昔話と妖怪乗せてけ婆
地元の蕎麦屋の帰り道。
駐車場から出ようとアクセルを踏む私に立ちはだかるのは、眼光鋭い齢70を超す老婆である。老いぼれてなお勇猛に車線へ仁王立ちする姿は、口を覆い隠すマスクもまって年老いた口裂け女そのものである。
この老婆、当然ながら私との面識はない。
しかし白髪頭の婆さんは「乗せてくれぇ……乗せてくれぇ……」と腰の曲がった老体を労われと詰め寄ってくる。
なんと迷惑な老婆であろうか。
そしてこの老婆は何者なのだ。
思い当たる節が1つだけある私は、高校時代に聞かされた怪談話を思い出していた。
阿保の素質と比類なき阿保の才覚、その両方を合わせ持つポンコツの群れに流されまいと抗う私は10代の貴重な時間を湯水のように浪費していた。
私の周りに自然発生した鮮度抜群な阿保共は、分数の割り算が出来ないくせに隙あらば『阿保の真骨頂』を見せつけてくるので注意が必要である。
思えば連中には幾度となく散々な目に遭わされている。
春は一緒にツチノコを捕まえに山へと登り、夏は死体を探しに土手を歩いた。
秋は焚火と称した火遊びで危うく部室を灰燼へ帰せしめかけ、冬は2階から落とされた挙句、首から下を全て雪で埋められている。
振り返ってみれば中々に悲惨である。我ながら体を張っている。もっと命を大事にした高校生活を送りたかったものである。
10代の頃を思い起こせば何故か運動せずとも体重が減る毎日であったが、それは若さゆえの代謝の良さ等ではなく若気の至りでトラブルばかりを起こす環境が原因だったのかもしれない。
そんな稀代の阿保ばかりが集まってきた我がクラスメイト諸君等から、私は奇妙な噂話を聞かされたことがある。
それはこの辺りで最近見聞きされる不審人物にまつわる怪談で、通称『乗せてけ婆』と呼ばれる話だった。
始めに断っておくが、乗せてけ婆は別に大した話ではない。
全国に名を轟かせる怪談化した婆は、山で山賊の真似をしたり、散発的に現れて通行人に砂をかけたり、老後がよほど退屈なのか高速道路を時速100kmで爆走したりと、バイタリティ豊かなキャラクターの持ち主だが、これらと比べれば実に平々凡々、素朴さを極めている。
ケレン味こそ天下一品だが、不気味な見た目に反して平和主義な妖怪で、特にコレと言った悪さをしたという話を聞かない、これが我等の妖怪婆なのである。
「ソイツ、本当に妖怪なのか?」
そう私は訊ねた事がある。
私の地元には、小太りで奇怪な舞を披露する自称精霊を名乗る謎の中年女性等も目撃される為、この手の不審人物の話題には正直なところ辟易とさせられていた。
曰く件の老婆は帰宅途中の車や、生徒を送り迎えする保護者の前に現れて「乗せてくれぇ……乗せてくれぇ……」と駄々をこねるのだと言う。
考えようによっては、タクシー運転手が話す怪談に登場する『絶対に乗せてはいけない客』の典型にも見えなくはない。
しかしバスが1時間に1本しか走らない田舎ならではの不便さを思えば、そのまま姨捨山に置き捨ててやりたくなる婆の頼みも切実に聞こえ、なんだか不憫に思えてならないのが本心である。
ちなみに乗せてけ婆を乗せるとどうなるかわからない。
ただの薄汚れた婆なのだが、不思議と大人の目には見えないらしい。
かなりの頻度で出没している、結構有名な不審者なので噂を耳にしない訳はないのだが『子供の時にだけ、アナタに訪れる素敵な出会い』と私の担任が嘯くあたり、大人には関わってはならない暗黙のルールがあるのかもしれない。
当たり前だが、乗せてけ婆はメルヘンでもロマンチックでもファンタジーでもない。
子供の時にだけ現れるような、なんだかよくわからん毛むくじゃらの生物でも断じてない。
ちなみに無事に蕎麦屋を脱出した私は、乗せてけ婆がその後どうなったか定かでない。
ただ10年前から妖怪をやっている婆なので、今も元気に妖怪をしていると思う。
あの調子だと下手すればもう10年は都市伝説として地元に君臨するかもしれない。
しばらくの間、私は予期せぬ妖怪の出没に注意しながら車の運転をせねばならぬであろう。




