1 薬師はもふもふに出会う
不惑(四十歳)乙女の恋の話です。
もふもふしっぽは最強。
ふわふわとしたものが、腕をくすぐっている。
柔らかい感触が気持ちがいい。
わたしはゆっくりと目を開けた。
目の前にあったのは、キラキラした明るい色の琥珀が二つ。
違った。琥珀色の瞳だった。
「よかった。気がついた。
大丈夫? どこも痛いところない?」
起きようとしたのに気づいたのか、わたしを上から見下ろしていたその人は体をひいた。
男の人だ。しっかりとした顔の青年。不安げだ。
右肩を下に横たわっていたわたしは、半身を起こした。彼の膝が、わたしの腿に当たっている。
まだ近い。
そう思いながら、両腕や両足を動かしてみたり、全身に意識を向けたりしてみたが、どこも違和感はない。
「大丈夫です。どこも痛くありません」
その人はあきらかにほっとしたように、詰めていた息を吐いた。
彼が下を向いたときに、それがわたしの目に飛び込んできた。
耳だ!
頭の上に二つ、三角形の耳が立っている。
髪の色と同じ、瞳よりもさらに明るい琥珀色の毛に日が当たって艶々としてみえた。
それと一緒に、わたしの腰に何かが当たる。ぱふぱふと。柔らかいような芯があるような。
下を見ると、同じ毛色のしっぽがわたしの腰に巻きついていた。
そしていつの間にか、彼の手はわたしの両肩に置かれていた。
近い! 近い! 近い!
しかも、腰にしっぽとか、ありえない。
初めてあったのに肩に手もありえない。
あわあわするわたしに、その人はにっこりと微笑んで肩から手を下ろした。
「よかった。間に合ったみたいだね」
その人の視線が、ついっと森の方に向けられた。走ればすぐに行ける距離に黒い塊があった。動かない。
わたしは思い出した。薬草摘みのあとにコケモモを採ろうとして、魔イノシシに出くわしたのだ。
わたしが入ったのは森のほんの浅いところ。そこまで魔物が出てくることは滅多にない。滅多にないのに出会ってしまったのだから、運が悪いとしか言いようがない。
今日はわたしの四十歳の誕生日。
自分で自分を祝うのもなんだが、一人暮らしだからしかたない。
ケーキを焼いてコケモモを添えようと考えたのが間違いだったのか、わたしの秘密の採取場所で大粒コケモモを採ろうと考えたのが間違いだったのか。
コケモモを摘んで、さあ帰ろうと歩き出したときに、遠くの木の影に魔イノシシを見つけたのだった。
わたしは気配を消して森から出て、野原を走り出した。魔イノシシはわたしをすでに見つけていたらしい。追い掛けてきた。
四十を過ぎた女なんて、美味しくないのに。
そういえば、
「おいしくなーい」
って叫びながら走ってた、わたし。もしかして聞かれた?
全速力で走って、何かにつまずいて転んだところまでは覚えている。そのまま気を失ったのだろうか。
わたしは片膝をついてこちらをみている彼の顔を、下から上目遣いで見た。
彼はわたしと目があって、ぽっと頬を赤くした。
そんな反応、ここ十年以上されたことがない。
わたしの頬も熱くなった。
* * *
他の魔物を引き寄せて危険だからと、その人は魔イノシシの死骸を魔法鞄に入れ、わたしのそばに戻ってきた。
ついっと差し出された彼の手を、わたしは見つめ、それから顔を上げて彼を見て、小首を傾げた。
この手をどうしろと?
「家に送ろうと思ったのだけど、もう少し座っていた方がいい?」
わたしは慌ててその手を掴んでひっぱり上げてもらい、立ち上がった。
わたしの摘んできた薬草とコケモモの入ったカゴはすぐ横に置かれていた。採取用のハサミや鎌もカゴの中に見える。
よかった、全部ある。
わたしはそれを持って、ぱんぱんとお尻と腿の裏を叩いて汚れを落としてから、彼に向き合った。
「ありがとうございました。もう大丈夫です。一人で帰れますから」
彼は笑みを深くして素早くわたしの手をとり、握り直した。もう一方の手で、カゴも取り上げられてしまう。
「ここで会ったのも何かの縁だから送っていくよ。それに」
その人はわたしの目を覗き込んだ。
「自己紹介もまだだし」
またわたしの腰に巻きついたしっぽが、逃がさないと言っているような気がした。
指笛で野原を駆けてきた白馬に乗せられ、わたしは家へと連れてこられた。
* * *
わたしは、小さな町グリュのはずれにある小屋に一人で住んでた。
林に囲まれ清水が湧き出て、たまにものすごい匂いが立ち込めるポーションや丸薬作りには最適だ。
月に一度立つ市で店を出し、自分が作ったポーションや丸薬、軟膏を売る。わたしは薬師として生活していた。
市に合わせて常連さんが遠くから来て大量に買ってくれるので、昼には売り切れる。町の人は、必要なときにわたしの小屋を訪れてくれるので、それで困ることはない。
売り切ってから市をふらふらするのが、毎月の楽しみだった。
町の人はよくしてくれるが、ずっとここに住んでいた人たちとはどこか一線を引かれている気がする。
わたしはグリュ町の出身ではない。今住んでいる小屋の持ち主は、母方の祖母だ。学校を卒業後、そこに転がり込んだのだった。
祖母も、たまたまグリュ町が気に入って住み着いたと言っていた。町の人たちにとっては、よそ者だろう。
わたしが育ったのは、もっと都会のオラジュ街だった。
両親は小さな店を営んでいた。古いアクセサリーや小物から魔道具らしきものまで、店にはわけがわからないものがいろいろと置いてあった。
骨董品店と言えばいいのだろうか。説明が必要なときには、そう言っていた。
そこで学校に通い、同級生を好きになって彼もわたしのことが好きだと言ってくれた。彼と婚約して、卒業したら結婚しようと約束していた。
あと二ヶ月で卒業というとき、その人は婚約破棄すると言ってきた。運命の人に出会ったから、と。
ふざけるな!
わたしは思わず汚い言葉で彼をなじろうとしたが、出てきたのは悔し涙だけだった。
運命の人というくらいなら、もうわたしへの愛情はないのだろう。
わたしは婚約破棄を受け入れ、些細な額だか慰謝料をもらった。
彼は、卒業してすぐに結婚した。
わたしは彼と婚約破棄したあと、家から出ることができなかった。街を歩くと彼やその相手と顔を合わせる気がして怖かったのだ。
会ってしまったら、自分がどんなことを叫び出すかわからなかった。
卒業式の前日に友人が一緒に出席しようと誘ってくれたけれど、わたしは行くことができなかった。
あんなに楽しみにしていた卒業式だったのに。
すでに単位の習得が済んでいて卒業ができたのは、ありがたかった。
ずっと家にこもっていたわたしに祖母から手紙が届いたのは、卒業式から一ヶ月経った頃だった。
暇にしているんだったら、手伝いにおいで。
そう書いてくれた祖母に救いを求めるように、わたしはオラジュ街を出た。
祖母は、国境沿いの小さな町グリュの薬師をして暮らしていた。私が住んでいたオラジュ街から乗合馬車で丸二日かかる。
グリュ町では、大きな怪我や病は医者がいる街まで出かける。一番近いのは、わたしが住んでいたオラジュ街だ。だから祖母の薬草からつくるポーションや丸薬が重宝された。
「よく見て覚えるんだよ。全部教えるからね」
祖母はそう言って、すべての作業にわたしを参加させた。
やがて、ひとりで薬草を採りに行くようになり、近くで採れない素材の仕入れをまかされ、ポーションや丸薬や他の薬をつくるのもまかされるようになった。
五年経った頃には、わたしは全部一人でできるようになっていた。
そんなある日、祖母は旅に出ると言って小屋を出て行った。それ以来、帰ってきていない。
数ヶ月に一度、珍しい素材が祖母の名前で送られてくる。たまにメッセージが添えられているが、ほぼ素材の扱い方の説明。それが唯一の生存確認だった。
手紙を書いても、それが届く頃には祖母は移動している。わたしから祖母に連絡をとる手段はなかった。
祖母がいなくなって十七年、一人で小屋にいるのに慣れ、町の人たちも薬師がわたしであることに慣れた。
町の人たちに「いい男はいないのかい?」と最初の頃は尋ねられていた。
まだ婚約破棄の傷が癒えていなかったわたしは「いない」と言って、紹介すると言われても断っていた。
そのうち誰も、そんなことを話さなくなった。
グリュ町や近隣にいるわたしと同年代の男性は、みんな結婚していた。
わたしは薬師として生計を立てることができている。祖母の小屋は居心地がいい。
きっとこのまま祖母のように生きるのだろう。結婚していなく子どももいないけれど。
わたしはそう考えていた。
* * *
小屋まで送り届けられたわたしは、しかたなく彼を家に招き入れた。
さすがにそのまま追い返すのは失礼だろう。
今朝焼いておいたケーキにコケモモと蜂蜜を添え、ミントとレモンバームのお茶を入れる。
粗末な木のテーブルについた彼は、両手で湯気のたつカップを包み込み、ほんわりと笑った。
「ありがとう。いい匂いだ。ご馳走だな」
人懐っこい笑顔に、わたしの警戒心も緩んでしまう。
「特別な日なので焼いたんです。おかげで魔イノシシに追いかけられましたけれど」
「特別な日?」
「わたしの誕生日なんです。四十歳の」
「おめでとう。そんな日に出会えて、嬉しいよ」
その言葉を強調するように、彼のしっぽが椅子の後ろで勢いよく振られていた。
「それで、お誕生日のレディ、名前を聞いてもいいかな。
僕はイルマリ。君は?」
「アウロラです。
あの、助けてくださって、ありがとうございます」
うれしそうに笑っているイルマリの耳がぴこぴこと動いている。わたしはその耳に自然に目が惹きつけられた。
「あ、この耳? 僕、半獣なんだ。両親は普通の人間だから、先祖返りらしい。
半獣を見るのは初めて?」
「はい。動いていてかわいいな、と」
あ、わたし、大人の男性に失礼なこと言ったかも。
この人わたしよりはずっと年下だけど、二十歳はとっくに過ぎているわよね。話し方はとてもくだけているけれど、声は低めで心地よい。大人の響きだ。
いい大人にかわいいっていうなんて。
わたしは慌てて言葉がでなかったけれど、イルマリはそんなわたしに微笑んだ。
「うれしい……そう言ってもらえて」
しっぽも強烈に振られている。
わたしはなんとなく恥ずかしくなったのを、ケーキを口に入れて誤魔化した。
年下だけど十分に大人の人なのに、なんか子犬に懐かれているような気分だ。
天井から下がっている薬草や、ポーションなどの話をしているうちに、日が傾いていた。
「ねぇ、また来てもいいかな。君に会いたい」
わたしはびっくりして目を見開いた。とたんにイルマリは悲しげな表情になった。
「迷惑? 君にはパートナーや恋人がいるのかな」
耳をしおれさせてさびしげにそう聞かれて、わたしは思わず首をぶんぶんと横に振った。
「いえ、恋人も夫もいません。さみしい中年の一人暮らしです」
「よかった。僕も誰もいないよ」
そう付け足されたが、なんでそんなこと言うんだろう。
「四十だ、中年だって言っているけど、君はきれいだ」
立ち上がってそう言ったイルマリは、首をかしげていたわたしの頬に手を添えた。
わたしは一気に顔が熱くなった。
そんなことを言う人は、ここ十年以上いなかった。
「また来るね」
イルマリは、白馬に乗って帰って行った。
読んでくださって、ありがとうございます。
今回はもふもふです。今度こそラブラブが上手に表現できますように。
=覚え書き=
・アウロラ・クーシ 主人公、40歳
・イルマリ・カンガス 半獣、30歳