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時は夕暮れに差し掛かり、街の明りもちらほらと点灯し始めた。この時間になると、人の流れは自然と食事処に向かって動き出す。『パットズ・バー&グリル』も例に漏れず――……経営をなんとか続けていける程度には客がやってくる。一方で、それを遥かに凌ぐ勢いでいつも繁盛しているのが、道路を挟んだ向かいに立つ、ダイナー『ロス』であった。
古いアパートに囲まれるように立つ『ロス』は、この周辺の住民たちの憩いの場だった。安価で美味い料理と、情け深く気前の良い店主に、美人で気さくな看板娘が、多くの客の心と胃袋を掴んで離さないのだ。
そんな『ロス』の看板娘、ブリアナ・ロスを独占しても許される唯一の客が、リリーだった。リリーにとってブリアナは信頼する茶飲み仲間であり、ブリアナにとってリリーは気の置けない存在であった。
リリーを前にしているときのブリアナは、常連客程度の仲では決して見せてくれない穏やかで柔らかな表情を浮かべていた。それ故に、彼女の笑顔で日々癒されている客たちは、彼女に安らぎの時間を与えるリリーの訪れに感謝すらしていたのだった。
「新生活はどんな感じ? 順調?」とブリアナは、ボックス席に着いたリリーの、斜向かいに座って言った。
うーん、とリリーは唸った。
「……まだ右も左も分からなくて不安ばかりだけど、幸運にも知り合いのアパートに住まわせてもらえて、いろいろ教えてもらえる環境にいるから、少しずつだけど、この街に馴染んできた、かな」
「そういう人が身近にいるのは安心よね、こういう都会って、とにかくもので溢れていて、わくわくするけど危険なことも沢山あるから。だからって、油断は禁物よ。トラブルって、不思議と心に余裕ができたときに起こるものだから」
言いながら、ブリアナは頬杖をついた。カフェラテを口に運ぶリリーをぼんやりと眺めて、だらん、と肩の力を抜いて、まだ仕事中だというのにすっかり寛いでいる。
そうね、とリリーは、ブリアナの話に相槌を打った。
「この環境に慣れてくると突然、なにかしなくちゃ、って気持ちになるの。周りのみんながきらきらしていて、自分は置いてけぼりにされたみたいな気分に。それで、お金に困っているわけではないけどアルバイトとか習い事とか始めてみようか、なんて。そういう浮ついた気持ちがなにかトラブルを起こさなきゃいいけど」
「そうねえ……、大抵はお金に困ってアルバイトを始めるもんだけど、リリーの言う通り、社会勉強のためにする人もいないことないわね。だけど、新しいことをするのがいつも良いとは言えないじゃない? 先のことばかり見て目の前のことが疎かになったら、元も子もないでしょ。あなたは十分、頑張っていると思うわよ」
口篭るリリーに、ブリアナは優しく微笑む。
「大丈夫よ、一所懸命頑張っていれば、どんなトラブルでも乗り越えられるから。そういうあなたの姿を見て、助けになってくれる人たちは必ずいるわ。あなたの目の前に座る女が、そうであるようにね」
真っ直ぐな瞳で訴えるブリアナの眼差しに、リリーは照れ臭そうに身を捩った。
「……ブリアナには、感謝してもしきれないわ」
「なら、こうして私の話し相手になってくれればいいわ。そして、うちの料理をいっぱい食べてくれれば、それで帳消しにしてあげる」
「そうして、『ロス』の常連を増やしているのね?」
「なんとでもおっしゃい」
などと茶化して言うが、そんな損得勘定で言っているわけではない。だが、本音を言うのは恥ずかしい――。ブリアナは基本的には情の厚い人間なのである。
そこへ、からんこらん、と新たな客の入店を知らせるベルが鳴った。その音にリリーは咄嗟に振り返り、その大きな目を更に拡げた。
「ジェム!」
リリーの発した名前に、ブリアナは不機嫌そうに頬を膨らませ、首を伸ばして店の入り口を窺った。
名前を呼ばれたジェムは、声のした方向に首を回した。入り口付近の席に座る年配の男たちから、じろ、と睨まれたが、ジェムは全神経を使ってそれらを無視した。
「お仕事、お疲れ様です」
リリーたちのいるボックス席までやってきたジェムに、リリーは労いの言葉をかけた。きらきらと憧憬の眼差しを向けてくるリリーに、ジェムは僅かな罪悪感を覚えた。
「ごめん、待たせたよね」
「ううん、平気。ブリーと話してたから」
『ブリー』は、彼女の母親であるママ・ロスとリリーにだけ呼ぶことを許された、ブリアナの愛称である。
ジェムは、リリーの斜向かいの席に、ちょこん、と腰を預けるブリアナの方を見て、片眉を上げた。
「――仕事を放ったらかして?」
ジェムの言い草に、ブリアナはむっ、とするが、顔には接客中とさほど変わらない笑顔を貼り付けた。
「仕事の合間に、よ。あなた最近、ますます嫌味になってきたわね?」
「そう? 慣れてきたからかな」
「親しき仲にも礼儀あり、って言葉、知ってる?」
「いつもありがとう、ブリアナ」
視線でリリーを示しながらジェムが感謝を伝えると、ブリアナは誰が見ても分かるほどに動揺した。横目でリリーの顔を窺ったり、ジェムから目を逸らしたりしている間に、彼女の眦がどんどん赤く染まっていく。
やがて、こほん、と咳払いすると、つんと澄ました顔で言った。
「ひとりの女性として、当然のことをしたまでよ。あなたって配慮が足りないから」
「そう言うわりには、楽しんでたみたいだけど」
「――ほんとにあなたってば、」
嫌なやつ、と言うのをブリアナは舌の上で転がして、どうにか飲み込んだ。ジェムの言う通り、この時間を楽しんでいたのは間違いないので、いくら彼の図々しさに腹が立つからとはいえ、それを否定するような言動はなるたけしたくない。ブリアナは小さく深呼吸して、心の中で数を数えた。……8……9……10。
「……まあ、いいわ。うちの売り上げに貢献してくれるんなら、このくらい」
ね、と上目遣いで圧力をかけてくるブリアナに対し、ジェムは「善処するよ」と答えた。
それからブリアナは席から立ち上がり、ぱんぱん、と叩いてダイナーの制服の皺を伸ばし、接客に戻る準備を整えた。数秒ほど前まで自分が座っていた席をジェムに譲り、態度はすっかり仕事用の姿勢に切り替わった状態で、顔だけは接客には物足りないが心からの笑顔をふたりの友人に向ける。
「いつものでいいわよね、おふたりさん?」
うん、とそれぞれの個性に合った返事がくる。ブリアナは「了解」、と右手の親指と人差し指で丸を作って見せ、自分の舞台に戻っていった。
軽やかな足取りで去っていくブリアナの背中を見送ったあと、リリーはジェムに訊ねた。
「配慮、って、なんのこと?」
ジェムは大したことではないと肩を竦めた。
「彼女、きみのために休憩時間をずらしてたんだよ」
「わたしのため?」
「自分の母親の店とはいえ、若い女の子がおじさんだらけの場所で、しかも小柄なきみでは姿が隠れてしまうような席にひとり座ってるのが、心配だったんだろうね」
リリーはしばらく黙り込み、それからぽつんと呟くように言った。
「……わたし、気付かないうちに色んな人に迷惑をかけていたのね」
「まあ、この件に関しては、そんなに気に病まなくてもいいと思うよ。最初はきみのためにしたことだったんだろうけど、今となっては、みんなのためにもなっているようだから」
言いつつ、ジェムはちらりとブリアナの様子を窺った。
「この店は、彼女の笑顔が一番の売りだからね」
ジェムの視線の先を辿り、使用済みの食器を片付けながら客と談笑するブリアナの顔や相手の表情を見て、リリーも口許を綻ばせた。
「たったひとりのために起こした行動が、いつしか、たくさんの人のためになる。世の中、意外とそういうもんなのかもね」
ジェムの台詞に、リリーが大きな目で見つめ返してきた。柄にもないことを言った、たかだか21年しか生きてない未熟者が。ジェムは途端に恥ずかしくなって、「……多分」と口を濁した。そんな分かりやすく照れ隠しをする彼に、リリーは、ふふ、と笑う。
だけど、本当にそうかもしれない、とリリーは思う。先日、ひとりの女性の安否を案じて奔走したことが、結果的にダンボール町の人々を救うことになったように、たったひとつの行動が、やがてはこの国の妖精たちを救うことに繋がるのかもしれない。
「――でも、わたしがブリーを独占してしまうのは、お店にもブリーにも良くないと思うから、今度からはカウンター席に座ることにします。そうしたら、みんなの視界から外れることもないし、ブリーも安心してお仕事できるでしょう?」
リリーの提案を聞いて、それはそれでまた店の客引きに影響しそうだな、とジェムは思うのだった。
* * *
都会の一角を流れる川に沿って敷かれた遊歩道に、日光浴の名所となっている古い階段がある。そこの、日光浴用にと階段の至るところに設置された台座の上に、薄いブランケットを敷いて寝そべる若い女がいた。
蘭茶色の長い髪をポニーテールに結んだその女は、階段を駆け下りてやってきた同じ髪色の女に耳打ちされて、掛けていた大きなサングラスを持ち上げた。そこから現れたのは、氷の裂け目の色に似たアイスブルーの瞳だ。
「――つまり、失敗したのね?」
サングラスの女――ミアの反応を受けて、耳打ちしたもうひとりの女はたじろいだ。
「ああ、いいのよ、怒ってるわけじゃないの。最初から、そう簡単にいくわけないと思ってやった作戦だし」
サングラスを外しながらにこやかに釈明するミアだが、それでも仲間の女の表情から恐怖が消えることはない。
……面倒ね。ここであんたをどうこうするわけないのに。
ミアは、サングラスのテンプルを軽く咥えながら、ぼんやりと考えた。
「――それに、まったく成果がないってわけでもないし」
ミアの一言で、先程まで顔を強ばらせていた女の瞳に希望が差し込んだ。その分かりやすい態度に、虫の居所が悪いミアは釘を指す。
「だけど、妖精の力を手に入れるには、あんたたちはまだまだ不相応よ。あの女みたいに"魂の器"にされたくなければ、せいぜい頑張りなさいな。あたしが言いたいのは、それだけよ」
……なんて。運良く"魔法"を使える身体を手に入れただけのあたしが言えることでもないんだけど。
と、ミアは心の中で締め括った。
夕暮れ時のその川辺は、このとき、真夏だというのに凍えるほど冷えていた。
【CASE 1:ダンボール町ホームレス誘拐事件 ― The Adventure of Cardboard City】end.
次話について、只今執筆中でございます。新キャラの容貌など、その他細かな設定を突き詰めていく作業をしつつなので、もうしばらくお時間を頂くことになると思いますが、少しでも早くジェムやリリーたちの物語を紹介できるように頑張ります。
またエルヴェシアでお会いできますように……(⁎ᴗ͈ˬᴗ͈⁎)




