赤羽利子の正体
北海道大学、生物研究所
転移後、日本に上陸してくる魔物を最前線で研究するために建てられた施設は、その規模をどんどん拡張してゆき、現在はこの世界のあらゆる生物を研究する日本屈指の規模を誇る施設となっていた。当初は半魚人達を効率よく駆除する方法が研究されていたものの、産業、医療に有用な生物が次々に発見されたことで、多くの研究機関と企業を巻き込んだ一大研究都市が形成されたのである。
研究員、学生、社員、国の職員・・・様々な人間で賑わう構内において、一際厳重な警備が敷かれている場所があった。そこには「生物研究所」の標識のみ掲げられているものの、一般の人間を厳しく制限しているため、内部を知る者はほとんどいない。
危険生物研究所、通称レベル5の最下層で赤羽利子は検査を受けつつ留学のための勉強を続けていた。
調子が悪い・・・体が重く、ちょっとした吐き気もある。
利子は自身の体に起きた異常に心当たりがあった。
「はぁ、こんな体になっても生理は来るのかぁ・・・」
男性には生理に該当する症状は一切ないらしい・・・世の中不公平じゃないだろうか?
怪物になったとしても逃れられない症状に、利子のメンタルは削られてゆく。
「・・・国崎さんは子供が欲しい時は連絡してほしいって言ってたっけ。」
検査が進む過程で、利子は獣人種を含めた多種多様な種族と交配できる事が判明している。しかし、見た目がアウトなため自然妊娠は不可能と判断した名も無き組織は、利子に対して精子バンクを開放していた。この処遇は利子の種族特性を高く評価した組織が、日本に古来から存在している大妖怪を増やし、その人口構成比率を上げようとしているからである。
留学から戻ったら、何時でも好きな時に無料で利用できるのだが、利子としてはパートナーができない前提で話が進んでいる事に納得がいかなかった。
「何で私が結婚できない前提で話が進むかなぁ。人間に戻れたら・・・」
戻れなかったら?
人とは程遠い体になった今、本当に元の体に戻れるとは思えなくなってきていた。今の体は好きに形を変えられるので、男性好みの体にしてみようと思った時があったものの、大幅にバストサイズを上げたはいいが、あまりにも空しくなったため、それっきり二度とする気にはなっていない。
「赤羽さん。調子はどう? 」
「今回はちょっと酷くて・・・」
スピーカーから聞こえた声に利子は素直に答える。声の主は主任研究員の久瀬であり、利子の検査を行う責任者且つ、数少ない女性研究者とあって利子は今の症状を伝えやすかった。
「隣の施設に緩和効果が見込める部屋を用意してみたの。気分転換も必要でしょう、今日はそっちで過ごしてみる? 」
「外とか見れますか? 」
「生憎、地下に変わりないけど、日光浴の気分が味わえるわ。」
利子は施設に入ってから太陽をあまり見ていない。入る時は人目につかなければ外出できるものと思っていたが、許可が出ない限りずっと地下で暮らすことになるとは考えていなかった。
隣の施設へ移動準備が整うと、利子は勉強道具一式を持って専用通路を移動してゆく。この通路は収容者専用となっていて、利子以外が通ることはない。
視線を感じる・・・
誰ともすれ違わないものの、カメラが設置されているので誰かに見られているのは分かる。まるで実験動物にでもされた気分だ。
「部屋に入ったら手動で扉を閉めて下さい。」
久瀬に言われ、利子は重厚なガラス? の扉を閉めて部屋を見渡す。
「えーっと、久瀬さん。部屋がスケスケなんですけど・・・」
新しい部屋は三方向が分厚いガラス? のような壁で覆われていて、一方には薄い透明なガラス越しに変な機械が見える。利子には何が何だか分からないが、部屋にはベッドもテーブルも用意されているので、予定通り勉強を再開した。
「外観以外は良い感じ、アロマも置いてあるし・・・」
部屋は外から見える構造になっているが、家具は高級感あふれる落ち着きのある物で統一され、テーブルにはアロマキャンドルが置いてあることで久瀬の心配りが感じられる。
「新しい部屋はどう? 今は調整で人を入れているけど、終われば人はなるべく入れないようにするわ。」
「1人ならかなり落ち着けそうです。それに、何だか体の底から暖かくなってきたようで。」
「ここには特殊な暖房を入れてあるの。不快に感じたら言ってね。」
落ち着いた利子は参考書を読み始めたが、その様子を診ていた研究員は険しい表情でモニターを見ていた。
「主任、対象に変化は感じられません・・・あの、本当に何も伝えなくて宜しいのですか? 」
「何か問題? 明日には必要なデータが採れるでしょう? 」
部下の研究員は実験内容を被検体に伝えない事を久瀬に問うが、軽くあしらわれてしまう。この被検体は死刑囚を利用した実験体ではなく一般市民であり、こんな非人道的な実験を行っていいはずがない。
部下の研究員は倫理観の狭間で葛藤するが、結局のところ結果が楽しみでもあった。現在、実験室の向かいには高レベル放射性廃棄物が置かれており、人間が入れば即死するレベルの放射線下にもかかわらず、被検体は「体がポカポカする」と言いながら勉強を続けている。既にサンプル調査で放射線耐性が高いと判明していたが、ここまでとは考えてもいなかったのだ。
「活動を停止したようです。」
「意外に早かったわね。線量が下がったら回収よろしく。」
数時間後、動かなくなった利子を確認し、研究員達は解剖の準備を始めていた。倭国の妖怪で実験した際は人間と変わらない時間で活動停止していたため、被検体の異常性がわかる。研究員は早く解剖に移りたい気分を押さえつつ、放射線遮断壁を下ろして防護服に着替え始めたのだが・・・
「はっ! 寝てません! 寝てませんよ! 」
心地よい放射線が遮断されたことで、異常を感知した利子は居眠りから目覚めて勉強を再開した。
「あり得ない・・・こんな生物見たことない。」
研究員が驚くのも無理はない。自然界には放射線に強い生物が存在するものの、強烈な放射線を浴び続ければ一部の微生物を除いて死滅するのだ。それは妖怪に関しても同じであり、今回の実験結果から、新しいカテゴリーが作られることは確実である。
強烈な放射線に晒された利子の観察は数日間に渡って行われ、「全く異常がみられない」という結果が得られたのだった。
数日後
久瀬は各部署から送られてくる検査結果を確認し、国への報告書を作成していた。
赤羽利子からは新薬、新素材開発に極めて有効なデータが得られており、留学を中止して実験を続けることを強く要望している。
転移後に変異したことで、魔法学における何らかの作用があるのは確実だが、科学分野のみでも大きな進歩が約束されているのだ、留学なんてさせはしない。しかし、国の職員にどれ程有望な結果をもたらすかを何度説明しても理解してくれないどころか、レベル5の生物は収容区画以外に出すこと自体禁止されているにもかかわらず、昨日も「車の免許をとらさせる」などという理由で施設外に連れ出していた。甚大な生物災害を引き起こす生物という自覚はあるのだろうか? いや、ないだろう。国は被検体を国民と認識して繁殖させようとしている。被検体の担当職員は「こんな国民がいたら原発の廃炉は10年で終わっていた」などと話していたが、正気の沙汰ではない。
久瀬は何とか留学を阻止しようと動いていた。研究所が何を言っても国は方針を変えないだろう、だったら留学できない状態にしてしまえばいい。被検体を長期間活動停止させることができれば実験を続けられるのだ。しかし、日本全国から専門家と研究員を集めても被検体を活動停止に追い込むことはできなかった。
第一に行ったのは薬物の投与だが、効果のある薬が何一つなかった。次に収容室の気圧を下げてみたものの、宇宙空間でも活動できる事が判明していたため、時間の無駄となる。次に低酸素状態にしてみたのだが、酸素を無くしたとしても代用できるエネルギーが豊富にあり失敗。一酸化炭素や硫化水素も効果なし。硫化水素に至っては逆にエネルギー源として利用していたことが後に判明する。彼女から提供された触手を王水や強アルカリに漬け込む実験をしてみたところ、被検体は強力な耐性を持っているだけでなく、環境に適応する能力が恐ろしく高い事が分かった。
実験はどんどん過激なものとなるが、マスタードガス、VXガスを収容室に充満させた実験でも被検体は何食わぬ顔で勉強を続け、日課の昼寝までしていた。後の検査で残留物質が中々消えず次の実験に支障となったが、最早活動を止められる実験を考えつかなくなっていた。
「ごちそうさまでした。」
大鍋を平らげた利子は、料理を作ってくれた研究員達に最大限のお礼をする。内陸県出身の利子にとって、てっちりは初めて食べる料理であり、とらふぐを余すことなく使った鍋の美味さに感動していた。
フグの出汁、フグの身、フグの肝・・・噂は聞いていたものの、こんなに美味しいものが存在していいのだろうか?
利子はフグ毒を知識で知っているものの、料理として提供してくる物は安全だと思い込んでいたが・・・
「喜んでもらえて嬉しいわ。」
何時もどおりの対応をする久瀬だが、最早自棄になっていた。被検体は脊椎動物のような何かに形を似せているため、そもそもテトロドトキシンの効果は見込めない。
対する利子は「様々な検査と地下暮らしが長引いたことで、私のために研究員の皆さんがお金を出し合ってご馳走してくれた」と研究員達の心遣いに感謝し、留学の勉強に励むのだった。
短い期間ながら、研究員達はやることをやり切ったのである。
利子の検査期間が終わる最後の月、危険生物研究所へ突然の来訪者があった。
「何処から入ったの。ここは関係者以外立ち入り禁止よ。」
「はい、許可証。」
白石小百合は主任研究員にゲスト対応の許可証を見せる。
「研究成果を教えてくれるかしら? あれはどうすれば殺せるの? 」
被検体の殺傷方法は当初から組織に伝える事になっているが、一向に成果の報告が無いことで小百合は直に聞きに来たのだった。気の早い鴉天狗の問いに、久瀬は判明したことのみ答える。
「ちょっと! それじゃ何もわかってないじゃない。」
「この研究データは組織に報告するものです。被検体を機能停止に追い込むなら、極低温で冷凍するか超高温で焼却するのが確実です。」
小百合としてはそんな事を聞きたいのではない。対人戦闘で利子に致命傷を与える方法が知りたかったのだ。
「使えないわね。」
「科学にも限界があるのです。」
「やっぱり専門家を呼んで正解だったわ。」
「 ? 」
小百合が合図すると同時に、研究室に二足歩行の爬虫類達が入室してきた。
「なっ! 何ですか、あなた達は。」
「ヴィクターランド、基礎生物研究所、魔族部門長ハイゼンベルグだ。」
小百合の後ろから続々と入室してくる竜人族は、日本の研究員達を圧倒するには十分だったが、その後ろから申し訳なさそうに国の職員も姿を現す。
「いきなりすみません。検査に行き詰っていると伺いましたので、ちょうど来日していたハイゼンベルグさんに来ていただきました。」
「・・・ふざけるな! 」
国崎は事の顛末を説明するが、何の事前説明もなく自分の研究室に踏み込んで来た輩に久瀬は激怒する。
「あの小娘がそうか? 不定形だが、ミミズ共ではないな。ふむ。」
「古の魔族に酷似しています。魔術回路を確認すれば確定できます。」
「一目でわかるなんて流石です。これが回路になります。」
久瀬が国崎を一方的に罵倒している中、ハイゼンベルグは利子の観察を行い、部下は機材を準備し、小百合は利子の魔術回路をモニターに表示させた。
「これは・・・この魔術回路はアレクサンドラ家の紋章そのもの。」
「やはりクジョーの娘だったか。」
モニターに映し出された幾何学的な模様の魔術回路を見た瞬間、竜人族の専門家達は利子の種族を確定させたのだった。
研究所がザル警備過ぎる
ノクターン版で書く予定ですが、依瑠と真月が大妖怪の見学として施設を訪れています。
利子と同じ種族で作中に登場しているのはアレクサンドラ女王とヤン王子です。
あまりにもしぶといので暗殺は成功しません。クジョー族は暗殺教団泣かせの種族となります。