉月はポケットから携帯端末取り出し、着信者の名前を見る。
「あ、紅音さんからだ。…….出ていい?」
「止めるわけないやろ、どーぞ」
「そうだね、ありがと」
葉月はそう言って電話に出る。
『仕事終わった後なのに悪いな、葉月。今少し時間いいか?そんな長い話じゃない』
「いいですよ。どうしたんですか?」
『一つ、お前に伝えてないことがあった。本当は資材部から戻ったらすぐ伝えようと思ってたことなんだがな。バタバタして伝え損ねてしまった』
「?」
葉月は携帯端末を耳に当てながら首を捻る。
もしかして、資材部云々は自分に関係ある話だったのだろうか。
そう考えていたら、その答えはすぐに電話の向こうからもたらされた。
『葉月の実力は今もうある程度の基準を達してる上に、資材部から必要なアイテムの調達もできた。だから、明後日にはもう行こうと思う。勿論、何回か分けて、その一回目ということにはなるがな』
「明後日にはもう行こうってどこに……ってまさか」
『そうだ』
電話口の向こうにいる先輩は、一拍置いて後輩に告げる。
自分達のコンビの、そもそもの目的を。
『明後日から、私達が組んで初めての鵺の巣侵攻作戦を開始する。……サポート、期待しているぞ、葉月』
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
百鬼円
アーダルベルト=シュルツ