05
「確かに、これは僕の字で、この本はうちの事務所にありました」
柔らかく癖のある胡桃色の髪の青年は、そう言って、ふたりの訪問客の顔を交互に見遣った。蜂蜜色とアンバーとが混ざった髪の青い目の青年と、チョコレートブラウンの髪に緑の目の少女は、胡桃色の髪の青年のヘーゼル色の視線に緊張した面持ちを見せた。
「どこで拾ったんです?」
「……ダンボール町に住んでいた、行方不明の女性の『家』にありました」
青い目の青年――ジェムが答えた。
「ダンボール町に?」と、ヘーゼルの目の青年。
「その女性、エリザベスって名乗っていたみたい」と、緑の目の少女――リリーが補足した。
ヘーゼルの目の青年は、はあ、と深い溜め息を吐いた。
「……リリー、君はどれだけ僕を心配させれば気が済むんだ」
「わたしにはわたしの役目があるんだもの。オルトンの言うことばっかり聞いてられないわ」
「分かってるよ。だけど、愚痴ぐらい言わせてくれ」
オルトンはヘーゼルの目をちら、とジェムの方に向けた。小言を言われるのだろうか、とジェムは緊張して肩を強ばらせた。ふう、と二度目の深い溜め息がオルトンの口から漏れ出た。
「――それで、行方不明ですって? 詳しい経緯を教えて頂けませんか?」
内心ほっとしながら、ジェムは答える。
「……今朝、ダンボール町にボランティアと思われる団体が現れたんだそうです。そして、ミアという赤毛の女性によって連れ去られた、と」
「ミア……? ミアってまさか、」
急に顔色を変え、詰め寄ったオルトンに、ジェムは片眉を上げ、隣に座るリリーの方に首を回した。
「話したの?」
「わたしの顔は、あの人たちに知られているもの、"猫の密約"があるとはいえ、オルトンにも危険が及ぶかもしれないでしょう? わたしたち、よく一緒にいるから」
「その密約のおかげで行く先々に猫がいるから、ちょっとした見世物だよ」とオルトン。
「まさか、猫が人間を守ってるなんて、誰も思わないもんな」とジェムは、オルトンに同情した。
ジェムの言葉で苦い経験でも思い出したらしいオルトンは、顔を強ばらせた。
「ところで、この本についてですけど、」咳払いをしながら、オルトンは手許の本に視線を戻して、言った。「そういう事情であれば、"蹄鉄会"の人間として、こちらからお話すべきことがあります」
畏まった態度でオルトンが言うので、ジェムとリリーは思わず姿勢を正した。
アルフォンス・"オルトン"・ギファードは、今年入会したばかりの新規"蹄鉄会"会員である。リリーとは幼馴染みで、実の兄妹以上に兄妹らしい関係を築いており、ジェムと出会ったときも彼らは一緒だった。ただ、オルトンには複雑な家庭事情等があって、それが原因でリリーに依存しすぎるきらいがある。
……それでも、以前よりはマシになったらしい。
ジェムは、ちらり、と隣の少女の様子を窺った。
オルトンのインターン先である『グレグソン法律事務所』で、ダンボール町で見つけた本のことを聞くためジェムとリリーは、あらかじめ法律事務所に電話を入れていた。パラリーガルをしているアルフォンス・ギファードに、スミスの探偵が話したがっている、と。電話先の女性は戸惑い、電話の相手を訝しんでいたようだったが、オルトンに話を通せば難なく受け入れられたらしい。それ以降は、とんとん拍子に事が進んだ。
そして訪れたグレグソン弁護士の個人事務所で、こうしてジェムたちは昼休憩中のオルトンに相対しているのであった。
「この本がうちの事務所にあったとき、これを所持していたのは、マデリン・ラーキンズという弁護士でした」
「マデリン? エリザベスではないの?」とリリー。
「彼女のミドルネームが、エリザベスだ」と、部屋の奥からオルトンとは別の声が言った。この事務所の所有者で、ジェムたちが今まさに使用している部屋の主である。
「申し訳ない。聞くつもりじゃなかったんだが、耳に入ってきて」
三人の視線を一斉に浴びながら、グレグソン弁護士は言った。
グレグソン弁護士は、蝙蝠のような目付きをラウンド型の眼鏡で印象を柔らかくしている、中肉中背の男だった。ローズグレーの髪はすっかり禿げ上がり、肌に艶があっても少し年老いて見える。
「構いませんよ。ぼくは最初から、あなたに聞いてもらっているつもりでしたから」と、にこやかに微笑むジェム。
すると、グレグソン弁護士は、ふん、と鼻で笑い、「だろうな」と呟いた。それから、手に持っていた食べかけのサンドウィッチ(トウモロコシ粉を使った黄色くて分厚いパンで挟んでいるサンドウィッチは、この国の名物である)を一気に口に詰め込んだ。
上司が椅子から立ち上がり、こちらにやってくる気配を察知して、オルトンはソファの脇に移動した。グレグソン弁護士は、ちょうどジェムの真向かいに座り、袖口を差し出した。
「これでいいか?」
グレグソン弁護士の袖口には、彼が"蹄鉄会"であることを表す、カフリンクスが付いていた。それを確認したジェムは、左の襟先をひっくり返して、探偵社のピンバッジを見せながら言った。
「ご提示ありがとうございます、ミスター・グレグソン。妖精課ブランポリス支部のジェームズ・カヴァナーです」
すると、グレグソン弁護士は興味をそそられた様子で、目を大きく見開いた。
「あの妖精課か! こんな早くに会うことになるとはなあ!」
そして、ずい、と身を乗り出した。
「なら知っているだろう? うちは、エルヴェシアならではの案件を多く請け負っている。きみらと同じようにな。分かるだろうが、妖精の類に関わると危険も多いんで、今年からうちの者には皆、身元を確認できるような本を1冊持たせることにしたんだ――免許証や保険証とは別に、絶対手放すなと言ってな――この本が、そうだ。ラーキンズも勿論、そういう案件を抱えていた。"牡鹿の子"って知ってるか? 最近、彼女が調べていた社会福祉団体だ。その団体の一部が、なかなかあくどい事をしてるってんで、探ってたみたいなんだがな、ちょうど1週間前に突然音信不通になったんだ。そのことは警察にも伝えていて、探偵にも捜索依頼を出していたんだが、まさかダンボール町にいたとは……」
グレグソン弁護士の話を聞いて、ジェムとリリーは視線を交わした。
「その団体、ホームレスキャンプを巡回する無料クリニックをやっているんですか?」
来客用に出されたコーヒーカップをソーサーごと手にしながら、ジェムが訊ねた。
「いや、そんな大した団体じゃない。"妖精の階段"の聖堂に部屋を借りて、セミナーを開いては、自己啓発のためのABCを説いている。内容は――まあ、この手の胡散臭い連中のなかでは、マシな方だ」
そのような団体に聞き覚えがあったリリーは、目線をオルトンの方へ寄越すと、彼はこくん、と頷いた。
……やっぱり。"牡鹿の子"は、オルトンが前に教えてくれた、問題の多い団体のひとつなんだ。
「では、ミズ・ラーキンズがダンボール町にいたのは、なぜだと思います?」
再び、ジェムが訊ねた。グレグソン弁護士は、すりすりと顎を撫でながら(彼の考えるときの仕草らしい)答えた。
「家を追い出された程度なら、出勤してきて私に相談してくるだろうから、身を隠していたのかもしれないな。だとすると、あいつ、随分と込み合った問題に首を突っ込んだようだな」
ジェムはコーヒーカップとソーサーをテーブルの上に置くと、両膝に肘を乗せて前屈みになった。
「ぼくたちが調べた限りでは、ミズ・ラーキンズは今朝、路上生活者たちに無料診療を施す団体に連れ去られたようです。しかもその団体が去った後、ダンボール町では体調不良を訴える住民が多く、"蹄鉄会"らが臨時で介抱することに」そして、ジェムはグレグソン弁護士から目を逸らした。「一体、彼らになにをしたのか……」
「……こいつは、タチが悪そうだ」
グレグソン弁護士はそう呟くと、首を捻ってオルトンにめらめらと正義感に燃える視線を遣った。
「ギファード、」
はい、とオルトンは返事をする。
「警察に電話しろ。今聞いた話を全て、余すところなく伝えるんだ」
「分かりました」
了承するなりオルトンはソファから立ち上がり、自分の仕事机に置いているミントグリーンの電話機を手に取った。
「それじゃあ、ぼくたちはこれで」
別れを告げながら立ち上がるジェムに続くかたちで、リリーもソファから腰を上げると、オルトンが焦った様子で振り向いた。どうしたのだろう、とリリーが思って彼と視線を交わすと、オルトンはぱっとリリーたちから目線を外し、既にリリーたちに後ろを向けているグレグソン弁護士に「先生、先生」と小声で呼びかけた。
するとグレグソン弁護士は、ああ、となにかを思い出した様子で踵を返し、ドレスシャツの胸ポケットからカードケースを抜き取りながら「ミスター・カヴァナー、」とジェムを呼び止めた。
「うちの番号だ。進展があれば、連絡してくれ」
「勿論です」
そう言って、グレグソン弁護士が差し出した名刺を受け取り、ジェムは仕事用の笑みを口許に浮かべた。
「くれぐれも違法な調査はするなよ、助けようにも助けてやれなくなるからな」
と、部屋を出ていく探偵の背中に忠告するが、そんなグレグソン弁護士に対してきちんと会釈をしたのは、リリーだけだった。