幕末の動乱時、日本は何故植民地にならなかったのか。
(1)なぜ欧米は植民地を欲したか。
18世紀後半から欧米列強はアフリカ、アジアに植民地を建設した。これは「我が帝国はすごいだろう!」という見栄のために侵略したのではない。なぜ、欧米は植民地を欲したか。それは「市場と原料の確保」である。
18世紀後半、ヨーロッパにおいて産業革命が起こった。紡績機など新しい機械の登場によって、これまでの数百倍の効率で製品を作ることができるようになった。これによって問題が生じた。国内市場ではせっかく作った製品も余るようになったのだ。いくら服が売ってあるからといって、自分の必要以上に買わないだろう。
産業革命の機械化によって、国内の需要を供給が大きく上回ることになったのである。
ではどうするか。国内で余るなら国外で売ればよいのだ。
フランスやドイツなど同じ欧米の国には売れない。産業革命で同じように製品が余っている状態だからだ。したがって、アフリカやアジアなど産業革命が起こっていない「発展途上」の国に売ることになる。
だが、「外国からのめちゃくちゃ安い製品?うん、売っていいよ!」っていう国などまずない。自国の産業が破壊されるのは目に見えているからである。当然拒否される。
それでも拒否されたからといって引き下がるわけにはいかない。他の列強に出し抜かれてしまうからだ。そのため、列強はある時は武力をちらつかせながら、ある時は魅力的な製品を提示しながら、あの手この手でアジア・アフリカ諸国を支配下に置いて行った。
当時でも例えばインドは2億人、中国は4億人の人口がいたと言われている。もし、インドを勢力下に置いたら、2億人分の需要が生まれるのだ。
資本主義は金こそすべて。各国はいかにして金を稼ぐかということを考えていた。そして、産業革命によって大量生産が可能になった製品を売るために自国が自由にできる原材料や市場を欲していたのである。
(2)列強の植民地化の方法
その国家を弱らせる一番の方法は何か。国家に限らず、組織を弱らせる一番の方法は何か。答えは内部抗争である。つまり内乱だ。
列強はアジアやアフリカの諸国の後継者争いや反乱に介入することによって足場を固めてきた。インドや中国など、国家が大きければ大きいほど不満分子も多い。そう言った連中に武器を売って恩を売るのだ。
そして反乱がおこるとこう言う。「現地に在住している自国民を保護するために軍隊を派遣します。」
不謹慎だが、自国民が殺されでもしたら儲けものだ。「我が国民が殺された!貴国に謝罪と賠償を請求する。」「こんな危ない国に国民だけ行かせるわけにもいかない!自国民を守るために軍隊を駐留させろ!あと土地もよこせ!」
こうしてあっという間にその国を乗っ取り、植民地にすることになる。
(3)植民地を免れた国
こうした列強の攻勢によって、アジア・アフリカ諸国は次々と植民地にされていった。その中でわずかながら独立を保った国がある(清のように主権はあるものの、影響下に置かれた国は除外。)代表的な4か国を紹介する。
エチオピア王国‥アドゥワの戦いでイタリアを撃退したため。
リベリア共和国‥解放奴隷の国として、バックにアメリカがいた。
タイ王国‥緩衝国として。(緩衝国については https://ncode.syosetu.com/n9066ho/ で詳しく書いています。)
日本
(4)日本に伸びる手。
独立を保った国々の中でも日本は異質である。敵を直接撃退したわけでもないし、バックに強国があったわけでもない。
(1)で述べたことをあてはめると、人口が多い日本は植民地として魅力的にも思える。それに、(2)で述べたような内部抗争は日本でもあった。戊辰戦争である。
イギリスは他の国々でもやってきたように、日本に対しても介入した。現政権に不満を持っている薩摩にグラバーを通じて軍事的な援助を行い、反乱を起こすように誘導した。
一方でフランスは江戸幕府に援助をした。幕府に対して西洋式の軍隊を提案し、映画「ラストサムライ」のモデルともいわれるブリュネなど軍事顧問を派遣した。
そう。列強は他の国と同様。日本にも手を伸ばしていたのだ。
このままでは薩長が勝てばイギリスに頭が上がらなくなり、幕府が勝てばフランスに頭が上がらなくなる。そして最終的に植民地にされる。そのような展開が見えている。
(5)なぜ日本は植民地にならなかったのか。
しかし、日本が他国と違って列強の勢力下にはいることはなかった。
それはなぜなのか。理由は大きく二つある。
①日本側の事情:新政府軍と幕府軍の戦いが予想以上に早く終結したから。
戊辰戦争は1868年から1869年の1年で終結した。
天皇によって薩長に錦の御旗が掲げられると、幕府軍は戦意喪失。紀州や尾張の徳川家はほぼ無抵抗で武器を置き、薩長は江戸までノンストップ。江戸でも勝海舟と西郷隆盛の会談により無血開城が実現した。
薩長軍も、内乱が長引けば列強の介入を招いしてしまうことは考えており、行きつく間もなく奥羽越の諸藩と戦い、あっという間に政権の転覆に成功した。
内乱は様々な勢力が入り乱れてぐちゃぐちゃになってしまうことが多い。しかし、日本はスムーズに新政権の樹立を成功させることができ、諸外国に介入させる隙を与えなかった。
②列強側の事情:欧米はそれどころではなかった。
戊辰戦争は1868年。日本は非常に時期に恵まれていたと言える。
・フランス
もともと幕府に味方していたので、新政府に対しては影響力を示すことができない。
・アメリカ
南北戦争(1862~1865)によって国中が疲弊しており、国外へ目を向けている余裕がなかった。
・ロシア
クリミア戦争(1853~1856)に敗れたロシアは、それからしばらくは国内の富国強兵政策に集中することになり、アジアへの干渉は三国干渉(1895)まで大っぴらには行われなかった。
・イギリス
インドの大反乱(1857~1858)や太平天国の乱(1851~1864)など、植民地にしようとしていた国において混乱が続いていた。それ以来、イギリスは新しい植民地の建設ではなく、既存の植民地の安定化を図る政策に変更した。
(6)まとめ
以上のように、時期や様々な運に恵まれて日本は植民地化されなかった。しかし、新政府は植民地化の恐れを常に抱いており、明治政府はその後驚異的なスピードで近代化を進めていくことになる。
一方、確かに直接的な支配は受けなかったものの、関税自主権や領事裁判権など経済・司法の面で自由が利かなかった日本は、不平等条約の改正を目標に活動していくことになった。
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