06
『グレグソン法律事務所』のオフィスがあるニューノール区のビルを出て、数メートルほど歩いたところでジェムは口を開いた。
「さて、どうしようか」
彼の隣を歩いていたリリーは、前を見ながらそう言ったジェムを見上げ、怪訝そうに眉根を寄せた。
「どうするって、なにがですか?」
リリーの問い掛けに、ちら、と彼女と視線を交わすも、ジェムは再び前を向いた。
「ぼくたちの仕事は、あくまで炊き出しの見守り調査だ。エリザベスのことはグレグソン弁護士にも伝えたし、警察も動くだろう。ぼくたちの役目は終わったと思うけど」
「警察に任せて放っておけ、ってことですか? "かの組織"が関わっていることは明白なのに? わたしは、あの人たちから妖精を守りたくて、スミスの探偵になると決めたのよ」
"かの組織"は、ジェムがバーロウにも教えたが、妖精伝説を妄信して彼らが持つ"魔法"の力にあやかろうとする人たちに手助けをする連中である。彼らは、力に対する人々の尽きることのない欲望を利用してこの世界を支配し、はるか昔に与えられたという神に約束された地を甦らせようと画策しているカルト集団で、スミシー探偵社や"蹄鉄会"が最も危険視している組織だ。世界の脅威となるには、まだまだ小さいが、近い未来にはこのエルヴェシア共和国の存続を脅かす存在だと言われている。
そして、この組織の存在こそ、リリーがジェムとともに探偵社で働く理由なのだ。
「そうだよな。だから、どうしようか?」
勢い込んで詰め寄るリリーに対し、ジェムは立ち止まって、冷静に同じ問いを繰り返した。彼の態度に、リリーは、ジェムが本気で調査を打ち切ろうと考えて、話を切り出したわけではないと理解した。
リリーはしばらく、じっとジェムの瞳を覗き込んで、彼の思惑を探ろうとした。だが、できなかった。親友のヴィンスからジェムの嘘を見抜く方法は教えてもらったものの、それ以外のジェムの感情を読み解くことは、リリーにとって、他の誰を相手にするよりも難しいのである。
「……わたしを試してるの? それとも単純に、わたしの意見が聞きたいだけ?」
リリーの質問に、ジェムはうーん、と唸って考えた。率直に言えば、先程の問い掛けに大した思惑はない。目的があるというなら、それは仲間との意見交換だ。しかし、彼女が"かの組織"に対してどれだけ真剣なのか、確認しておきたいと思う気持ちも否定できない。
「……どっちもかな」
ジェムは曖昧に答えた。
それでも、ジェムの答えに納得した様子のリリーは、目を伏せて沈思した。
「――炊き出しの会場へ戻りましょう」
返ってきた意外な答えに、ジェムはくい、と片眉を上げた。
「手を引くの?」
「いいえ、情報を集めるんです。本来の仕事をしつつ、女性の行方を。ダンボール町の皆さんを看病してくださっているのは、炊き出しのボランティアの方々ですもの。直接的にではなくても、お話が聞けるかもしれません」
「なるほどね。前から思ってたけど、きみ、結構悪知恵が働くよね」
「合理的と言ってください。オルトンと一緒に育ちましたから、このくらい序の口です」
「強かなお嬢様だ」
ジェムの感想に、リリーはむっと唇を尖らせた。
「それ、あんまり気分良くないです」
「ごめん、強か、が?」
「お嬢様、が」
「……なんで? ただの敬称だろ?」
すると、リリーはきゅっ、と唇を噛み締めて、下を向いてしまった。自分の言葉がどうやら彼女を傷付けてしまったらしい、とジェムは気不味そうに首を摩った。
「馬鹿にしてるんじゃないよ、敬ってるんだ。ぼくのようなスラム出身の人間にとって、お姫様もお嬢様もおんなじなんだ。悪気はない」
「それでも、嫌です。なんだか一線を引かれているみたいで」
「一線?」
「『お嬢様だから』、『妖精だから』って一括りにされて、私たちが相容れない理由にされるの。それが嫌なの。だって、私にはどうしようもできないことだから」
リリーは、なにかと出自を気にするところがあった。それはジェムも同じなのだが、見下されまい馬鹿にされまいと虚栄を張ったり実力を養ったりしてきた彼とは少し違って、彼女は、そもそも出自で人を査定することを否とする。
未熟なのは出自のせいではない。ただ単純に、その者が未熟なだけ。なのにどうして、自分ではどうすることもできないもので因縁付けて、人の能力を判断し批難するのか。だからなのだろう、ひとつの呼び方として使ったつもりの『お嬢様』が、ひとつの括りのように聞こえてしまうのは。
自分なりに足掻いていたつもりだったけど、いつの間にか、スラム出身を馬鹿にしてきた奴らと同じ価値観になっていたのかもしれない、とジェムは自分を省みる。
「ごめん。次からは気を付ける」
素直に謝ったジェムに、リリーは安堵した様子で顔を上げた。
「ありがとう。……そのう、話は逸れちゃったけど、ジェムはこれからどうするべきだと思いますか?」
ジェムはうん、と頷くと、眉間に皺を寄せて、なにやら考え込むように視線を落とした。そして、重々しい口調で言った。
「……気になってることがある」
「気になってること?」
「"蹄鉄会"の炊き出しと、女性の失踪。同じ日に起きたのは、偶然なのか、それとも仕組まれていたのか」
「どういう意味です?」
「"蹄鉄会"の炊き出しは、以前から計画されていたものだった。ミズ・ラーキンズを連れ出したやつらも知っていたはずだ。むしろ、敵対する組織の計画を知らなかったなんて方がおかしい。つまり、"蹄鉄会"が近くに来ると分かっていて、彼らは今回のトラブルの起こしたことになる。なぜ、そんなリスクを犯したんだろう? 」
確かにジェムの言う通り、"蹄鉄会"がやってくる直前に犯人たちがダンボール町に訪れ、全住民になにかを施し、たったひとりの女性を連れ去る利点はなんだろう。"蹄鉄会"がやってきて異常に気付いて間もなく、スミスの探偵が調査に乗り出すだろうことは、誰しもが想定できたはずなのに。
「……トラブルを起こすつもりではなかった、とか」
リリーは考えられる可能性を提示した。
「訪れた先に偶然因縁の女性がいたって?」
「確かに怪しいけど、可能性がゼロではないなら、なんでも疑うべきだと言ったのはジェムでしょう?」
「そうだね。だけど今は、この状況から推測できる最悪を考えよう。もし、これらの出来事が偶然ではなく必然で、"かの組織"が"蹄鉄会"の活動を利用しようとしているのだとしたら、やつらの狙いはなんだと思う? 炊き出しの前に、あの場所にやってきた理由は?」
リリーは思い返した、ダンボール町で耳にした話を。彼らは、怪しいボランティア団体について、なんと語っていただろうか。今日、"蹄鉄会"が現れなかったら、ダンボール町の住民はどうしていただろうか。そもそも、改めて"蹄鉄会"が現れたとき、住民たちはなにを感じただろう。安堵か、それとも――。
「……そういえば、ボランティアの女性の方が言っていましたね。ダンボール町の方々は、ミアたちの施しを炊き出しの一環だと思って受け入れた、って。もしかして、体調不良を"蹄鉄会"のせいにするつもりだったのかしら?」
「――だとしたら、なぜ彼女だけは連れ去った?」
「彼女だけは連れ去る必要があったのでは?」
「そうかもしれない。でも、そのせいで警察が動く事態にまでなった。"蹄鉄会"が来てしまえば、そうなることは予想できたはずなのに。だから、おかしいんだよ、"蹄鉄会"が来た後に現れるならまだしも、来る前にやってくるなんて。それで、気になってるんだ。もしかすると、これは――まだ計画の途中なんじゃないかって」
「それってつまり――、もう一度、"かの組織"がダンボール町に現れるってこと? ボランティアの方々に紛れて?」
「そして、ダンボール町の全住民が連れ去られてしまったら?」
「真実がどうであれ、"蹄鉄会"は責任を問われることになります。それに今度は……、警察もいるわ」
「"蹄鉄会"内部では、事件を未然に防げなかったことで、スミシー探偵社の立場が更に危うくなるだろうな。妖精課はますます立つ瀬がない。まったく、本当に最悪だね」
その最悪を考えよう、と言ったのは自分だが。
「急ぎましょう、こんなところで立ち止まって話し込んでいる場合じゃないわ。タクシーを拾います」
そう言うなり、リリーは車道に近付いて左腕を水平に出し、浅緑と白の配色のタクシーに掌を見せた。流石、シティ・オブ・ブランポリスとの俗称がある区域だけあって、ニューノール区の道路は常に客待ちのタクシーで賑わっている。リリーがサインを出して間もなく、タクシーは彼女の前で停車した。
リリーが先に乗車したが、ジェムは全開にされたタクシーのドアに手をかけ、そのままじっと車内を見つめている。リリーは上体を倒して、ジェムの顔を覗き込んだ。
「ジェム?」
呼びかけると、ジェムは真っ直ぐにリリーの目を見つめ返してきた。あまりに真剣な眼差しなので、リリーはどきっとして、身を強ばらせた。
ジェムは切羽詰まった声で言った。
「……正直、迷ってる。このまま、ぼくたちが戻ってもいいのか。これは、罠なんじゃないか、って」
リリーは膝の上でぎゅっ、と拳を握った。
「だったら尚更、戻らなきゃ。戻って、確かめるの。それで、もし罠だったら、突き破ってやるんです――わたしたちで」
わたしたち、か。リリーの答えにジェムは呆れて、思わず、ふっ、と笑ってしまった。
……きみを危険に晒すことになるかもしれないから、言ってるのに。
「――分かった、行こう」
決心して、ジェムはタクシーに乗り込んだ。
タンブルウィードへ、と目的地を告げるリリーに、運転手は殊更渋い顔をした。