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みらいのおもかげ

作者: 黒姫彩歌

 小競り合いがあった。

 島の衆を引き連れて、私はそれを収めに出た。

 領土争いは珍しくないこと。けれど死者が出た。困ったなと思ったのは、弔いをする坊主がいないからだ。しなびた大根のようだった坊主は、冬が越せずに身罷った。坊守は逃げた。寺領は既にないに等しかったし、それを安堵できるだけの力が私には無かった。

「どうした、引き上げて弔うぞ。母御前(ははごぜ)に頼もう」

「お館様、変な坊主が居るんじゃぁ」

「坊主? 弔いができるではないか」

「じゃがお館様、御津羽様、どうにも変じゃ。どこぞの草かもしれん」

 浜では筵の被せてある死者が戸板に乗せられている。その向こう、島の衆がひょろりと背の高いなまっちろい坊主らしきものを囲んで、問い詰めている。あぁ、あれは怖がっているじゃぁないか。

「お館様に頭を下げんかい、坊主」

「あぁ、構わん」

 蓬髪の若い坊主は不思議な格好をしていた。汚れてはいないが、私たちの着ている装束とはまったく違う格好だ。何やら事情があるらしいが、殺気立った島の衆の間に置いておいては訊くこともできない。

「え……あの、かめらくるーは」

 亀が来る? 竜宮からか。さては、坊主だと思ったが、神主だったか。

「坊主は私たちには分からん言葉を天竺で習ってくるそうだ。ちょいとおかしいのは見逃してやれ。で、御坊、どこの寺へ来た?」

 けれど、不躾にじろじろとこちらを見た坊主は、手に携えていた荷物を何やら漁り、小さく色鮮やかな帳面を出して、一同に見せた。

「俺のことおかしいって、お前らの格好の方がおかしいだろっ? ほらこれ、俺の学生証」

 それはあんまりにも色鮮やかで、見たこともないものだった。

「これは……鮮やかな色の紙に技巧を凝らした絵、このように細かい文字まで書かれておる。我らの使う文字ではないが……天竺にはこのようなものがあるのか」

 三蔵法師が渡ったという天竺は、遠い遠い仏の国――嘘か真かは分からないが、少なくともこの坊主は近隣から来たのではない。それだけははっきり分かる。

「……持ってないの?」

「これを? 我等が?」

「全員じゃなくってさ……がっこ通えないほど忙しい?」

 全員ではなく誰がどこに通うというのだろう。どうにも話が分からない。しかし、坊主は縋るように私を見つめ、続けて言った。

「大人黙らせるなんて相当だと思うんだけど、俺、お前の顔、ざっしとかで見たことないんだよね。無名だけど実力派ってヤツ?」

 確かに力ある地頭ではないかもしれないが、仮にも一党の長だ。ところどころ知らぬ言葉を使ってくるが、無名と言われたのはどうにも悔しい。

「郎党をまとめずにどうやって戦に出る。この辺りで私を無名だと言い切るその態度には私も何ぞ改めなければと思うが……新たにやってきた御坊にそれを言っても詮ないか。ちょうど先ほどの競り合いで死人が出た、彼奴を弔ってはもらえんか」

 悔しいが、弔ってもらえぬ者は往生できない。

 けれど、坊主は顔を真っ青にして黙り込んでしまった。悔しいとは思ったが、虐めたつもりはなかったのに。

「御坊、どうした。顔が青いぞ」

「いや、俺、ゴボウじゃないし……それ、チノリじゃなくて本物の、」

 地の利は我等にあったが、それが関係ない、と。何を言っているのか分からない。

「運悪く矢が当たってな。坊主は冬に死んで、坊守(ぼんぼり)は逃げた。この近辺にはもう坊主がいない。御坊が経を上げてくれねば、この者は往生できんのだ。頼む、助けると思って」

 戸板が運ばれてくる。筵が剥がされると、土気色をした死人の顔が露わになった。手を合わせる。坊主は向こうを向いて、草むらに入っていった。げえげえと胃の腑の中身を戻している様子を見ると、戦で死んだ者を見たことがなかったのか。これはまだ、綺麗な遺体であるのに。

「お館様、あんなひょろっちい坊主が、ここでつとまるじゃろうか」

「天竺には戦がなかったんだろう。慣れるまで逃げ出さぬよう、屋敷に連れ帰ろう」

 天竺の話を聞きたいとも、思った。私はこの安芸灘しか、知らぬのだから。


 坊主は着物の着方も知らなかった。父の残した質素な着物を引っ張り出し、島の女に着せ付けるのを頼んだ。蓬髪で、なまっちろく、ひょろりと背が高いから、まったく衣装が似合わなかったが、そのうち坊主は女どもとは口をきくようになった。

 書状を書いたり訴状を受けたりと、これでも地頭の仕事は忙しい。島の皆が安泰に暮らせるように、することは山ほどある。けれど、時間を見つけて話を聞くことにした。天竺の、いや、天竺ではなくとも、自分の知らないところの話を聞きたい。

「御坊、経は思い出したか。人死には慣れぬことだったか」

「俺、葬式とか知らないし。それにゴボウじゃない」

 つんと顔を背けるのが、小さな(わらし)のような風情だが、これは大の男だ……いや、なまっちろいが。

「経も上げぬ、着物も着れぬ、船も漕げぬではどうやってこの安芸灘で暮らすのだ」

 坊主が恨めしげな視線を寄越す。

「助けてくれたってのは何となく分かるけど、てんじくとか今日とか、わけ分かんねぇよ」

「妙な着物を着ていた。多分あれは都にもないものだろう。……私の役目は敵方から島と郎党を守ることだ。太刀も履いていない異国人を殺すことではない故、安心してここにおれ」

 怯えているのかもしれない。そう思って、笑って言ってやると、いくらか安堵したような坊主が頭を下げた。

「あーーーー、うん。助けてくれてありがとう。これ先に言うべきだった」

「構わぬ。そなたは坊主ではないにしろ、戦をする者ではないと見える。そんな柔らかな手、貴族か坊主か神主か、それ以外には思いつかんのだ。私はこの安芸灘しか知らない。だから御坊に都を知る人に会ってもらおうと思ってな。迎えに来た」

「――みやこ? それって鳴くようぐいす平安京、みたいな?」

「ははぁ、京を知るか、やはりそなたは何ぞ学を修めた者だな」

 笑うと、ふてくされたように坊主は言った。

「頭いい方じゃないけど、そんなふうに笑われると、すっごい傷付くんだけど」

「すまんな。ようは分からんがそなた、面白き御仁だ。さて、何と紹介するか」

 笑いすぎて涙が滲む。大人を相手に駆け引きをしないでいいとは、こんなにも楽なことなのか。名前も知らぬしと言うと、坊主は大真面目な顔で名乗った。

日野(ひの)千尋(ちひろ)。身分とかどうでもいいよ。てか良くないんだけど、俺マジ普通のこうこうせいだし」

 普通の、何と言ったか。しかしそれより気になったのは、あの日野氏だというのか。日野氏は天竺か、あるいはそれに準ずる場所に人をやるほどに力をつけているというのか。

 しかし、名乗られた以上、私も名乗らねばなるまいと、思った。

藤原御津羽(ふじわらのみつは)、小さい島だが先だって地頭の座についた。郎党はみな家族、私はその皆を守らねばならん立場。この御津羽(みつは)、身命を賭して乱世を生き抜く」

 それは、地頭の座を継いだときからの、いや、その前、ずっと幼い頃からの覚悟。この島をお頼み申すと言われ続けた、己の。

「御津羽ちゃん、俺をどこに連れて行く気」

 この島で都を知るのは、都で生まれて育ったたったひとりとその乳母しかいない。

「喋ることを許されたならば、お方様、と呼びかけろ。我が一族で地頭の私より偉いのは、唯一、私の母上だけだ」

 何を思ったか、真剣な面持ちで聞かれた。

「それってさ、いきなり世界を救えとか言われちゃう系?」

 真剣に聞かれたから、大真面目に返してやった。

「この三千世界の乱世、太刀も持たぬ千尋に救えるわけなどない。安心しろ、無理は言わんのが信条だ」

 だが、真面目に答えてやったのに、何とも言えぬ顔をされた。何故だ。

「何だその顔は。言いたいことは言え、訊きたいことは訊け。私にならば許そう。……なぜ今にも泣きそうな顔をする」

 手が伸びた。鼻の頭を赤くした千尋に、伸ばした手を握られた。

「わけ分かんないけど、わけ分かんないかもしれないけど、多分勉強したはずの歴史の中に、きっと御津羽ちゃんたちがいたんだ。知らなくてごめん。これ、時代劇のびっくりどっきりとかじゃなかったらほんと、全然違う時代に来ちゃったんだ。何日もネタばらししないとかありえないし。……俺、ここで、帰れるように、生き抜くよ」

 謝られた――? 千尋が何を言っているのか、私にはまったく分からなかった。母ならば、答えが分かるのだろうか。生きようとする思いは確かに大事だが、それ以上に大切な何かを言われた気がするのだが――分からなかった。


阿頼耶(あらや)様、御津羽様と客人をお連れしました」

 母のおつきのひさのは、母の乳母だったそうで、今でも島にそぐわぬ堅苦しい佇まいの女だ。都人とはみんなこのようなものなのだろうかと、いつも思う。

「母上、御津羽です。先だって話した客人が落ち着いたようですので連れて参りました」

「――入りゃ」

 母の鈴のような声が聞こえると、ひさのが簾を巻き上げた。そこから室内へと入る。

 千尋を後ろに控えさせて座った。母は千尋が気になるのか、じっと視線を固定している。

「御津羽殿、そちらが正体不明の御仁とな」

「日野千尋殿です、母上。御坊ではないと否定しておられるが、先日申し上げたとおり、太刀や槍を持てる手でも、土を耕す手でも、船を漕ぐ手でもない」

「口を開くを許そうぞ、日野殿。なにゆえ安芸灘に参られた」

 もぞもぞと千尋が動くのが気配で分かる。しゃきっと座れと言いたいが、母の手前、指摘することは叶わない。

「――俺は瀬戸内の生まれで、育ったのも瀬戸内で、島育ちじゃないけど他の海は見たことない。同じ瀬戸内だと思うんだけど……時代か次元が違うんだと思う。俺がいた瀬戸内には、戦争のせの字もないし、武器は持っちゃいけないほうりつだし、自分の手で漕ぐ船ってけんしゅうに行った先でかったー体験しかしたことないし……」

 いくつも知らない言葉が混じっている。それは母も同じようだった。

「分からぬ。瀬戸内とは何じゃ。ここは安芸灘、これを海と知り、海で育っておるならば、船に乗ったことはあろ」

「ふぇりーで、宮島に、くらい」

 また、知らない言葉だ。たまりかねて訊いてしまった。

「千尋、そのふえりやみやじまとは何のことだ。この安芸灘に、そのようなものはない」

 難しそうな顔をして、千尋が腕を組んだ。

「えぇと……そうだ、ゆそうせんと厳島って言ったら、分かる?」

「厳島ならば分かるが。母上はゆそうせんとやらをご存じか」

 母も、頭を横に振った。

「分からぬ。確かに御津羽殿の申すとおり、この御坊は我等の知らぬ知識を存じておられるようじゃ。与するとなれば生かし、離反すると言うなれば弑すがよかろ」

「は、仰せのままに」

 だが恐らく、千尋は与しも離反もしない。多分、分かっていない。千尋の言葉が分からぬように、恐らく私たちの言葉を千尋は分かってはいないのだろう。

「日野殿、そなたは厳島の禰宜かえ」

「千尋でいいよ、オカタサマ。俺はゴボウでもネギでもない。野菜じゃなくて、ちゃんと人間」

 禰宜を葱と間違えたのか。勉強などしなくても分かりそうなことも、分かっていない。しかし、母には何かが分かったらしい。扇で膝を打ち、ずいと身を乗り出した。

「御坊は寺に居る坊主の敬称、禰宜はいわゆる神主じゃ。日野殿よ、そなたのその見識、明で得たか、天竺で得たか、我には区別がつかぬ。したが日野殿、そなたは何れでもなくみらいより参られたようじゃな。みらいのことは誰にも分からぬ。みらいの意味することも、この島では我しか分からぬであろ」

 母が言った言葉は、千尋には伝わったようだった。私には、分からない。みらいとは何だ。誰にも分からぬみらいとは、いったいどのようなものなのだ。

「我は女の身でありながら知識を求め、疎んじられ、この安芸灘まで流された……したが我が求めるものは変わらず」

 母の知識を、父は買った。この小さな島を維持するための、母の知識は武器となった。幼い頃より習い覚えたことは多いが、母の知識には一歩どころか十歩も百歩も及ばない。

「母上が、求めるもの?」

 それは私にはないものなのか。この千尋が持っているのか。

「この世の先じゃ。我は、我が子は、いつどうなる。来たり来る世を、我は知りたい」

 来たり来る世。これから何が私たちに起こるかを知りたいというのか。知れば私は、皆を導けるのだろうか。けれど、ただの人に、どうやってそんな先見の力が宿るというのだ。

「えーっと。この世の先、って……オカタサマは「みらい」が分かる?」

「先がどうなるやは我には分からぬ。しかしその言葉の意味せんとすることは分かる。して、みらいを存じる日野殿は、我等が一族がどうなるや、ご存じか」

 母は大真面目に話している。返す千尋も真剣なのが分かる。それが分かるだけに、何を話しているのか分からないのが悔しい。まだ、まだ足りないというのか。

「俺は歴史とかよく分かんないし、ここがいつかも分かんないのに……それに俺、御津羽ちゃんに言われるまで、御津羽ちゃんたちの名前も、知らなかった」

「千尋、母上に馴れ馴れしく……」

「構いませぬ、御津羽殿。この者の知識、見識、我が引き出そう。日野殿よ、我に教えてたも」

「む、無理、無理! 教えてもらうのは俺の方だし……あ、きょうかしょ! たぶんにほんしある!」

「宋志なれば分かるが、にほん志とな。それはいずこの国じゃ」

 国なのか。母の言葉に、千尋の顔が明るくなるのが分かる。

「ここ、ここが瀬戸内だったら、ここもにほんの一部!」

「ほう……これはまた古きこと、日の出ずる国、か。遙か推古帝の昔、斯様に言上せしは厩戸皇子よな。日野殿、ここは安芸灘、安芸国じゃ。推古帝の国は確かにひとつであった。したが幾度もの戦を経て人心は帝より離れ、足利将軍家すら今は体を為して居らぬ。帝を守らせたまう為に某かを為そうとしても、我が藤原家は安芸灘から動けぬ……良き知恵は無いものか、日野殿」

 母がここまで饒舌になることは少ない。厳島の神主と古い書物を紐解いているときくらいしか、記憶にない。千尋はいったい何者なのだ。

「俺、将軍って暴れん坊将軍とかみりしら」

 確かに派手な動きをしない将軍も、また、その力を世に誇示した将軍もいるが、よりによって子どものように暴れん坊などとあだ名されるのは、いったい何代様のことを言っているのか。

「千尋、それは何代将軍のことだ?」

「え、将軍っていっぱいいるの!」

 千尋はものを知っているのか知らないのか。私は何をどういったものかと母を見たが、母も目を丸くしていた。千尋はつくづく、珍しいものを見せてくれる。

「古に征夷大将軍の位を帝より賜ったは、大伴弟麻呂がはじめ。鎌倉公方が幕府を開き、北条氏に操られるを痛み、室町公方が帝を奉じ、今また公方は力を失いつつある。ご存じないか」

「くぼーって、なに?」

 聞き返されてしまった。いや、流石にそれは私も知っている。

「将軍だ。そう覚えておけばいい。千尋は師を持たなかったのか」

「先生ならいっぱいいたよ。これでもほいくえん三年、しょうがっこう六年、ちゅうがっこう三年通ったからね」

 また、分からない言葉が山とある。しかし、師のいるところに通ったのがその合計年数だというならば。

「何に通うたは分からぬが計十二年、何を習うた。日野氏と言えば藤原朝臣の血を引く一族であろ、よほど師に恵まれなかったと見える」

 呆れたように母が言った。同じ言葉をそっくり投げつけてやりたい。阿呆なのかとも思うが、本当にいったい千尋は何者なのだ。

「千尋。日野氏は乱世を招いた。帝は御心を痛めていらっしゃるそうだ。京の都は荒れに荒れており……母上の心も、また」

「良い、御津羽殿。この物知らぬ日野殿が知っている事実こそ、みらいでの現実。日野殿、そなたの世に藤原氏は居るか」

「あ、友達に藤原って奴、いるよ。先祖とか正直俺もそいつもさっぱり分からないけど、天皇陛下はちゃんといる。軍隊持たないことになってるから将軍はいないけど、そうり大臣がいる」

「帝が……おわす」

 ほう、と夢を見る少女のように、母が胸に手を当て、声を零した。

「軍がないとは千尋、武士が居らぬということか。どうして国を、郎党を守るのだ」

「俺の住んでるトコには、武士なんていない。戦争、ないもん。戦う必要、ないじゃん」

 私が膝を詰めると、母も、じりと膝を寄せて詰め寄ってきた。

「争わぬ世界、とな? そは帝が願う世界じゃ。帝が願い、叶うと申すか、日野殿」

 千尋が僅か、後ろに下がった。そして、頷いた。

「俺の知ってるにほんには、戦争、ないよ。武器持っちゃいけないし、たぶん世界一平和。昔戦争して負けて、そのあとはずっと戦争してない。たぶんみんな、戦争なんかしたくないって思ってると思う。俺も殺されるの、嫌だし」

「千尋、それはいつの話だ、五年後か、十年後か」

 身を乗り出した私を、母が扇で制した。そして、首を振って静かに言った。

「我等が死して後の話であろ。日野殿が申すとおりの日出ずる国がひとつの国として帝にお仕えする世は、簡単にはやってこぬ」

 守護職が家臣に謀反され、あるいは地方豪族が力をつけ、相争う時代だ。ひとつひとつの領土はそれほど大きくなく、故に領地を広げようと諍いが絶えない。

 母のそれは、諦観だった。


 千尋は、きょうかしょという不思議な書物を持っていた。薄い紙の両面に文字が書かれており、それが滲んだふうもない。経文のように文字は整っているが、漢字ではない文字も多い。源氏物語のように彩色は施されていないが、精巧な絵がたくさん描いてある。

 にほんしだというそのきょうかしょを読み解くと、さまざまなことが知れた。あの山名と細川の係争を、応仁に起こったことだということで応仁の乱と名付けていた。

 千尋は興味が無いから知らないのだと言った。贅沢な話だ。文字が読め、計算ができるのに、それが当たり前のことであり珍しくないという。みらいというのはものすごいところだ。

「千尋、恵まれた環境で育ったろうに、興味がないで片付けるとは。この薄い紙を作り、墨ではないもので本を作る術、興味がない者にまでこのような書物が流布すること、それらがどれほどありがたいものか、千尋は分かっておらんぞ」

「分かってなかったさ、ここに来るまで。なーんにもないから、あるのが当たり前なのがすげーって、考えたし。でもさ、やっぱり歴史知らなくたって、生きていけるじゃん」

「日野殿よ、そなた今、困っておらぬのか」

 母の言葉に、千尋はぐっと息を飲み込んだ。俯いて、そりゃ、と小さく、力なく言った。

「帰り方が分からないから、マジ困ってる。けどさ、歴史知ってたら、俺、帰れるの?」

 それには答えはない。溜め息をついた。

「千尋の身に何が起こったのか、私には分からない。母上は何となく分かっているようだ。先のことは重々考えて決断する。このきょうかしょとやらに反することであっても、それは私には分からないことだから、できることを精一杯やる。それだけだ」

「だよねー」

 領地のやりとりは、命のやりとり。群雄割拠と記してあったが、そんなに格好の良いものではない。もっと泥臭く、血生臭いものだ。

「日野殿よ……そなたが今ここに居るが故により、みらいが変容するやも知れぬ。早う帰るなればそのように、厳島におわす宗像(むなかた)三女神に祈って参られよ」

 神妙な面持ちで、母が切り出した。いったい、何のことを言っているのか。

「母上、その、みらいとやらいうものは、変わりうるのか。このきょうかしょなる書物に書かれておるがみらいなれば、この書物は役立たずに成り下がるということか」

 この世の先を記してある書物。織田某が現れ、豊臣某が現れ、徳川某によってまとめられると記してあるこの書物のとおりにいかないのならば、私たちは。

「よう分かってくりゃった、御津羽殿。みらいは幾重にも分かれておる。ひとりがひとつを選び違えたなれば……右ひとつを選びたみらいと左ひとつを選びたみらい、ふたつの分かれ道が幾重にも重なりたれば……」

 母が手に持つ扇が小さく震える。

「我が母は、陰陽の守に連なる血を引く。星の瞬きの読みをひとつ誤りたら、望む先は得られぬものと昔、よう話しておった」

 母の母であれば、私には祖母。けれど私にはそんな不思議の力はひとつもない。

「え、え……ちょっと待って、みらいがどうなるんだよ、御津羽ちゃん」

「おそらく、千尋がいるせいで、私と母上はみらいとやらの指標を得た。このきょうかしょが示すみらいとやら、我等が如何様な行動を取ったかで変わりうる。変わってしまえば、その書物にある千尋にとっての事実が、この先起こらぬかもしれんということだ」

「――っちょ、それ、俺、帰るみらいがなくなるってこと?」

 私は母と視線を交わした。母は千尋の方をまっすぐに見て、ひとつ頷いた。

「宗像三女神は流れるものが神、時は移ろい流れるという、なれば時すらも女神が一存となるやも知れぬ。みらいからの(まれびと)が我等を助くや否や、否の神託が出たなれば我等はそなた、日野殿を」

 殺さねばならぬ、と言った母の言葉に、私は頷いた。神が定めたならば従おう。

「祈れよ、千尋」

 肩を小突いて、私は母の前を辞した。


 千尋が来て、何度目の戦だろうか。けれどさすがに帰れそうにない事態になって、私は狼狽えた。相手は因島の村上氏だ。大きすぎる。千尋には現実のことだと分かっているのだろうか、戦装束で赴くと、困ったような顔をされた。

「どうして、帰れそうにないって分かるの」

「村上はこの島が欲しい。私は渡したくない。いろいろと手を尽くしたが、やはり女が地頭ではままならん。千尋は落ち延びよ」

 頭ひとつ分以上高く、けれど身幅は島の男衆に比べると半分ほどもない千尋が、男のように腕を広げて、私を抱きしめた。

「……御津羽ちゃんは、戦いたいの」

 戦いたくなどない。書物を読んで、船を漕ぎ、漁をしてその日暮らせれば――本当はそれだけでいいと思うのだ。けれど私は地頭、そうはいかない。

「頭領だからな。郎党を率いて戦うのが、私に課せられた役目だ。戦わないでいい道があるならそれを模索するのも役目だが、因島にとって我等はあまりに小さく、交渉するにもあちらに利がない」

 厳島の神主に宛てた書状を、千尋の手に握らせた。

「これを、厳島まで持っていけ。船は用意してやろう」

「え、でも、御津羽ちゃんは」

「千尋は帰ることだけ考えるんだ。私にできるのは、ここまで」

 何度も戦を重ねてきた。今回生き延びたとしても、また次の戦の支度をしなければならない。私はいつまで戦装束を着ることができるのか。

「――俺、御津羽ちゃんに生きててほしいよ」

 千尋の声は鼻声で、しょうがないなと高い位置にある頭を撫でた。

「私の命があって、いつかのみらいとやらに千尋の命がある。同じこの安芸灘に。そうだろう? 出会えぬ筈を引き合わせてくれた神仏に、私は感謝するぞ。お前との会話は知らぬことばかりでそれなりに楽しかった」

「何その過去形」

「みらいというのは明日の明日の、そのずっと先の明日なのだろう。私が今ここに居ることを、ずっと先の明日の千尋が覚えていてくれるというのは、何だかとてもすごいことのようで、誇らしい。さぁ、行け」

 千尋の腕の中から、離れた。

 たぶん、今生の別れ。

 であるならば、私は笑顔でいよう。

「戦はなくなるのだろう?」

「うん、俺たち、戦争、してない」

 鼻声だ。泣いているのか。意地でも見上げてなんかやらない。

「ならばそれで良い。いつかこの安芸灘に、戦のない明日が来る。ならば私はそのために矢をつがえ、刀を振るおう」

 私は千尋に背を向けた。振り向いてはいけない。だって泣いてしまうから。


 あぁ、戦のない世が来るのなら、わたしは書物を読み、漁をして、それから、それから。


 何度、切り結んだか。

 覚えていない。

 いつ、海に落ちたか。

 覚えていない。


 けれど私は竜宮の(きざはし)を、見た気がする。

 私は、明日の明日の、ずっと明日の千尋の心の中に。

 本当にそれならば構わないと思った。

 水面が遙か頭上に見え――









 流れ着いた扇を拾った阿頼耶は、白い浜に伏して泣いた。

 娘のために、たった一度だけ、涙を流した。

 千尋はそれを、知らない。


 未来の千尋には、知るすべがなかった。


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