07
ダンボール町に戻ったジェムとリリーは、町の手前に淡黄色のバンが停まっているのを見て、急いでそちらへ駆け寄った。
若い女が先頭に立って、他のボランティアの者たちと共にダンボール町の住民に肩を貸しながら、彼らをバンに乗せている。
「なにしてるんですか?」
問い詰めるような調子のリリーに、些か吃驚した様子で若い"蹄鉄会"会員の男――バーロウは答えた。
「このままここで看病しているだけでは回復の兆しが見えないので、皆さんを病院に連れて行くことになったんです。あっ、診察代は僕たちが。既に1台、おふたりが来る前に出てますよ」
最初こそ驚いていた様子のバーロウだったが、最終的にはにこやかに応対する彼に、リリーは当惑した。彼が"かの組織"の人間とは思えなかったし、それ以上に悪い人には見えなかったからだ。
……瞳の変化も見られないし、あの特別嫌な匂いもしない。単純に、わたしたちに対して悪意がないだけかもしれないけど……。
「そう、だったんですね……」
リリーはどうにか相槌を打った。考え事をしながら下唇の内側を噛むのは、彼女が不安を感じたり感情が揺らいだときに出る、リリーの癖だ。
一方、ジェムは険しい表情のまま、リリーたちの遣り取りを見届けつつ、周囲の反応に神経を研ぎ澄ませていた。そして、唐突にこう訊ねた。
「誰か呼んだんですか?」
「えっ? いや、誰も呼んでませんけど」
すると、ジェムは黙り込んで、眉間の皺を一層深くした。
彼には気付いていることがあった。幾つもの、絡みつく蛇のような視線――ダンボール町に戻ってから自分たちに纏わりつくそれを、ジェムはやや過敏なほどに感じ取っていたのだ。
そして、もうひとつ。蒼い瞳の真っ白な猫が、ダンボール町のトラックの屋根の上に、こちらを見守るように座っているのを。
……もし、この視線の主がリリーに仇なす者たちなら、猫たちは彼らを許さないだろう。だが、本当に"かの組織"だとしたら――いや、猫たちとの争いは避けたいはずだ。"彼ら"なら、そんな危ない橋は渡らない。太古の血を色濃く残すケット・シーたちと敵対する理由が、彼らにはないから。だから、"猫の密約"が成立したはず――。
にゃあん、と白猫が鳴いた。
「……リリー、ごめん。ちょっと、賭けに出る」
えっ、とリリーは聞き返したが、既にジェムは行動を起こしていた。ジェムはバンに近付き、こんこん、とフロントドアを叩いて「失礼」と言って、運転席に座って煙草を吹かしている男の注意を引いた。そこまでして、ようやく男はジェムの気配に気付いたようだった。
「"蹄鉄会"の方ですか?」
ジェムは訊ねた。
「えぇ」
灰皿に煙草を押し付けながら、男はぶっきらぼうに答えた。すぐに、ジェムは質問を続けた。
「失礼ですが、会員証を見せて頂けますか?」
「……あぁ、すいません。俺自身は"蹄鉄会"じゃなくて、炊き出しのスタッフなんです――コミュニティセンターからの。"蹄鉄会"の友人に頼まれて、代わりに運転してるんですよ」
「そうでしたか。申し訳ないのですが、他の方と代わってくださいませんか? 状況が複雑なので、会員でないあなたに住民の方々を預けるのは……、少々不安が」
柔らかい物腰ながら高姿勢なジェムに、男は目くじらを立てた。
「なんですか、それ。俺が彼らになにをすると言うんです?」
「分からないから、代わって欲しいんですよ、念のため」
男は黙り込み、薄暗い車内からジェムを睨みつけた。ジェムは声を張り上げる。
「すみませんが、"蹄鉄会"の会員で、他に運転ができる方は、いらっしゃいませんか」
僕が、とひとりの男性が手を挙げた。声からしてバーロウだろう、とジェムは当たりをつけた。
歩み寄ってくる足音を聞いて、姿を確認するために後ろを振り返った。そして、男がジェムの首許に視線を落とした。
彼の襟先に留められた、裏返しの探偵の徽章を見た。
不審な男は意を決して、フロントドアを力いっぱいに押し開き、ジェムを突き飛ばした。
「ジェム!」
悲鳴にも近い声を上げて、ジェムの傍へ駆け寄ろうとするリリーをバーロウが腕を掴んで引き止めた。見るからに屈強な男の前に彼女が立ち塞がっても、被害を広げるだけだと判断したからだった。
虚を衝かれて背中から地に転がったジェムは、数秒間ほど呆けていた。その僅かな瞬間に、男はバンから降りて、ジェムの胸倉を掴み覆い被さった。そして、囁く。
「力が欲しくないか?」
ジェムは眉間に皺を寄せた。
「なに?」
「俺たちに協力しろ。そうすれば、お前の望む力を与えてやる」
ジェムは自分の胸倉を掴む男の手首を握り、男の顔面目掛けて唾を吐きかけた。侮辱を受けた男は血走った目でジェムの頬を一発殴り、襟先のピンバッジを抜き取った。
そこへ、ダンボール町を束ねるブルースが、彼の信念を貫き通すため、青白い顔で刺叉を持って男に抗戦しに来た。刺叉に方と脇を挟まれた男は突然のことに対応しきれず、床に転がって抑えつけられた。男は悔しそうに歯を食いしばりながら、手に持ったピンバッジをバンの方へ投げ飛ばした。
恐怖に戦きながらそれらの様子を見守っていたボランティアの人々や、数人のダンボール町の住民を余所に、先程まで率先して住民たちをバンに乗せていた女が駆け足でバンに乗り込み、後部ドアを閉めた。その音を合図に、ボランティアスタッフに紛れ込んでいた別の男が、タイヤの傍に転がっていたピンバッジを拾いながらバンの運転席に乗り込み、車を勢いよく発進させた。
バンが走り去るのを見送っていて握る手の力が疎かになったバーロウから、リリーは腕を振り解いてジェムの許に駆け寄り、しゃがみ込んだ。
「ジェム、大丈夫?!」
「――ああ、なんとか」
ジェムの答えに安堵し、リリーは去っていくバンの後ろ姿を見つめた。ふう、と小さく深呼吸をして、全神経を集中させる。
ふわり、とリリーの身体から漂う光の砂塵に、ジェムは、はっとして彼女の背を注視した。
光の粒はじわじわ滲みだして、彼女の背に昆虫翼に似た光の膜を形成し始めていた。また、静かに点滅しながら光の粒はくるくると螺旋を描き、光の膜に葉脈のような模様を描き出した。
――それを、ジェムが彼女の腕を掴んで止める。
「リリー、やめろ」
「――でも、」
「きみの力にも限界がある。あんなに速く動くものを、どこまでも追いかけられるわけじゃないだろ」
ジェムの指摘に、悔しそうに歯を食いしばりながら、リリーは身体から力を抜いた。リリーの背に広がっていた光の粒が、みるみるうちに彼女の体内へと集束していく。
その様子に安堵しながら、ジェムは口を開いた。
「……それに、」
彼が次の言葉を紡ぐ前に、けたたましいサイレンの音が辺りに響き渡った。続いて、数台のパトカーが姿を現し、バンが走り去ったのと同じ方向に向かってダンボール町の前を通り過ぎていく。
リリーは言葉を失って、ただ呆然とその光景を眺めていた。そして、
「BPDです。事件について、お話を伺いに参りました」
背後からの声に、ジェムとリリーのふたりは振り返った。現れた、金髪を後ろ手に一括りに纏めたスーツ姿の女性を見て、ジェムは目を丸くする。
「ル・ロワ警部」
ブランポリス市自治体警察のカトリーヌ・ル・ロワは、見覚えのない青年から名を呼ばれて、目を眇めた。
「どこかでお会いしましたか?」
「ジェームズです、父はアラン・グレアム」
「ああ、君か! とすると、あの電話はあなたの仕業ですか」
身に覚えのない話に、ジェムは一瞬眉根を寄せた。
「……ええ、知り合いに頼んだんです。まさか、ル・ロワ警部が来てくれるとは思いませんでしたけど」
「どうやら、父親から悪い影響を受けているようですね。司法の手を借りようとでも思って、こんな囮計画を立てたのでしょうが、自分を悪く見せたところで得られることなんてなにもありませんよ。それとも、偽計業務妨害罪で逮捕されたいんですか?」
「業務――妨害?」
「ブラックスミスを名乗る者から、『本日13:00に、市の害毒であるダンボール町を根絶する』という趣旨の犯罪予告を受けました。私たちは犯行現場を押さえるため、ここに張っていたというわけです。しかし実際来てみれば、犯人はボランティアスタッフに扮した別の集団で、スミスの探偵は被害者。これが妨害行為以外のなんだと言うのですか」
「なんですか、それ――」
思わず声を上げたリリーを、ジェムは片手で制した。
「ミズ・ラーキンズについての通報は?」
ふたりの遣り取りから、ル・ロワ警部は怪訝そうにジェムたちの顔を交互に見比べた。やはり、警察の人間を前に下手な誤魔化しは通用しないな、とジェムは心の中で舌打ちした。
怪訝な表情のまま、ル・ロワ警部は問い掛けに答えた。
「ええ、ありましたよ。まさか、あれにも君が関わっているんですか?」
「まあ、そうですね。実際には、グレグソン弁護士が自発的にやられたことですが」
「そうですか。まあ、結果的に犯人の顔を確認できたわけですから、ご協力には感謝しますが、このような混乱を招く作戦は今後控えて頂きたいですね。ここにいるのが私でなければ、今頃あなたは留置所で拘束されていますよ」
「なら、次からはル・ロワ警部を頼ってもいいですか? 父のときみたいに」
「……捜査協力、と受け取りましょう」
ル・ロワ警部の曖昧な返事を、ジェムは承諾と受け取った。とはいえ、これで警察と協力関係になったわけではない。困ったときには、市民の安全を守るという警察の役目を利用する――そのために、時々こちらからも情報提供という名の捜査協力をする。それだけの関係性を得ただけだ。
ざざざ、という雑音と共に、ル・ロワ警部の右肩に取り付けられた携帯無線機が男の声を受信した。
「なんだ」
左手で無線機のボタンを押しながら、ル・ロワ警部が応えた。すると、再び雑音を含みながら、男の声が無線機から聞こえる。
「――B班、被疑者を確保。ワゴン車に乗せられていた男女6名、現場で拘束されていたマデリン・E・ラーキンズを含む男女18名、計24名を確認、保護しました」
「そうか、報告ご苦労」
「――警部、もうひとつ」
「なんだ」
「――被疑者の押収品から、ピンバッジが出たとの連絡が。先程奪われた、スミスの探偵のものかと」
ル・ロワ警部は、ちら、とジェムを見遣った。
「……わかった。あとで私のところへ持ってきなさい」
無線での会話を終えたル・ロワ警部は、その間に立ち上がって顔を突き合わせて喋っていたジェムとリリーの方へ向き直り、「ミスター・グレアム、」と呼びかけた。しかし、顔馴染みの青年は返事どころか注意すら向けてこないので、ル・ロワ警部は仕方なく、「ジェームズ、」と名を呼んだ。
ちょうど、リリーに怪我の具合を見られていたジェムは、ル・ロワ警部の呼び声で視線をそちらに向けた。
ル・ロワ警部は言った。
「被疑者の所持品から貴方のバッジが押収されました。君が知人に頼んだという犯罪予告の通りに、犯行を偽る目的で盗んだのかもしれません。明日には、部下にあなたの職場へ届けさせましょう」
告げられた内容に、ジェムは驚いた。
「いいんですか? 証拠品ですよね?」
「明日までに必要な調査を終わらせますので、お気遣いなく」
ジェムの愛想笑いが引き攣った。意図したわけではないのだが、自分のせいでル・ロワ警部にせっつかれて仕事をしなければならない人が生まれてしまったようである。
その後、別で警察の聴き取りを受けていたバーロウが相変わらずのお節介を発揮して――または、野次馬根性で――、ジェムの傷の手当て等を強行しようとし、やんわりとリリーに阻止されたのだった。