プロローグ 『復讐姫は夢を見る』
『過去に時間を戻すことはできない』
そんなの、わざわざ口に出して言う必要の無い当たり前の事。
だけど、私は、大切だった彼と過ごしたあの日々に戻りたいと、毎日のように思ってしまうのだ。
それが無意味なことだなんてわかってる。
それでも、想うことだけはやめられない。
だから、私は彼との日々の記憶に浸る。
何気なくも幸せだったあの日々を胸に、私はゆっくりと目を閉じた。
1984年3月
「何を言ってるんだ、お前」
私――月原紅音は、訝しげな声を出す。
その声の先にいるのは、
「ちょっと思うことがあってさ。ってか、そんなに俺が言ってることって変だったか?」
月原一騎。
一年ほど前、大学卒業を機に結婚した私の夫だ。
今、私達は雑談を交えながらと夕飯の時間をゆっくりと過ごしていた。
そんな時、彼の口から出た言葉とは、
「普通、『お前、死ぬなよ』って脈絡なく言わないと思うぞ。私がいきなりそう言いだしたら、お前だって面喰らうだろ?」
「……」
一騎は少し考えるかのように上を向いて、
「……確かにそうだな。いきなり言われたら、『どうしたんだお前』って言っちゃうな、俺も」
何度も頷きながらカラカラと笑った。
そして、その笑顔のまま、
「たださ、俺の副業が副業だろ?それで少し思うことがあってさ」
「……技術職ではなく、怪物退治の『アーベント』の方か」
「そ。人を襲う怪物『鵺』退治を請け負う下っ端特殊能力者をやらせてもらってる……というか、半強制的にやらされてるけど、そんな仕事やってると命のこととかつい考えちまうんだよ」
「……仕事で、何かあったのか?」
私の声のトーンが、自然と落ちていた。
「あ、いや、そんなことはないんだ。紛らわしい言い草で、心配させてごめん」
「……私の立場なら、お前の心配をするのは当たり前のことだ。別に謝らなくていい」
……私はまるで一騎の『そんなことはない』って言葉を信じてるかのように振る舞っているが、本当は少し疑っていた。
でも、質問されて誤魔化すということは、言いたくないことなのだろう。
一騎とは高校からの付き合いなのだ、一騎が言いたいことはハッキリと言えるタイプなのはわかっている。
だから、別に『仕事で起きたことについて相談したい。もしくは、慰められたい』ってことではないんだと思う。
多分、もっとシンプルな話だ。
「私は、死なないよ」
「え?」
「聞いてきた方が不思議そうな顔をするな。さっきお前が聞いたんだろ、『お前、死ぬなよ』って。それの返事だ」
私はなんだか少し気恥ずかしくなって、僅かに顔を横に逸らす。
「寂しがりなお前を残して死ねるか。だから、私は絶対に死なない。死んでたまるもんか」
「……」
……返事が無い。
私は一騎の表情が気になって、彼の顔の方にチラリと目を向ける。
その視線の先に居る一騎は、何が楽しいのかニコニコと嬉しそうに笑っていた。
その顔は、知り合ってからの八年間で何度も見たもので。
私は、その笑顔が嫌いではなかった。
「というか、私としては鵺なんていう怪物と戦うお前の方が心配だ。何度も言っているが、ちゃんと安全を優先してるんだろうな」
「その辺は大丈夫。組織の上の人達も下っ端能力者が潰れて戦力低下が最悪なのはわかってるから、いつも随分戦力余裕を持たされて任務に行かされてるし、実際アーベントが死んだ話なんて少なくとも俺の周りでは聞いたことない。その上俺が所属してるチームは安全第一、命を大事に志向が強いから、万が一も無い。だから、安心して欲しい」
「そうか。なら、良かった」
……一騎が今語った内容は、もう既に聞いたことのある話で、私としても気をつけてさえいれば安全なものなんだということは知識として知っている。
それでも一抹の不安を感じて、たまに確認を取ってしまう。
お前は私に死んで欲しくないと言うけれど、私としてはお前に死んで欲しくない。
「……」
私は首をゆっくりと横に振る。
少し、ナーバスな気分になり過ぎていた気がする。
私も一騎も今生きて食卓を囲っているんだ、今はこの時間を楽しく過ごした方が断然良いだろう。
「紅音、どうかしたか?」
私がいきなり無言で首を振ったものだから、一騎が少し心配そうな声でそう尋ねてきた。
だから私は、
「……このまま話に集中してたら、料理が冷めてしまうと思ってな。今日のは初めて作ったヤツだけど、上手くできてただろ?」
「あ、そうだった」
一騎は思い出したかのように箸を今日初めて作ったエビチリに伸ばし、赤いソースに包まれたエビチリを口に放り込む。
「お前の料理は相変わらず美味いよなぁ。昔は俺の方が色々作れてたのに、今じゃ完璧にお前の方が上だ。俺、初めての料理でこんな上手く作れないぞ」
「ありがと。ま、昔お前に料理に負けたのが悔しくて練習したからな。勝てれてないと困る」
「そういや、そんなこともあったなぁ」
一騎はクスクスと笑いながら、美味しそうに私が作った料理を食べる。
そんな一騎を、私は笑いながら見つめていた。
この日は少しだけいつもと違う会話をしたとはいえ、それ以外に特筆すべきことは何もなく、『平和な日』としか言いようがないそんな普通の一日だった。
今となっては、そんな何でもない一日でさえ愛おしい。
……いや、今の言葉は不正確だ。
あの二人で食卓を囲っていたときにも、私は自覚が無かっただけで、大切で愛おしいと感じていた。
『自覚が無いのにそんなことわかるのか?』
そう聞かれても、私ははっきり『そうだ』と断言できる。
だって、あの時の私は、確かに笑っていて。
あの日々の中での私は、確かに幸せだったのだから。
先の会話の二週間後、一騎はアメリカ合衆国カリフォルニア州にある『鵺の巣』へ大規模攻略旅団、二千名の一員に加えられ日本から渡米する。
そして、渡米した一週間後には、一騎を含めた旅団は侵攻作戦を開始した。
目標の巣に居る鵺の集団が強大なのはわかっていたが、それ以上に攻略旅団の規模を大きく、二千人ものアーベントをかき集めたのは万が一の死者が出ないようにするための安全策だったはずだ。
しかし、蓋を開けてみれば過去に類を見ないほど大惨敗。
二千名の旅団はほとんど死亡という結末を迎え、死んだ彼等は英霊としてそのリストが世界に公開された。
そのリストの中には、私の夫の名前も入っていた。
2034年4月
アメリカ合衆国カリフォルニア州。
その州には、昼夜問わず黒い霧に覆われてる森林地帯があった。
世界に七つある『鵺の巣』……通称『スポット』の一つである。
戦車にも匹敵する異形の怪物『鵺』が数千……下手したら数万は彷徨っているとされるその場所は、どんな生物だろうと生存すら許さない絶対の死の領域だった。
それは、特殊能力者であるアーベントですら例外ではなく、ここに踏み込んだものは無惨な死を遂げるしかないだろう。
そんなあらゆる生命にとって絶望でしかないその地で、大胆にも樹木に背中を預けて立ったまま仮眠を取っている女がいた。
いや、大胆って言葉ですら生温い。
この地の実情を把握している者が知れば、「自殺行為だ」と呟くしかないだろう。
だが、その者は呟いたあとにすぐに疑問を抱くことになる。
なぜ、その女は今まで死なずにその木に辿り着いたのか、と。
「……」
背中を木に預けて居た女は、ゆっくりと瞼を上げる。
瞼の下から現れたのは、鮮血の赤によって彩られた真紅の瞳。
その上、その瞳を収める女の顔は白く人形かのように綺麗に整っており、腰まで伸びた煌めく純白の髪と相まって、彼女からはある種の芸術品かのような美が醸し出されていた。
しかし、今この場にはその美に感嘆の声を上げる者も、美しくも異質な彼女をおぞましいものを見るような目を向ける者も居ない。
今この場に存在しているのは、白く美しい女と、彼女の目の前に立つ全長十メートルを越す怪物だけ。
その女の前に立つ怪物……『鵺』は一言で形容できる姿をしていなかった。
体の半分以上を占めている直径数メートルの大きな球体のような腹が一番に目立つが、その腹を支える脚は丸太のように太い。
その脚で蹴られたら、動物の中では凶暴とされるヒグマだって全身の骨が粉砕し死に至るだろう。
そんな下半身に対し、上半身はこれまた奇怪な形で、数十センチの役目を放棄した翼らしきものとゴリラのような腕が何本も生えており、頭部は謎の甲羅によってすっぽりと覆われていた。
明らかに、自然界では絶対に発生しない異形の化け物。
鵺。
こんな怪物と相対した人間は、顔面を蒼白にし、できもしない逃走を試みるしかないだろう。
しかし、実際にそれを目の前にしている白い女は、
「……」
冷ややかに、目を細めるだけだった。
その紅い瞳に映っている感情は恐怖ではなく、日本刀のように冷たく鋭利で純粋な殺意。
そんな危うい光を瞳に灯しながら、彼女はボソリと、
「狂気解放――『血躯操作』」
アーベントとしての能力を解き放つための祝詞を囁いた。
すると、彼女の左右のそれぞれの手に彼女の瞳と同じ色彩の刀が現れた。
彼女の前に立つ鵺は彼女のその赤い二本の刀に反応してか、戦車すらスクラップにするだろう拳を彼女に向けて振り下ろそうとする。
そんな拳が振りかぶられるのと同時に、彼女の姿がその場から消えた。
いや、正確には消えたのではない。
一秒前まで確かに異形の怪物の前に居たその女は、今現在はその怪物の後方に立っていた。
そして、更にその一秒後。
十メートルは優に超える鵺の肉体が、黒い血飛沫を上げて八つに分断された。
ボトリと、何かが落ちる音が鈍く響く。
その音は一度だけではなく、何度も何度も響き、最終的には八度はその鈍い音が発せられた。
その音の発生源は、さっきまでここに立っていた鵺の肉塊だった。
文字通りの、これ以上ないほどわかりやすい八つ裂き。
現代兵器だろうが余裕で壊せる怪物は、あまりにも呆気なくその命を散らした。
その怪物の命を二秒で刈り取った白い女は、自身の頭に着けられた赤い花の髪飾りに手を触りながら、
「……また、一匹殺せた」
何かしらの感情を込めて、ポツリとそう呟いた。
直後、白い女は刀を持つ手首をぐるりと回すと、
「……折角仮眠取ったのに、あまり調子は良くないな。食料も尽きて一週間は経ったことだし、ここは欲張らずに一度戻った方が良いんだろう。ただ」
白い女は独り言を呟きながら、赤い瞳で周囲を見渡す。
その視線先にいるのは。
「それまでに、二十匹は殺せるか」
十体以上の鵺の集団がそこに居た。
一つとして同じ姿の鵺は居ないが、どれも人一人程度なら余裕で粉砕し喰い殺す強さと凶暴性を抱えている。
しかし、そんな怪物の集団を見る白い女の顔は無表情。
ただ、鵺の集団を見る深紅の瞳には、圧倒的な憎悪と殺意の光が煌めていた。
二分後。
白い女の周囲には、百を超える肉塊が転がっていた。
――それが、その白い女の日常だった。
何度も何度もこの森林地帯に訪れては、数十いや数百の鵺を殺す。
いつか、『スポット』にいる鵺を一匹残らず狩り尽くすその日まで、彼女は決して止まらないだろう。
……彼女は昔、この地である大切な人を失った。
その直後、偶然にも彼女も特殊能力者『アーベント』に変質し、その時に得た固有能力の性質上、彼女の肉体の時は止まることになった。
体の変質により肉体を。
大切な人の死により心を。
彼女は、人を人たらしめるその二つを同時に凍らせることになった。
そしてそれは、もう五十年以上溶けていない。
彼女の名前は、月原紅音。
彼女の夫の一騎は、五十年以上前にこのカリフォルニアの森林地帯で鵺の群れに殺された。
だが、彼が鵺に殺されたことはわかっても、巣にいるどの鵺に殺されたのかはわからなかった。
だから、彼女はそこに居る全ての鵺を葬ると誓った。
そうすれば、夫を死なせた鵺も、確実にこの手で殺せることになるのだから。
鵺の巣、通称『スポット』は年々範囲が広がり、人々の生活と命と世界を脅かす。
ゆえに、『スポット』を滅ぼした者は、英雄と呼べるだろう。
例え、その者の心の中に正義感など欠片も無くても。
だから、この物語は英雄譚だ。
一人の女が紡ぐ、愛憎による復讐の英雄譚。
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月原紅音