08
翌日、見守り調査や例の件についての報告書を作成するため、ジェムは妖精課ブランポリス支部の事務所を訪れていた。自宅で作った記録を基に2ページほどにまとめたものを課長のロロに提出すると、ロロは老眼鏡を掛け、提出物に目を通しながら唐突に訊ねた。
「――それで、どうだった?」
「どうだった、とは?」
「ジェームズ、」
分かっているだろ、とロロが目で訴える。ジェムは小さく息を吐いた。
「報告書の通りです。妖精はいませんでした。少なくとも、"かの組織"に関わりのあるような妖精は」
「……そうか。なんにせよ、大事なくて良かった」
そして、沈黙が流れた。遠くに焙煎機が稼動する音と、微かにぱちぱちと珈琲豆の爆ぜる音が聞こえる。そこに、ぺら、と1枚の紙を捲る音が空間を支配した。
紙の上をロロの視線が滑っていくのを見守りながら、ジェムは静かに口を開いた。
「……今回の件って、」
話を切り出しておきながら、なかなか続きが紡がれないのが気になって、ロロは視線を上げた。
ジェムは視線を彷徨わせ、慎重に言葉を選んだ。
「――やっぱり、"かの組織"の仕業、だよな。妖精を見つけるために、あの人たちを拐かそうとしたのかな」
「そうだろうな。君みたいに、"妖精の羽"を見ることのできる者は、そういないからね。妖精が潜んでいそうなところから、ああやって人を拐って無理矢理確かめるしか、彼らには方法がないんだろう」
……そして彼らが妖精だったら、組織の仲間になるか、力を奪われて彼らの道具となるか、選択を迫られる。最悪の場合、身体だけ奪われて魂は棄てられる。人間なら、洗脳されてやはり組織の仲間になるか、実験体として飼育されるかだ。どちらにせよ、人として扱われることはない。
考えて、ジェムの表情に苦渋の色が浮かんで歪んだ。
「ジェームズ?」
心配になって、ロロはジェムに呼びかけ、彼の様子を窺った。
「……きっと、あの人たちがホームレスだったから、こんな無慈悲な方法を取ったんだよな」
虚ろな目でジェムは呟いた。
「なんだって?」
ロロは訊き返した。
「いや、なんでもない。報告書、それでいい?」
およそ部下らしくない生意気なジェムの態度に、ロロは呆れて肩を竦めた。
「ああ、いいよ」
ロロの返答を聞くなり、ジェムは踵を返して帰り支度を始めようとした。その背中を、ロロは溜め息混じりに呼び止める。「ジェームズ、」
「これを持って支部長室に行ってから、帰りなさい。君のバッジの件で、話があるそうだ」
そう言って、ロロはジェムが今し方提出したばかりの報告書を差し出した。ジェムは、内心嫌々ながらもそれを受け取り、指示通り、この事務所の支部長室に向かうことにした。
焙煎所の片隅に増設された妖精課から探偵社の支部長室に行くには、一度外に出なければならない。ジェムは報告書をショルダーバッグに入れ、ジャケットを手に持って(念の為にと出勤時にはいつも持ち歩いているが、仕事中に着ることは、この季節にはほとんどない)、妖精課を後にした。
スミシー探偵社ブランポリス支部の支部長は、社内で最も社員に慕われ、最も嫌われていることで有名な男だった。涅色の髪と、それより少し濃い髭を口許から顎を囲うように蓄えた野性的な甘いマスクに、低く落ち着いた声、更には、スーツの上にボンバージャケットを羽織って会社に出勤してくるような破天荒さで、彼は瞬く間に他人の視線を奪い、興味を引き出してしまえるのだ。
そんなどこに行っても目立つ彼が、探偵として名を上げ、大都市の支部の長にまで成り上がることができたのは、彼が人を意のままに操る才に長けていたからであった。彼の手にかかればどんなに不可解な謎でも、真実の方から彼の許にその正体を告げにやってくる……らしい。
この男の名を、アンヘル・アラン・フェヘイラ・グレアムと言う。そしてこの男は、ジェムの義父であった。
「入れ」
支部長室のドアをノックしたジェムに、グレアムは短く言った。彼の許可を得て、がちゃ、と重みのないドアが開く音で顔を上げたグレアムは、現れた義理の息子の姿ににやりと笑った。「来たか」
突如に、グレアムがなにか小さなものをジェムに投げつけてきた。防衛本能が働いたジェムは、それを空中で掴み取った。
投げられたそれは、先日まで警察署で保管されていたジェムのピンバッジだった。
「相変わらず、いい反射神経だな、ジェム」
「……そっちこそ、いい制球力だね、父さん」
投げる必要がどこにある、と言いたいのを、ジェムはなんとか我慢した。
真っ直ぐに、窓際に置かれたマホガニーの机に向かって座るグレアムの許へ歩いていったジェムは、それから、はい、と先程の報告書を手渡した。受け取ったグレアムは、それを机の上で開いて視線を落とし、ほんの十数秒で2枚目の書類を読み始めた。
あまりにも早いグレアムの読書速度に、ジェムは思わず眉間に皺を寄せた。そんな微妙な変化さえも分かってしまうグレアムは、左手を挙げ、「気が散るから少し離れてくれ」と言った。
「そこに座ってろ、すぐ終わるから」
そう言い継いで、グレアムは部屋の中央のオーク材のソファを指し示した。取り戻したピンバッジを襟先に取り付けながら、ジェムは言われた通りにソファに座る。ほどなくして、そこからでも話はできるというのにグレアムがわざわざ自分の席を離れ、「お前に聞きたいことがある」とジェムの真向かいのソファに座った。
そして、簡潔に言った。
「なんで盗られた?」
「なんで、って、」
戸惑い、視線を泳がせながらジェムは答えようとした。だが、目に見えて動揺する彼に、グレアムは間髪入れずに問い質す。
「命の次に大事にしろ、って教わらなかったか?」
ここで黙り込むと良いことがないのは分かっていたので、ジェムはどうにか言葉を絞り出した。
「……盗られた方が、彼らの犯行を印象付けられると思って」
嘘ではない。まさかバッジを盗られるとは思っていなかったので、十分な抵抗ができなかったのは確かだが、あの時あの状況で徹底的に彼らにやり込まれた姿を周囲に見せつけた方が、スミスの探偵の潔白を証明できると思ったのだ。――彼らの仲間だと思われるような行動は絶対に避けなければならなかった。
そんなジェムの回答に、グレアムは片眉を上げた。
「状況証拠ってやつか。警察に囲まれていることに気付いていたのか?」
「……警察に、ってわけじゃないけど、誰かがぼくたちのことを監視しているのは分かってたよ」
「どうして行動を起こした?」
「そりゃあだって、この頃、誰かさんたちのせいでスミシー探偵社の評判が良くないから、ああいうところでぼくたちが全くの無害だってことを表明しなきゃと思って」
「そっちじゃない、どうして運転手に近付こうと思ったか、だ。その監視の目が、敵対組織のものじゃないって保証はなかったのに」
立て続けに質問をしてくるグレアムに、ジェムはいい加減不愉快になる。
「さっきからなんなんだよ。そんなの、報告書を読めばいいじゃないか」
「書いてねえから、聞いてんだよ」
……もう読み終えたのか。一体どういう読み方したら、あれだけ速く読めるんだよ。
ジェムは渋々、答えた。
「……"猫の密約"があるから、猫の監視があるのに、"やつら"がぼくたちを襲ってくるはずないと思ったんだ」
「確かにな。それが理由で、"奴ら"は、警察を利用したんだろう」
さらりと示されたグレアムの推測に、ジェムはオウム返しのように訊き返す。
「警察を、利用した?」
ああ、とグレアムは頷いて、自分の推理を披露し始めた。
「お前だって、考えなかったわけじゃないだろ。"猫の密約"のせいで、"奴ら"が直接的にお前たちに関与することは叶わなくなったんだ。それでもどうにかお前たちの護りを崩そうとするなら、妖精側じゃなく、人間側を攻めるしかない。だから、警察という第三者を間に挟み、スミスの探偵に嫌疑をかけさせ、"蹄鉄会"という鉄壁を狙ったんじゃないか――って。この方法なら直接的にではないが、お前たちを人間側から窮地に追い込むことが可能だ。警察へのふざけた犯罪予告は、それを狙ってのことだろう。結果的に、お前の判断は間違ってなかったのかもな」
……確かに、あの身に覚えのない『犯罪予告』について、なにも考えなかったわけじゃない。だけど、警部の前でその事実を隠したくて、ずっと考えないようにしてた。だから、あの予告と"やつら"の計画とを結びつけることもしなかった。でも父さんの推理の通りなら、ぼくとリリーが推測した最悪を、"やつら"は警察を使って実現させようとしていたことになる。
……待てよ。じゃあ、あの『犯罪予告』の犯人は、ぼくたちがあそこへ戻ってくると予測していた? いや、ぼくたちに限らず、探偵が再び現れることを確信していたのか? 炊き出しの会場から少し離れたあの場所に? そうでなければ、どうやってスミスの探偵に罪を着せようとしていたのだろう――探偵からピンバッジを盗む以外に。
そもそも、どうして"蹄鉄会"は、ダンボール町の異変に気が付いた?