藍針水晶
「これで数日後には目を覚ますはずですよ。」
エスメ・ガザニアは薬のフタをキュッと締めた。するとすぐにふくよかな貴族の男がベッドに寝ている女性に抱きつく。
「あぁ!ありがとうございますガザニア先生!!妻がいなくなるかと思って、私……!」
すっ、とガザニアは男に手を差し出した。男はキョトンとした顔で、おそるおそるその手を掴む。ガザニアは顔をしかめた。
「いえ、あの、治療費を。」
「えっ。あ、すみません……。」
男は赤面して、懐から札束をガザニアに手渡した。ガザニアはにっこり笑って、
「次の機会もぜひ、ご贔屓に。」
そう言って立ち去った。男は眉根を寄せてから、妻を見やる。
「……次の機会。」
ガザニアは髪をほどきながら大きな屋敷を出た。道行く貴族たちの豪華な装飾品が夕日にきらめくなか、みすぼらしい格好をした少年が目を引く。帽子を深く被った少年は腕を組んでガザニアを睨んでいる。それを横目に通り過ぎると、声変わり途中のハスキーボイスが飛んできた。
「おいおまえ。」
振り向くと、真っ直ぐな濃い青髪が、サラサラと風に波打っていた。その隙間から覗く、鋭い金色の大きな目。めんどくさ、とガザニアは無視して再び歩き出した。
「あ、ちょ、待てよバカ!」
「なに?乞われても渡すものなんてないんだけど。」
「いや違えし!」
ガザニアはため息をついて、少年と目線を合わせる。
「あのね少年。あたしお貴族サマに気ぃ使って疲れてんの。これから家帰って酒飲んでヤニ吸うの。ガキに構ってる暇なんてないの。」
そう言ってピシッと人差し指で少年を指す。少年は呆れた顔でその指を除けた。
「なあ、おまえ本当にあの天才奇病医エスメ・ガザニアなのか?」
「天才……?」
ぴくりとガザニアの口の端が動いた。
「えーそれほどでもないけどね?確かにどんな奇病でも治せちゃうけどね!?大勢の人の命救っちゃってるけどね!!こーんなみすぼらしい、学校にも通ってなさそうなガキにも名前が知られてるなんて!さすがあ・た・し!」
「何だコイツ……。」
少年はガザニアがニヤニヤと愉悦に浸るのを冷たい目で眺めていたが、気を取り直して白衣の端を掴んだ。
「それで!話があるんだ。」
「なあに。今なら気分が良いから、1クレタくらいならあげてやってもいいわよ。」
「少なっ。ってそうじゃなくて!」
少年は必死な顔でガザニアの白衣を引っ張った。
「俺の妹の奇病を治してほしいんだ。」
ガザニアは少年の手を握り返す。
「…………断る。」
そして白衣からその手を離させた。
「は!?事情くらい聞いてくれてもいいじゃねえかバカ!」
「このあたしをバカ呼ばわりとは良い度胸ね。だってあんた、どーせ金持ってないでしょ。」
「うぐ。でももう、エスメ先生だけが頼りなんだ。……だめ?」
キュルンと目を潤ませる少年を無視して、ガザニアは再び歩き出した。少年は顔を真っ赤にしてその背中に怒鳴る。
「ケチ!バーカ!貧乏人にくらいタダでもいいじゃん!クソババア!」
ガザニアがギュインと振り向く。エメラルドの瞳には冷たい軽蔑が浮かんでいた。そのあまりの迫力に少年はビクッと体を跳ねさせた。
「ねえ少年。君はあたしの知識や技術が無価値だって言いたいの?」
「べ、別にそういうつもりじゃ……」
「あたしがどんな思いをしてこの医術を身につけたか知らないでしょ。どれだけ悩んで、どれだけ悲しんで、どれだけ苦しんだか。」
「……。」
「だからあたしの力を借りたいならそれなりの対価を払わないといけないの。憐憫とか同情とか、そういうのが通じるほど世の中甘くないから。わかる?」
「……痛いくらいわかってる。」
「あっそ。だったら……」
ガザニアはガシッと少年の肩を掴んだ。
「クソババアって言ったの取り消しなさい!」
「……はあ!?」
「あたしまだ25だから!20代前半だから!」
「わかった、わかったから、オネーサンオネーサン。」
「先生と呼びなさい!」
「はいはい、せんせー。……あ。」
少年がはっとした顔でガザニアを見上げる。
「だったらさ、俺に医学を教えてくれよ。」
「……は?」
あからさまに嫌そうなガザニアを見て、少年の目に必死さが増した。
「だからさ、お前が診てくれないなら俺が診ればいいんじゃないかって。」
「いやあんた話聞いてた?授業料払えるの?」
「雑用でも、なんでもするからさ、頼むよ。」
「ダメに決まっ」
「良い提案だね。」
突如聞こえた可愛らしい声。振り向くと、ぷっくりした頬があどけない小さな少女がいた。ガザニアの喉からヒュッと変な音が鳴る。
「サ、サイプレス教授!お疲れ様です!」
少年は呆気にとられて少女とガザニアを見比べる。
「ちょっと!あんたも頭下げなさいよ!」
「うあっ」
ガシッと頭を掴まれて、少年の帽子がずれかける。少年が必死に帽子を直していると、サイプレスと呼ばれた少女は苦笑した。
「堅苦しいのはいいよ。頭上げて。」
「恐縮ですッ」
ガザニアは勢いよく顔を上げて、後ろ頭を電灯に強打した。