01
探偵が先か、事件が先か。探偵がいるところに事件が起きるのか、はたまた、事件が起こるところに探偵がいるのか。
ただひとつ言えることは、多くの場合、探偵は事が起きるのを防ぐために呼ばれて現場にいるということである。ならば、事件を未然に防げなかった探偵は、探偵として失格なのか。否、起こった事件の裏に隠された陰謀を突き止め、阻止することができるのなら、名探偵であると言えるだろう。
だが、それが探偵の役割なのだろうか。警察や保安局や警備会社などがある社会に、未だ探偵が必要とされている理由なのだろうか。それとも、実は失せ物探しや素行調査こそが、探偵を探偵たらしめる仕事なのだろうか。
ところで、我らがスミシー探偵社に求められている役割は、一般的な私立探偵事務所とは少々異なる。彼らは、「より良い社会を実現するため」に、ときに、法の護りから溢れた者たちを救うため、あるいは、法の縛りでは捕えられない者たちと戦うため、"蹄鉄会"の助力者として、このエルヴェシア共和国を影から支えているのだ。
――と言えば聞こえはいいが、簡単に言ってしまえば、スミシー探偵社は"蹄鉄会"の会員だけが利用することのできる会員制の探偵社である。そのため、スミシー探偵社の探偵は、"蹄鉄工"と呼ばれている。
その若き"蹄鉄工"である、ジェムこと、ジェームズ・カヴァナーは、キンバリー通り32番地に位置する『パットズ・バー&グリル』という名の店の屋根裏部屋に住んでいる。
彼は、自身の所属する会社から出勤の連絡が来るまでは、自宅待機を求められていた。彼が請け負う依頼がなく、会社からの連絡がなければ、1日をこの簡素な屋根裏部屋か、下の店のカウンター席に座って、少ない客の観察や彼らの会話に耳を傾けて過ごす――それが、彼の日常である。
今日もジェムは、自身の部屋でその時を待っていた。両手を床につき、両足をベッドに掛けて腕立て伏せをするなどして、無心になる時間を作っていた。こうでもしなければ、頭の中を埋め尽くす思考(ほとんどはどうでもいい事柄である)から抜け出せないからだ。
だからといって、なにもこんな負荷のかかるトレーニングをわざわざしなくとも、と、集中力が途切れて無駄な思考が過ぎったとき、ごんごんごん、と部屋の扉を乱暴に叩く音がした。続く、男のしゃがれた声。
「おい、ジェム、電話だ!」
仕事である。
屋根裏部屋を出て廊下を突っ切り、さらに階下の『パットズ・バー&グリル』へ向かう。従業員通用口から入ってすぐの壁際に、ダイヤル式の電話が置いてあった。ジェムが着いたときには、この店唯一の従業員である黒人男性のウィリーが、ちょうどその電話の受話器を置いたところだった。ウィリーはジェムの姿を認めると、「おはようございます、ジェム」と会釈した。
「正午までに、事務所に来るようにとのことでした」
「ありがとう、ウィリー」
「なにか食べていきます?」
「いや、大丈夫。パットにシャワーを借りるって伝えてくれる?」
「相変わらずの客入りなので、黙っていてもばれませんよ」
すると、店内のカウンターキッチンの方から、「聞こえてるぞ、ウィリー!」と怒声が響いた。店主のパットの声だ。少し前に、ジェムの部屋の戸を叩いたのもこの男である。
おっと、とウィリーがおどけた調子で首を竦めた。パットの怒鳴り声に少しも動じていない様子だ。それどころか、まるで楽しいことがあったかの如く微笑んですらいる。それに対し、ジェムは苦笑した。こんなにも性格が違うのに、ウィリーがどうしてパットに懐いているのか本当に不思議だ。
再び従業員通用口から店を出て2階に上がり、シャワールームを使ったあと、ジェムは屋根裏部屋に戻り、白地のシャツと鉄色を帯びたような青色のスラックスに着替え、媚茶色のベストを羽織った。そして、ワードローブの開き戸の裏に取り付けられている、鏡の下枠に隠された収納棚から小さなピンバッジを取り出した。それは、火鉗と蹄鉄を模した丸いバッジで、青と紫の石が埋め込まれている。ジェムがスミシー探偵社ブランポリス支部の探偵社員であることを示す、徽章である。ジェムは、その小さな徽章をシャツの襟先に、裏返しに刺した。
* * *
ブランポリスの中心地、ニューノール区の一画にある、華麗で小粋なことに定評のあるビルの喫茶店『ホースシュー・カフェ』の2階に、スミシー探偵社ブランポリス支部の事務所はある。通常ならばビルの裏に廻り、鉄骨の階段を上って事務所へ向かうのだが、ジェムにとっては、それは数週間前までの話だ。
彼は喫茶店の裏口からビルに入り、狭い廊下から続く小規模な焙煎所の横を通過し、壁でざっくりと仕切られただけの奥の個室に向かった。手前の壁には、『スミシー探偵社 妖精課特殊捜査班 ブランポリス支部』と書かれた真新しい金属製のプレートが掛けられている。
そこは、余った事務机や椅子を掻き集めたかのような、雑多なオフィスだった。入り口を正面に見据えるように空席の机が5つほど並ぶなか、一番奥の席には、虎のような目つきでありながら箆鹿や水牛などの大型草食動物を彷彿とさせる、褐色の肌の男が座っていた。男の机には、『ロナルド・ロイド』と彫られた三角のネームプレートが置かれている。男はジェムが入室したのに気付くと、「おはよう、ジェームズ」と声をかけた。
「やあ、ロロ。『おはよう』にはちょっと遅いよ」とジェム。
すると、ロロと呼ばれた男は、照れ隠しにも見える、引き攣った笑みを浮かべた。
「なあ、その呼び方だが――」
言葉を探すように視線を彷徨わせるロロが再び口を開くのを、ジェムはじっと待った。
「――変な感じがする。会社では、今までアランにしか呼ばれたことがなかったから。というか、君たち親子からしか呼ばれたことがなかったのに」
「……嫌だった?」
「いや、嫌とかじゃないんだ。ただ、慣れない。なんというか、くすぐったい」
「ごめん、知らなかったんだ、まさか父さんが勝手に呼んでただけなんて。それに、妖精課のみんなもそう呼ぶようになるなんて思いもしなかったし」
「いや、いいんだ。ロロで構わない。仕事の話をしよう」
咳払いをしてそう言うと、ロロは机の上に積み重なった紙ファイルのなかから1冊を取り出し、ジェムに差し出した。
「"蹄鉄会"が定期的に炊き出しを行っているのは知っているな?」
ジェムはファイルを受け取りながら頷いた。
「ホームレスシェルターやコミュニティセンターと提携して開催してるやつでしょ、それがどうかしたの?」
「見守り調査の依頼だ」
紙ファイルを開きかけていたジェムの手が止まった。
「見守り調査? うちで?」
「なぜだと思う?」
訊ねながらロロは机に肘をつき、手を組み合わせ、その上に顎を乗せた。それに対しジェムは、突然その話題への興味が失せたかのように、気怠げに目を細めた。
「さあ。年中人手不足のうちが、妖精課なんて新しい部署を作ったせいで、市民課だけでは対応できなくなったとか?」
「君の言葉は相変わらず、冗談なのか本気なのか分からないな」
喉をくつくつと鳴らして笑いながらロロが言った。ジェムはそれを無表情で見つめている。
……本気の冗談のつもりだった。
「見守り調査といっても、臨時的なものだ」とロロは話す。「炊き出しの日には、多くの生活困窮者がやってくる。職を失ったり、住む家を失った人々だ。なかには、必要に駆られて生活困窮者のなかに混ざって暮らす者たちもいる」
ジェムは、はっとした。
「妖精ですか」
「そうだ。妖精たちのなかには、どこかに定住し、人間に紛れて生活するより、各地を転々としながら暮らした方が"かの組織"に狙われないと考える者たちがいる。今回、この依頼をうちが請け負うことになったのは、炊き出しの参加者のなかに、そういう妖精がいる可能性があるからだ。また、それを狙ってくる奴らもな」
「つまり、誰かが誘拐されるかもしれないと?」
「誘拐というより、拉致だな、俺たちが危惧しているのは。それを阻止するためには、"魔法"に気付ける者が必要だ。特殊な目を持つ者が」
「……それ、ぼくを便利な道具扱いしてません?」
「すまんが、こういう時にこそ頼れと、"あの人"に言われているんでな」
「……"あの人"、ね。なら、ぼくの"ワトソン役"が来ることは了承済みですね?」
「"ワトソン"? きみの助手がどうかしたのか?」
「あれ。聞いてませんか?」
「いや、とくには。なんだよ、なにか特別な事情でもあるのか?」
「……聞かなかったことにしてください」
ジェムは苦々しげに呟くと、紙ファイルを持ったまま自分の机に移動した。ロロの机からひとつ離れた、入り口から程近いところにある席である。
"あの人"が誰かについては、ここではそう多くは語らないことにしよう。少し前に、ジェムは"彼"を調べていて、とんでもない目にあったのだ。それは、スミシー探偵社に妖精課なる部署ができる要因にもなった事件なのだが、ジェムにはまだ、思い出したくない事柄なのである。
紙ファイルに挟まれていた資料を捲り、読み始めてから間もなく、この度の炊き出しが催される会場がどこかを知ると、ジェムは目の色を変えた。
「――タンブルウィード」
思わず振り返り、ロロの顔を凝視するジェムに、ロロは意地悪く笑った。
「君にとっては、庭みたいな場所だろう?」
これが、ダンボール町にミアたちの乗った商用バンがやってくる3日前のことである。




