アニサキスと孤独の沈黙
これまで誰にも語らず生きてきたが、私には『腹痛を長時間我慢出来る』と言う誰からの尊敬も得れない上に、自慢すれば白い目で見られる悲哀に満ちた特技があった。
我慢は体に毒だと言われ続ける社会の風潮から逆らい続けた青春時代はまさに苦悩の連続である。さぞ他人の目から見た私の姿は阿保らしく映った事であろうが、私らしいと言えばこれ以上なく私らしい特技も他に見つからない。
物は言いようであるが減量に苦しむボクサーのような、自分との戦いを黙々と続ける私の姿勢はストイックであると言えるし、それならいっそ開き直って誇りを持とうと思い公開へ踏み切った次第である。
「たかが腹痛だろうが」そう周囲から「片腹痛い」とバカにされても、私は自分を信じて努力を重ねられる人間である。罵倒にも負けず己が道を貫く『孤独の沈黙者』とは何を隠そう私の事だ。
そんな『孤独の沈黙』だが、実はそこそこ不気味がられている。
沈黙中の私はイースター島のモアイ像に似ているらしく、2人きりで遊ぶ時など腹痛に見舞われたら最後、盛り上がったテンションを話題ごと凍り付かせ笑いの神を皆殺しにするので1部の人からは大変に嫌われている。
今思い返してもやはり私の腹痛の歴史は、あまり良い思い出とは言えないのだろう。
少なくとも話題と笑いの神の屍の上へ成り立っている歴史は血みどろである。
これから話す腹痛譚も『アニサキス』と呼ばれる最恐の寄生虫によって引き起こされた、最悪の思い出である。あれだけ苦しい思いをした腹痛なのに、抱腹絶倒といかないのが個人的には悲しくある。
アニサキスとはインターネットで動画を見ていれば、恐らく一生のうち1度はコメント欄なんかで目にするメジャーな寄生虫である。
私の中では『芽殖孤虫』『日本住血吸虫』『エキノコックス』に並ぶ国内最悪寄生虫四天王の一角を成している。ただ四天王の中でアニサキスの立ち位置は『四天王の中では最弱』『四天王の面汚し』であるが、他の四天王ほど殺意がないだけでアニサキス症が死ぬほど痛い事に変わりはない。
そしてこの寄生虫はなんと言っても非常にタチが悪いのだ。
人体では生きられないので放っといても1週間程度で症状は治まるのだが、治療しようとすれば内視鏡を胃の中へ突っ込んで、原因を取り除けるまでゴチャゴチャとこねくり回されなくてはない。平和ボケした諸君らが考えているような飲み薬でサクッと治す治療法は現在確立されていないのである。
直径6-9ミリの胃カメラを1m近く「オエオエ」言って飲みながら「なんで私はもっと注意して食事なかったのだ!」と人生における辛酸や後悔や涙を噛み締めると、口の中に突っ込んでいるホースのゴムの味がした。そうやってゴムゴムの実の味を想像しながら地獄の苦しみを受け入れる、そんな目に人様を遭わせるアニサキスはまさに最悪の寄生虫と言えるであろう。
「虫は宇宙から飛来してきた地球外生命体だ!」と信じている輩がいるが、彼等の弁を借りるなら寄生虫アニサキスは人類の生活を脅かすエイリアンそのものである。
しかし私にとってのアニサキスは、エイリアンと言うより「金を払って楽になるか、それとも痛みを耐え続けるか……さっさと選べ」と脅すヤクザみたいな連中だ。
ちなみに余談ではあるが、私の感覚では虫歯菌もヤクザである。
そんなアニサキスと一戦交えたのは、5月も半ばの事である。
海で釣ってきたアジが原因で、釣りたての鮮度を過信した私は刺身によって生き地獄を味あわされたのだ。
時間で言えば食後2時間か3時間した頃で、私は風呂に入っていた。
ほろ酔いな頭にシャワーを被って酔いを冷ましてた私にとってそれは、まさに青天の霹靂である。
「まさかアニサキス!?」
魚を食べた事で少し頭が良くなっていたのか、私はすぐに腹痛の原因をアニサキスによる仕業だと断定した。
しかし原因がわかっても私に出来る事と言えば、孤独な沈黙者を気取って耐え続けるのが精々である。
風呂場から脱出した後、タオルを体に巻いて布団へ横になり痛みと戦ってみたが、私の胃酸は怠け者なのかアニサキスを溶かす気配はまるでない。しかも腹痛には波があるらしく、ジッとしている間に私の身体へ本格的な痛みが襲いかかってくる始末であった。
アニサキスの痛みは吐き気を誘った。
体内に飼っている最悪なトラブルメイカーの蛮行に負け、タオル1枚の格好で何度もトイレと布団との間を往復させられた私は、仮にここが古代ギリシャのローマであれば『平たい顔民族代表の不審人物』として歴史に名を連ねていた事であろう。
そんな中、隣の部屋から下手くそな『ラバーズアゲイン』が聞こえてきた。
こんな時に隣人が滅びの歌を歌い出すとは、なんてタイミングの悪さであろう。
この時はまだ私が隣人へ呪いの市松人形を配達するテロ活動を敢行する前の出来事であったため、隣人も真夏なのに真冬の歌を練習することが暫しあったのだ。
「あがががががが……」と私は壁に背を向け、歯を食いしばって耐え忍んだ。
隣から響く怪音波へアニサキスが呼応したのか、再び腹痛は激しくなっていた。
それはまるでヘビ使いの笛の音に反応するコブラのようですらある。
「こ、これは堪らん……」
もはや壁ドンする気力もない。
弱気になっていた私は、インフルエンザの時同様に「このままでは死ぬんじゃないか」と定番の弱音を口にしていた。
2日酔いになったりしても私は言うのだが、どうも私と言う人間は苦しい目に遭うと「このままでは死ぬんじゃないか」と死の影が脳裏へとチラつく大袈裟な性格の持ち主であるらしかった。
しかし言葉通りに今も胃壁を食い破らんと噛み付いている1匹の寄生虫によって私の生涯が幕を閉じるのだとすれば、それはなんと間抜けな末期であろうか。
私はネットに転がっているアニサキスに対して有効とされる手段を片っ端から試す事にした。
正露丸がアニサキスを溶かすと書かれた記事を見れば「溶けろ、溶けろ」と何個も飲み込み、熱いお茶が効くと目にすれば鍋で緑茶をグラグラ煮立てて胃の中へ流し込んでやった。
アニサキスからすれば、突然自分と同じぐらいの大きさの正露丸が上から降って来た上に、高温のお茶が津波のように流れ込み、外からも下手くそな男の歌声が聞こえてくるのだから世界の終わりを思わせる天変地異の連続であっただろう。
しかしそれでもアニサキスはしぶとく私を噛み付き続けていた。
正露丸もお茶もド下手なラバーズアゲインも効果なしである。
得意の「寝れば治るだろ」も意味がなかった。
おかげで私は翌朝になって、孤独の沈黙も限界を迎えた。病院で胃カメラを飲むことを決意させられたのである。この痛みから解放されるのであれば、多少の出費は痛くもないと守銭奴な私には珍しい潔さであった。
腹痛を訴えて飛び込んできた正露丸臭い私を見た医者は、私が正露丸に全幅の信頼を寄せている事を知ると少しだけ驚いていた。
ちょっと小休止のような話。
割とアッサリした仕上がりになってしまった。
それはそうと
ココだけの話、次回は伝説の話になる。