04
中の様子をざっくり把握しようと、ふたりが肩を並べて入り口に立っていると、ひょい、と背後から、"蹄鉄会"の男性会員がふたりの間に顔を突き出した。あまりにも唐突だったので、リリーは吃驚して、数センチほど飛び上がった。
「謎のボランティア団体に連れ去られたという女性は、住民の方々からエリザベス、と呼ばれていたそうです」
男性会員が言った。ダンボール町での調査は、引き続き彼がサポートしてくれるようだ。有難いことではあるが、自分たちについて余計な興味を持たれたかもしれない、とジェムは彼を些か面倒に思った。
しかし、そんなことなど微塵も思っていないかのような笑みで、ジェムは男性会員に応じた。
「貴重な情報をありがとうございます。ぼくはジェームズ・カヴァナーです」
「ジャスティン・バーロウです」
「リリアーヌ・ベルトランといいます。今日は、よろしくお願いしますね」
リリーの完璧な愛想笑いに、バーロウはぽおっ、と見蕩れた。リリーの笑顔はこの頃、ジェムの友人であり彼女の親友であるダイナーの看板娘の特訓を受けてから、彼女の強力な武器となりつつある。いずれその武器が面倒事を引き起こさなければいいが、と彼女の保護責任者役を担うジェムは複雑な心境である。
「それじゃあ、リリー。前に教えた通り、順番に調査をしよう。きみは左から、ぼくは右からいく」
「はいっ!」
ふたりは左右に分かれ、ジェムは反時計回りに、リリーは時計回りに、行方不明のエリザベスという女性が使っていたダンボールハウスを端から調べ始めた。
リリーが初めに手をつけたのは、トランクケースを利用した衣装箱だった。中にしまわれていたのは、ワンピースが1着に、黒い長袖シャツが1着、ジーンズ素材のパンツが1着と、下着類が2日分で、リリーは恐ろしく少なく感じた。
それにしても、最初に目を通すことになるのが衣装箱だなんて、まさかこれに気付いてジェムは、自分に左から調べるよう言ったのかしら、とリリーは訝しんだ。
一方のジェムは、まず、床に手を沿わせ、なにか異物が落ちてはいないかと探った。それから、薄いブランケットの包みに手を伸ばした。包まれていたのは、数冊の本だった。どれもペーパーバックの古本で、ジャンルも様々だが、そこに一冊だけ法律に関する本が混ざっていて、異彩を放っている。
ぱらぱらと、だが丁寧に本を捲っていると、「ミスター・カヴァナー、」と外からバーロウが話しかけてきた。
「どうして、ダンボール町の人たちが食事をしていないと分かったんですか?」
ジェムは、ちら、とバーロウの方を見遣ったが、直ぐに手許の本に視線を戻した。
「先程も言いましたが、ただの当て推量です。住民の皆さんの症状が、ぼくが経験したものによく似ていたので」
「一体、なんの病気ですか?」
「病気では、ないんですけど」
話してもいいのだろうか、とジェムは逡巡する。
……いや、隠す理由もないか。むしろ、知ってもらった方がいい。この国には、妖精と呼ばれる人々がいて、その人たちがどんな環境に置かれているのかを。そのために、妖精課は創られたのだから。
「――オド切れ、とか、"魔力"酔い、と呼ばれる症状です」
「……オカルトですか?」
「困ったことに、現実なんですよ」
ジェムは苦笑しながら、バーロウを見上げた。
「ミスター・バーロウ、スミシー探偵社に妖精課という部署が新たに設置されたことはご存知ですか?」
「あ、はい、噂には。あれ、本当だったんですか」
「ええ。ぼくは、その妖精課の捜査班です」
「……えっ」
バーロウはぽかん、と魚のように口を半開きにしたまま、その場に固まった。まあ、そんな反応になるよな、とジェムは苦笑する。
「エルヴェシア共和国の建国の物語は、ご存知ですよね?」
「……は、はいっ。古代の妖精王国の存在を信じて、アルビオン王国の探検家が妖精を探しに航海に出た先で、このエルヴス島を発見したという話、ですね?」
「その妖精伝説を妄信して、彼らが持つ"魔法"の力にあやかろうとする人たちがいるんですよ。オッドアイ、アルビノ、巨人症や小人症、そういうちょっと珍しい姿の人たちは、妖精か、妖精の力が宿っていると見なされ、かつては人身売買が盛んに行われていたとか。未だに、東方の国の人魚伝説のようなものを信じている連中もいると、そんな噂もあるんです」
ジェムの話を聞き終わると、バーロウはしばしの間、黙り込んだ。突拍子もない――かといって、冗談にはできない話を、事実を、飲み込もうとしているようだった。
バーロウは低く小さな声でジェムに訊ねた。
「……人魚の肉を食べると、不老不死になるとかいうやつですか」
それを言葉で肯定するのは、あまりに残酷だ。バーロウの質問への答えを、ジェムは微笑と話を逸らすことで誤魔化した。
「エリザベスは、そういう集団に、誘拐されたのかもしれません」
「じゃ、じゃあ、魔力酔い、っていうのは――」
「ジェム、」
鈴の音が響くような凛とした声に呼びかけられ、ジェムは振り向いた。
「これ、寝袋の中に隠してありました」
そう言って、リリーが差し出したのは、一冊の本だった。ジェムが調べていたペーパーバックとは違い、古さを漂わせながらもしっかりと厚紙を使って装丁されている。整理整頓をしっかりしているこの住人が、これだけは寝袋の中にしまっていたとは、隠していたというより、寝るときも傍に置いておくほど大事にされていたといった方が正しいだろう。
ジェムは、手にしていた本を元の位置に戻し、新たな本をリリーから受け取った。表紙を開いて見返しを捲ると、その裏には、「この本を拾ったら、私たちにご一報ください」というメッセージと、電話番号がインクで書かれていた。これを書いたとき直ぐに本を閉じたのだろうか、本扉に移ったインクのシミができている。
「電話番号?」と、後ろから覗き見をしていたバーロウが、疑問を口にした。「電話なんて、ダンボール町にあるはずないのに……」
バーロウの呟きを聞くなり、ジェムはぱたん、と本を閉じ、「これ、借りていきますね」と言いながら、一方的に調査を打ち切った。エリザベスのダンボールハウスを出て、真っ直ぐにトラックの方へと向かう。
「ブルース、」近付きながら、ジェムはブルースに訊ねた。「エリザベスがここへ来たのは、いつのことですか?」
突然声をかけられたことに吃驚したらしく、ブルースの持つ刺叉の先が僅かに上がった。ゆっくりと肩から力を抜きながら、彼は答える。
「確か、1週間前のことだったか……」
「彼女がここで暮らすことになった経緯等は、聞いてますか?」
「バカヤロウ、そういうのを言えない人たちを受け入れるのがオレたちの町なんだよ!」
「知らないんですね?」
「知ってても言わねェよ!」
「すみません、確認したかったんです」
ジェムが笑みを浮かべたまま謝ると、ブルースは「そうかよ……」と口ごもった。下手に出られると強気な態度を維持できなくなるようだ。
ブルースとの会話を終えたジェムは、くるりと踵を返し、遅れてついてきたバーロウの前に立つと、右手を前に差し出した。
「ミスター・バーロウ、申し訳ありませんが、ぼくたちはこれで失礼します。またなにかあったら、探偵事務所の方にご連絡ください」
「あ、は、はいっ」
差し出した手をバーロウが握り、ジェムは頷いて、その手を引っ込めた。目まぐるしく変わる状況にバーロウは呆気に取られて、ジェムの手を握っていた手は、そのまま空を握っていた。
ジェムはバーロウや他のスタッフに会釈しつつも、足早にダンボール町を後にし、小走りで追いかけてくるリリーを確認しながら、しばらくそのまま歩き続けた。そして、ふいに歩みを止めると、振り返ってリリーに訊ねた。
「なにに気付いたの?」
「えっ?」
少し息を切らしながら、リリーは聞き返した。もう一度、ジェムが訊ねる。
「なにかに気付いたから、ぼくを呼んだんだろ、なにに気付いたんだ?」
「ええと、」
「――ごめん、ゆっくりでいい。歩くの、速かったよな」
はあ、と溜め息を吐いて、ジェムは、焦ってリリーを捲し立てるような態度を取った自分を、ひとまず落ち着かせようと試みた。しかし、そう簡単に気持ちは切り替わってくれない。ジェムは前髪を掻き上げ、目を閉じた。
「……大丈夫?」
息を整えつつ、リリーは訊ねた。それに、くしゃっとジェムは笑う。
「ちょっと余裕ない」
「もしかして、ミスター・バーロウ?」
「……協力的なのは有難いけど、首を突っ込まれるのは、正直きつい」
引き攣った笑みを浮かべながら言うジェムに、ふふ、とリリーは笑った。
「もしかして、わたしのときも、そうだった?」
「聞いてくれるなよ」
くすくす、とふたりは笑い合う。そうして、ジェムの気持ちは自然と穏やかになり、リリーは呼吸を落ち着かせることができた。
それから、真剣な顔顔付きなったふたりは、「それで、」と話を元に戻した。
「その本に書かれたメッセージですけど、」リリーが言った。「わたし、その字に見覚えがあるんです」
「字に?」
「それから、背表紙」
リリーが、ジェムの持つ本を持ち上げて、示した箇所には、シールと、それが剥がれないように補強するテープが貼ってあった。無地のそのシールには、『グレグソン法律事務所』と印刷されている。
「その事務所、オルトンのインターン先なんです」
リリーの話を聞いて、ジェムは渋面になった。
「アルフォンス・ギファード? きみの幼馴染みの?」
「はい」と、リリーがジェムと共に握っている本の表紙に手をかけ、彼に目配せしたので、ジェムはリリーに本を渡した。表紙を捲りながらリリーは言う。「これは、オルトンの字です」
……面倒なことになった。
リリーから告げられた事実に、ジェムが最初に思ったのは、そんなことだった。